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真宗と現代
――融合と乖離―― |
この節はアジア・太平洋戦争の歴史的な位置確定作業であるよりも、「現代」の我我が彼の戦争をどう把握すべきであるかを探る節である。
本論文では1945年に終結した戦争のことを「彼の戦争」或いは「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ。それはその戦争が日本がいちばん最近に経験した戦争だからであり、日本の戦域がアジア・太平洋地域だったからである。「太平洋戦争」は敵国をアメリカ合衆国に、戦域を太平洋地域に限定しかねない呼び名であるため用いず、「15年戦争」は戦域が判然としないため用いない。また「大東亜戦争」も「大東亜共栄圏」の建設を目論んだ当時の日本の行為をそのまま肯定しかねない呼び名であるため、やはり用いない。
歴史は様様な事実の積み重ねで構成されており、歴史研究はそれら様様な事実の積み重ねの研究の積み重ねで構成されている。歴史(事実史であるより「歴史」)が確定することなどないのかもしれないが、「現代」に生きる我我は我我に可能な判断を下すのみである。ただ、その際には、過去を「現代」の論理や価値観という尺度で一方的に裁くことはできないという当然の理念を前提として持っていなければならない。
1999年現在、アジア・太平洋戦争に於ける日本の行為の罪悪性やその贖罪をめぐる議論が各方面で様様に為されている。戦後、日本政府や大多数の日本人は、戦時日本のアジア諸国に対する行為を、ほぼ一貫して取り返しがつかない程の大罪と認識して来たが (18)、ごく最近に勢力を得た「自由主義史観」 (19)なる歴史観に立つ人人は、彼の戦争に於ける日本の行為について謝罪し続ける日本政府やそれを支持する人人を「自虐史観」に陥落していると批判している。
東京裁判が人類史に残る茶番裁判 (20)であったことに議論の余地はないが、その虚妄性は戦勝国側が勝者の論理を以て敗者の側を一方的に裁いたことに終始し、裁判そのものの茶番性がそこで提訴された様様な罪状全ての善性に直結するわけでは勿論ない。敗戦直後の日本は戦争責任を自国民の手で総括する自由と責任を持たず、他国がその裁断を行ってしまったが、結果一方的なお仕着せの裁判が記録・記憶に残ることとなった。「自由主義史観」を名乗る集団の出現は、日本国民自身の手による総合的な戦時総括が半世紀もの間延延と先送りされて来たことに起因する徒花の開花であると言える。
極東軍事裁判の内容に関して議論の余地は多多ある。だが、当時の日本の行為の全てを完全な悪と判断しそれを揺るがぬ事実と見做して来た大勢としての所謂「自虐史観」に不確定性を見出し、文献や証言によってその事実が確固としたものであると思われていた南京虐殺問題や慰安婦問題等への今一度の見直しを迫り続ける「自由主義史観」に立つ人人の見解は、容易に国家主義に走りかねない危険性を多分に孕んでいる。
「自由主義史観」に共感する者の中でも社会的に最大の影響力を持つ論客と考えられる小林よしのり (21)は、「現代」日本に様様な倫理的齟齬が散見される理由を、「公」を喪失し「私」に偏向しがちな昨今の情勢という事実に求める。私はその判断には一部首肯するが、次いで「公」 (22) を「クニ」、そして「国家」という曖昧な現象へ直結してしまう彼の論をそのままで受容することは出来ない。彼は彼自身の祖父が従軍した事実を実存的に批判・検討し、彼の祖父はじめ先人たちの行為を全否定しようとする大勢であるところの所謂「自虐史観」に反旗を翻している。所謂「自虐史観」がそのような方向に進む危険性を孕んでいることは事実であるが、だからと言って先人の行為、「聖戦」を全肯定することも、絶対視した「国家」を安んじる方向へ日本国民全部が進んで行くことのみが現状を打開する方策であると考えることも、どちらも正しくはないだろう。
