日本宗教学会第59回学術大会
2000年9月14日


「脳死」臓器移植と真宗

―Web上「坊さんの小箱」アンケート調査から―

龍谷大学大学院D2 真宗学専攻 石田智秀

はじめに

 本稿はWeb上の「坊さんの小箱」(http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/)で本年6月28日から浄土真宗本願寺派の僧侶の方を対象に実施しているアンケート調査の中間集計(〜9月5日)を踏まえたものである。(アンケート調査は現在も実施中である。)



1.発表者の立場

(1)浄土真宗本願寺派の僧侶である。
(2)「脳死」は 脳死 ではないと考えている。
 1997年10月に制定された「臓器の移植に関する法律」(註1)(以下「臓器移植法」と記述)が消極的に規定している「脳死」を 脳死 と記述する方法は取らない(取れない)。なぜなら、この国に生きる多くの人が“脳死”と聞いてイメージするものと、臓器移植法によって定義される「脳死した者の身体」という言葉の説明から消極的に導き出され得る「脳死」との間には決定的な齟齬があると考えているからである。
 わたしは、臓器移植法が消極的に定めている「脳死」は、正しく「脳不全」と表記すべきものであり、衝撃的かつ事実と異なる「脳死」という表記は多くの人を欺くものであると考えている。これはわたしが主観的にそう思っているに留まらない。事実として、「脳死」と判定された脳が完全に機能を停止している場合はかなり稀である。また、何を以て「脳が死んでいる」とするのかは、それと向き合った個人の持つ宗教観や哲学、死生観などに左右されるし、何を以て「人間の死」とするのかも人それぞれによって異なる。またその定義でさえ、本人の場合・本人と親しい人の場合・本人とは親しくない赤の他人を考える場合とでそれぞれ全然異なるものであることがほとんどであると考えている。
(3)「脳死」臓器移植を容認していない。
 論理的な理由はいくらでも挙げられる(註2)が、容認しない最大の理由は「素朴な違和感」という多分に感情的なものである。いくら論理が素晴らしくても、また人助けになるものであると考えられていても、感覚的・感情的あるいは直感的な違和感をぬぐい去れないものは容認しない方が良いと考えるため、素朴な感情に根ざした論理(註3)を優先し、論理のスパイラルに陥ってしまうことを避ける。これは自分の感情に素直になるということであるのかもしれない。
(4)今秋の臓器移植法改正案(町野案)(註4)に反対である。
今秋に迫った「臓器の移植に関する法律」の改正案を視野に入れ、以前は「3.私は、臓器を提供しません」に○をつけていた「臓器提供意思表示カード」(ドナーカード)は破棄した。「自己決定」にこだわるのは得策ではないが、それでも意思表示を優先した方が良いのは間違いないだろう。それ故、町野案には反対せざるを得ない。



2.先学の教理的研究から導き出され得るのは

 「脳死」臓器移植の問題に対しては、本稿以前より、仏教的な立場、真宗的な立場の研究者の方々によって様々な方法での接近が試みられている。しかしその多くは教典や教義など原理的な立場からの論考を仏教関係者や真宗関係者、一般社会の間に敷衍しようとするものであり、なおかつ同一の出発点から著しく異なった結論が導き出されているものも少なくない。(例:仏教からは容認可・不可、真宗からは容認可・不可、など。通仏教的にはジャータカの捨身飼虎、真宗では覚如『改邪鈔』の「某 親鸞 閉眼せば賀茂河に入れて魚に与ふべし」の解釈においてそれが顕著である。)
 それらの事実を踏まえると、現在「医療行為」として実際に行われている「脳死」臓器移植が孕んでいる問題に対する一定水準以上の「回答」にたどり着き、未だ結論を出せずに迷走を続けている現状(現在行われている「脳死」身体からの臓器移植は臓器移植法の成立・施行に伴うものではあるが、なし崩しでの実施を問題の解決と見做すことは不可能であるとわたしは考える)からの質問に宗教や仏教、浄土真宗などが答えるためには、経論釈や教義・教理といった原理的なものを云々する必要性は認めるが、それだけでは状況を打開できないのではないだろうか。