「現代」を生きる我我は 「誤らない、しかし事後の思想」 (23) のみを基盤にして一方的に歴史を裁くことは出来ないが、先人を無謬的に全肯定することも出来ない。先人を如何に大切に思おうとも、その善行は善行と、悪行は悪行として正しく批判しなくてはならない。歴史はそれを引き継ぐ者の主観によって全肯定されたり全否定されたりするために編まれるのではなく、そこから学ぶために編まれる。引き継ぐものが自己の糧に変じないならば、歴史は存在価値を持たない。
自身が国籍を保有する「国家」という現象を、様様な手段を講じて絶対化したことが半世紀前の悲劇や悲劇的結末を齎したのであり、小林も一部認めるように「公」が「国家」をしか意味しないものではない (24) のだから、国民の福祉を最も合理的に実現するために選択された約束事に過ぎない「国家」の存続を全てに優先させて企図し努力するのでなくては国民でないとする論は、全く本末転倒であると言わざるを得ない。
二項対立を眼前した際によく陥ってしまう如く、所謂「自虐史観」と「自由主義史観」の対立という事態に遭遇した我我は、「現代」に於いてアジア・太平洋戦争当時の日本を振り返る際には必ず両陣営のどちらかを選択する必要があると考えがちであるが、そうではない。
問題は「史観」への帰属判断ではなく、それらを眼前した者が行う思考と判断である。両史観の主張は何処か知ら眉唾であるにも拘わらず双方が確実にある種の説得力を保有しているので、恐らく両者の一方を正、今一方を邪であるとし、単純な二項対立の図式に還元することは不可能であると考えられる。1999年現在両者は自らの歴史観の正当性を主張するための論争に入りつつあるが、相手の主張を論駁する過程で、いずれ相手の研究成果の一部ではあっても尊重せざるを得ない道へ進むことが予想される。よって我我には、帰属判断よりも両者の主張する「歴史」のうち何を事実と確定できるのかまた出来ないのかが問題なのであり、我我はそれらをどう思考・判断しどう行動すべきであるのかが問題なのである。
我我真宗研究者は我我が『聖教』と仰ぐ膨大な書物群への字義・内容・伝承批判に没頭するあまり「現代」の問題に対し没交渉となってはならない。「現代」を生きる我我真宗研究者は、「現代」に於て対立の様相を呈し始めた「史観」の双方を想像力逞しく理性的に批判し、時に議論の渦中に飛び込まねばならない。その際に我我が一際問題と捉えねばならないのは、『真宗聖教全書』に戦時に発布された「親書」が未だに載り続けている事実、戦時に『真宗聖教全書』から「主上」等の言葉が削除され戦後に復帰した事実、虐殺があったとされる南京に直後に入城したはず (25) の当時の本願寺派門主が虐殺の有無について全く語らない事実、等である。
だが私には戦時日本の行為の信憑性をめぐる議論に参加出来るだけの歴史認識は未だ備わっておらず、資料を収集し自分なりの判断をどう下すべきか悩んでいるのが現状である。踏切板上の保留という不安定な体勢を維持しているため、飛び出すのは時間の問題であるのだが、失敗の危険性も大いにある。
よって、本章では「史観」の是非は云云せず、当時の「真宗」が彼の戦争の時代にどう接近しどう融合を果たしたのか、それが「現代」の「真宗」に顕在的・潜在的にどのような影響を与えているのかについて考察する。当時の「真宗」への考察は、「現代」的考察である。
「現代」の日本で戦時の思想や宗教を顧みる試みが為される際、その殆どは戦時に対し否定的な追憶となり、「理由は解らないが戦時の為政者・国民・宗教、全てが間違った方向に突っ走ってしまった。戦時の日本は狂騒状態に陥り常軌を逸していた」、そのような見解を基にした後悔的反省の行われることが多い。
戦時における様様な行為の主体たる日本を単なる狂態に陥っていたと言って良いかどうかという問題に対する判然とした解答は早急に出るものではない。しかし敗戦という大きなパラダイムシフトを経験した後の日本に生きる我我の多くは、「自由主義史観」に没入する人人を除けば、戦時の日本を「狂気」的なものに陥っていた状態と捉えるという点に限れば、概ね同意が出来ている。また「自由主義史観」に一部首肯し戦時の日本の行為全てが必ずしも完全な悪行であったとは言えないと考える人人にさえその同意は可能であるかもしれない。
では、日本はいつ頃その狂気に犯され始めたのだろう。狂気の素とも言うべきものはいつから日本に存在していたのだろう。それは確かに、明治新政府が近代化を歩み始めた瞬間からである。
戦時の日本政府は常軌を逸して行為し、国の内外の国民も多くが常軌を逸脱して行為した。発狂は戦時という特殊状況に触媒され悉く戦時に結実したと言って良いが、その萌芽は他の選択肢を持たなかった明治政府が進んだ近代化に求めることが出来る。戦時日本の狂態は、明治維新というミステリートレインが日本国民という満載の乗客を導いた終着駅に外ならない。
明治維新期の日本は、欧米列強から見れば、黒船などの軍事力を背景に旧江戸幕府が締結させられた不平等条約に発展を阻まれている植民地候補国の一つに過ぎなかった。列強から見れば日本がそのような状況に陥っていても何の問題もない。しかし日本の側から見れば、列強との不平等な立場に甘んじているのは自国の資本主義的な経済発展がままならない屈辱的状況である。よって、そのような状況の早急な克服を意図し、日本政府は富国強兵・殖産興業など数数の近代化政策を敢行する。様様な問題を抱えつつも、日本は軍事大国化・産業主義化を信条として発展、日清・日露戦争を経て欧米列強の仲間入を果し、第一次世界大戦後には国際連盟の常任理事国となるなど、アジア唯一の先進国となった。第二次世界大戦に大敗した日本が高度経済成長を遂げた事実は世界に驚異として認識されたことであろうが、江戸時代の鎖国防壁が崩れた瞬間に近代に触れたはずの日本が僅かの間にそれだけの近代化を達成したという事実は、列強にそれ以上の衝撃を与えたことであろう。
第二次世界大戦以前、帝国主義は諸大国の常識だった。そして曲がりなりにも日本も大国であった。日本が更なる大国化・近代化を実現するために最も簡単で即効性のある選択肢は、自国のすぐ側に欧米並みの植民地を保有し、そこから搾取することであった。短絡的に過ぎる結論であろうが、事実として日本は大陸と半島の侵略という日本的価値観の無限拡大を開始した。「現代」に於て侵略は卑劣極まる行為であるが、当時における侵略は、卑劣ではあったのかもしれないが、常識の範疇に収まる行為であった。自国の発展と自国の価値観の拡大のみを目指した日本の侵略は、半島に日本への帰属を強制するなどした。「現代」から考えれば併合や同化政策は精神的侵略に外ならない。しかし当時はそれこそが半島の為であると信じられていた。それは当時「日本国内に於ける半島出身者差別を解消するためには半島を日本化してしまえば良い」という乱暴なパターナリズム (26) が無自覚的に信じられていたからである。
何れにしても、近代化は黒船を介して誕生した明治新政府が歩んだ路線であった。そして早急な近代化を望みそれを「現代」的価値観とは相容れない方法を以て実現しようとした日本にとって敗戦は当然の帰結であった。
明治政府は記紀等の上代文学を絶対視し、天皇を万世一系の神子と認定し現人神信仰の対象としたが、或はこれはキリスト教に於ける神とキリストとの関係性を模倣したものであるのかもしれない。