3.アンケート調査の実施

 以上のような事実把握ならびに推測を行うと、経論釈や教義・教理に依るだけでは「脳死」臓器移植を考察するに限界があるという結論が導き出される。
 わたしは逆方向から見つめる方法を模索し、浄土真宗本願寺派という一仏教宗派の僧侶が「脳死」臓器移植という困難かつ現代的な問題と実際のところどのように向き合っており、原理的な立場よりもむしろ個人的な実存的立場からどのような結論を導き出しているのかを明らかにすることによって何か新しい論点を発見できないかと考え、インターネット上の「坊さんの小箱」という場所で、浄土真宗本願寺派の僧侶を対象としたアンケート調査を行うこととした。別紙資料の集計結果ならびに分析は、ホームページ「坊さんの小箱」上で2000年6月28日〜9月5日までに回答のあったのものである。



4.アンケート調査ならびに別紙資料について

 この調査は、浄土真宗本願寺派の僧侶が今後「脳死」臓器移植とどう向き合うべきかという規範的なものを導くために実施しているものではなく、現在どう考えどう向き合っているのかをある程度明らかにし、記述的なものを導くために実施しているものである。
 (1)対象は浄土真宗本願寺派の僧侶のみである。
 (2)この調査は、浄土真宗本願寺派教団当局や龍谷大学当局とは一切無関係に行っている調査である。よってこの結果を二者の総意的なものとして受け取ることは避けていただきたい。
 (3)無作為抽出方式ではなく、Eメール等の手段を用いて対象に呼びかけ、回答していただいた結果の反映である。すべての浄土真宗本願寺派の僧侶に呼びかけて行った調査ではない。いわば有志参加のアンケート調査であることに注意されたい。
 (4)別紙資料を二次使用する際には、上記3点と、アンケート実施者名(石田智秀[発表者]・棚原正智[坊さんの小箱管理人])・「坊さんの小箱」URI(http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara)の明記、ならびに実施者への連絡を必須としていただきたい。
 (5)別紙資料と同内容のファイルは「坊さんの小箱」並びに「個人的研究のページ」(http://kyoto.cool.ne.jp/chishu/)で公開中である。

※ 個人的研究のページはhttp://www15.u-page.so-net.ne.jp/qb4/chishu/に移動した。(01/04/08)



5.アンケートの結果

(1)その全容


 各設問の全文と選択肢ならびに回答の集計結果、具体的な記述回答を求める設問に対して寄せられた回答は 別紙資料 の通りである。設問と設問との相互の関係(クロス集計など)については、今回はご容赦願いたい。



(2)その特徴

 もともとアンケート調査というものは「アンケート対象者に何らかの回答をすることを半ば強制し、しかもあらかじめ設えた選択枝の中から回答を択一させ、争点となる視軸を規定し、そしてアンケートの結果が世論に影響を及ぼしていくという、いたって操作力に優れた一種の武器」(註5)である。つまり、ある一つのアンケート調査の結果を以て対象が抽出された母集団すべての意志と見ることは避けねばならない。よって、この集計結果に浄土真宗本願寺派僧侶の「脳死」臓器移植に対する意見のすべてが反映されていると見倣すことは出来ない。
 また同様にして、この結果を本願寺派教団全体のコンセンサスと考えることも不可能である。よって当然ながら、これを本願寺派僧侶のすべてに押しつけることも避けなくてはならない。これは「簡略版」問9の結果のみを踏まえての意見ではない。コンセンサスというものが自由な論義を封殺する傾向にあるものであることを踏まえての意見である。
 一度コンセンサスが形成されてしまうと、そしてそのコンセンサスがある一定の方向に向かっていると判断されると(「脳死」からの臓器移植は素晴らしいことである、あるいは逆に「脳死」からの臓器移植は許し難いことである、というような)、多くの人はその多数性に引きずられ、そのコンセンサスから隔たった行動を取る人を「非常識」「非社会的」「利己的」などと言って非難しがちであり、「個性的」と言って尊重されるのは恐らく稀であると思われる。
 もともとコンセンサスというもので個人の思いを捕縛しつくすことは不可能である。社会全体・仏教界全体・一仏教宗派全体などという当局めいた立場からの「脳死」臓器移植容認・非容認という態度決定は不可能であるか、可能であるとしてもさして意味がない。そうである以上、ある程度は、個人の感情に根ざした素直な受け取り方が問題になり(宗教的救いの対象としての自己を自覚しているかどうかという点でもいろいろに異なるだろう)、詰まるところ「それぞれの受け取り方が大切だ」という結論に落ち着かざるを得ないと思われる。
 しかしそれでも、何らかの機縁によってこのアンケート調査の存在に気づき、なおかつこのアンケート調査に回答を寄せていただいた本願寺派僧侶の傾向として、この集計結果が存在するのは事実である。
 これはとりも直さず、「脳死」臓器移植慎重派・非容認派・反対派が、自分たちの方が数的に少ないという事実を把握し、そのために発言することの重要性をより深く認識していることを反映しているのかも知れない。


(@)選択回答の特徴

 本アンケートの選択回答を集計した結果の最大の特徴として挙げられるのは、「「脳死」臓器移植アンケート(簡略版)」、「「脳死」臓器移植アンケート(詳細版)」、「生命倫理アンケート」ともに、「脳死」を人間の死と認めることや「脳死」臓器移植を容認すること、生命倫理に関わる先端医療技術の進展などに対して批判的・否定的な回答の方が肯定的な回答よりも多かったことである(唯一、プロジェクトが完成に近付いているヒトゲノム解析[生命倫理 問12]については肯定的な回答の方が上回っている)。
 これは朝日新聞が行っている世論調査(註6)や総理府が1998年に行った世論調査、Web上で回答者を一切限定せずに行われている投票(註7)などの結果とは一線を画すものとなっている。


(A)記述回答の特徴

 記述回答の特徴としてまず挙げられるのが、「脳死」臓器移植に対して賛成・反対・保留の立場から非常に多岐にわたる意見が集まったということである。
 回答の中には「「脳死」臓器移植アンケート(詳細版)」の問4から問8までの設問に対する具体的な疑義を呈するものも多数含まれた。
 問4から問8までの設問は、前半があまり知られていない事実、後半が畳みかけるような問いかけから成っており、誘導尋問的に「受けない方がよい」を選択させることを目的としているように読めてしまう。
 設問作成者が意図したのは、これらの設問の選択肢を選ぶことによって回答者の「脳死」臓器移植に対する賛成・反対の立場がより判然と浮かび上がり、回答者は自らの立場をより明確に自覚していただけるのではないか、そしてその自覚に基づき、最後の「ご意見、ご感想をお書きください」という記述欄に自分の意見をより詳細に書いていただけるのではないか、ということであった。
 しかし実際には作成者のその意図は甘すぎたようである。なぜなら、反対の立場に立つ方の大部分はもちろん、態度を保留している方や賛成の立場に立つ方の中にも、このアンケートそのものへの不信感をあらわにし、そのため「保留」を選択、記述回答にも詳細な意見を表明していただけないケースが多く現れてしまったように思われるからである。
 アンケート調査はもともと武器である(註5参照)が、しかしそれでも、中立的な設問と選択肢を作るということに、わたしはもっともっともっと慎重になるべきであった。
しかし、そのような回答者からも、非常に真摯な意見は多数寄せられている。



小結

 本アンケート調査によって明らかになったこれらの事実からは、所謂「既成宗教」の最大宗派の一つである浄土真宗本願寺派の僧侶の中にも、葬儀をすることに精一杯であるとか、あるいは「後生の一大事」:獲信(≒回心)を最大の関心事としているため現実世界に存在する諸問題を解くことに消極的であるなどとされがちな批判からは遠く隔たり、現代的な問題について非常に真摯に考え、何らかの解決策を導き出そうと努力し続けている者が少なからず存在するという事実が浮かび上がる。
 浄土真宗本願寺派の僧侶は、別に葬儀ばかりをしているわけではないようである。日々御門徒と接し、自分の暮らす現実世界と向き合う中で、そこに存在するさまざまな問題について、これほど真剣に思考し、悩んでいる僧侶も多く存在するのである。それは「「脳死」臓器移植アンケート(簡略版)」問6の結果のように、家族や御門徒と話すという行為にもつながっていく。そのような、決して葬儀や個人の心の中だけに留まらない具体的な行動に出る僧侶も少なからず存在するのである。
 一人一人の浄土真宗本願寺派の僧侶が置かれている現実的な環境は、一人一人それぞれ異なっている。それは一人一人の人間が置換不可能であるという事実からも容易に導き出されることであるが、今回の調査を通し、それが改めて判然と浮かび上がったと言えるのではないだろうか。


※ 「脳死」臓器移植に関するわたしの主張の一部は「個人的研究のページ」(http://kyoto.cool.ne.jp/chishu/)で公開している。なお、拙ページは「坊さんの小箱」アンケートへも直接リンクしている。

※ 個人的研究のページはhttp://www15.u-page.so-net.ne.jp/qb4/chishu/に移動した。(01/04/08)

※また、わたしのメールアドレスは *****@*****.ne.jp である。



註1

「Transplant Communication 臓器移植の情報サイト」 http://www.medi-net.or.jp/tcnet/
「DATA」→「法律関係」→「臓器の移植に関する法律」 http://www.medi-net.or.jp/tcnet/DATA/law.html
で全文を読むことが出来る。



註2

 臓器移植法が用いている「脳死」という表現は「脳不全」と改められるべきである。  「脳死」の脳は機能停止していない脳を含んでいる。でなければ「脳死」した人にメスを入れて血圧が上がるわけがないと考える。出産した乳児を近づけて母乳が溢れ出すはずはないと考える。暴れるはずがないと考える。
 「脳死」がどういうものかを多くの人に誤解させたままで移植医療を推進しようとしている推進派の動向には疑義を呈さざるを得ない。
 「脳死」に近接したすべての人に「脳死」判定を行い、すべての人が「脳死」と判定され、すべての人が臓器提供をしたとしても、それでも臓器の提供を受けられずに亡くなるレシピエント候補の方がいる。また、不摂生や癌、糖尿病などで臓器不全になった方はそもそも臓器移植を受けられない。これは不公平と言えると考える。
 「脳死」臓器移植は、人間は死ぬものであるという事実に向き合い、凝視し、その事実から何かに気付く、気付かせていただくという機縁をレシピエント候補から奪いがちであると考える。
 「脳死」臓器移植は生を肯定するあまり死を全否定していると考える。
 死は敗北以外の何かであると考える。
 「脳死」臓器移植の根底には人間の肉体を置換可能な部品であると捉える考え方があると考える。ES細胞(胚性幹細胞)の培養による臓器培養や神経組織培養の技術が確立すればこの考え方も確立されていくのだろうと思われるが、これは罷り間違えば人間そのものを置換可能なものであると捉える考え方に遷移する危険を孕んでいると考える。これはまた、臓器売買を容認する方向に進むのではないかと考える。
 「脳死」臓器移植は匿名性のある人肉食と同等であると考える。
 人間が生物として抱く生への欲望は全否定されるべきではないと考えるが、かと言って全肯定されてよいのかと問われれば、それも違うと答えると考える。
 などなど。



註3

 わたしは論理的に考えて「脳死」臓器移植を容認していないつもりであるが、その基底には「脳死」臓器移植に対する素朴な違和感があり、それ故、わたしの主張が論破されたり瓦解したりしそうになるたびに今までとは異なる論理を見つけようとするのではないだろうかと考えている。素朴な感情を裏支えするために論理を持ち出すのである。これはこの問題に対して賛成・反対の主張を明確に打ち出している論者にある程度以上に共通する傾向なのではないだろうか。



註4

 上智大学法学部教授である町野朔氏が2000年2月18日に発表した「臓器移植法」の改正案。特色は本人の意思を確認しないことであり、具体的には (1)「脳死」臓器移植に対し賛成・反対の意思表示をせずに「脳死」に近接した人に対しても、家族の承諾があれば「脳死」判定を行うことを可能にし、「脳死」になった場合、臓器を摘出できるようにする。(2)子どもが「脳死」に近接した場合、家族の承諾があれば「脳死」判定を行うことを可能にし、「脳死」になった場合、臓器を摘出できるようにする。また、子どもが「脳死」臓器移植に対して賛成・反対の意思表示ができないとする現行法の規定は踏襲する。ということである。 なお、町野氏によると「我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。」ということなのだそうだ。しかしこれは明らかに事実と異なっているとわたしは考える。

 なお、町野氏の「改正案」については
「森岡正博の生命学ホームページ」 http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/
の中にある
「臓器移植法改正案に反対します」 http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ishokuho.htm
という場所の
「改正案」中間報告全文 http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/machino01.htm
「改正案」最終報告書全文 http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/machino02.htm
で読むことが出来る。



註5

小松美彦『死は共鳴する』P146 (勁草書房 1996年)


註6

「脳死」を人間の死と 認める、認めない

不認調査年月
53%38%1996年9月(臓器移植法制定前)
53%38%1998年10月(臓器移植法制定1年後)
51%37%1999年3月(第一例目の「脳死」臓器移植実施直後)
52%30%1999年5月(第二例目の「脳死」臓器移植実施直後)

 なお、朝日新聞の世論調査はこの後「本人の意思表示がない場合でも家族の承諾があれば「脳死」を判定し、臓器摘出しても良いとする考え方に賛成ですか反対ですか」という内容のものに変わった。これは設問者の態度が「脳死」臓器移植を「是」とする立場に変わったことを示していると考えられなくもない。



註7

「日本人の意見(Debate on WEB)」 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hasuda/debate.html
の中の「ディベート:脳死は人の死か?」