キリスト教の開祖イエス=キリストは、三位一体論を信受する信者にとって神であり人間であり聖霊であるが、イエスが現実世界に王として君臨することはなく、また子を儲けることもなかった。つまり列強諸国の国民にとってキリスト教の信仰が生きる力となることはあっても神と為政者とは完全に分離されていた。だが国家神道は人間たる現実世界の王・天皇を神と崇め、直接的に現実世界を束縛した。列強諸国に於けるイエスが現実世界の王ではなく信仰者の世界理解を裏から支える力となるのみであったのに対し、戦時日本の国家神道に於ける天皇は現実世界の王であった。それを神と崇める宗教的世界観は「即」で現実に重ねられ、信仰者の内面的欲望は八紘一宇で正当化されアジア全域の現実世界に垂れ流された。汎心論として伝承され八百万の様様な神を信仰して来た神道が一人天皇のみを信仰の対象としたことから見て、当時「日本的精神」の源とされた国家神道は実は全く日本の伝統的な信仰形態ではなく、「日本的精神」の伝統に則ったものでさえない。明治によって捏造された伝統は、戦時に思われたような日本に古来から存在する伝統ではない。
彼の戦争の当時に日本に蔓延していた「脱近代」指向の日本的価値観は「非近代」であるにも拘わらず「脱近代」的に近代を正しく超克するものではなく、資本主義的で自由主義的な個人主義に対して「禁欲」を打ち立てた、「前近代」的で前近世的な「いざ鎌倉」の封建主義的忠誠を、将軍に対してではなく「国家」という曖昧な現象に誓うことを強要するものであった。近代は完成を目指されるべきものであり同時に超克されるべきものであるが、温故知新ではない純粋な退行的色彩の強い「前近代」への歩みを、どちらも「非近代」であるという理由だけで、超克を内在する「脱近代」と同列に扱うのは無理である。
欧米列強諸国は、国民の倫理を根底から束ねる精神的支柱としてキリスト教を持っていた。それを観察した明治政府が国内を顧みた時、日本に古くから伝来し根付いていた仏教は、江戸幕府の政策の助長もあり形骸化の極致に到達していた。よって仏教を国教に選定するのが蛮行に過ぎないと理解した明治政府は国民に精神的・倫理的一体化を齎す依り所として新規に東京招魂社(後の靖国神社) (27) を建立し、戊辰戦争の官軍兵士の「霊」を英霊として祀り、天皇を国家元首として奉る国家神道体制を立〔/捏〕ち上げた。設立当初は十全な機能を発揮しなかった靖国神社であったが、日清・日露両戦争を経て多くの英霊が祀られること、天皇が参拝する唯一の神社と化すことで尊さを増強される。これによって日本人の多くが国民性として古くから持っていた祖霊信仰に天皇という現実世界の「王」が絡み付き、「国の為」=「天皇の為」=「祖先の為」=「英霊の為」という図式が完成、「英霊」を祀る靖国神社を仲立ちとして「臣民」と天皇とが密接に結びつく国家神道が機能し始める。天皇は靖国神社に合祀された神たる英霊に参拝し、臣民は神国日本に生まれた恩に報い国家と天皇を守るべく忠君愛国で殉死し靖国神社に合祀され自己が英霊と化す(英霊だから合祀されるのではない。その戦死者を「英霊」とした方が「聖戦」に好都合であるとの政府当局判断によって合祀されて初めて「英霊」が誕生するのである)ことを熱望する。そして靖国神社は英霊の無限再生産工場として本領を発揮する。
「現代」的価値観に浴する我我は、人権思想や平等思想を自己の依って立つ思想として極く当たり前に受容している。そのような立場からは、人間宣言を俟つまでもなく天皇に日本国憲法に謳われる「象徴」も含めて何らの価値を見出すことが不可能であり、勿論戦時の日本が国家の主権者として天皇を奉っていた事実も、国家神道が擁していた論理も、非常に非合理的な、思想的非発達状況としか捉えることが出来ない。にも拘わらず両者は戦時にあれほどの威力を発揮し得た。国家神道とは一体何だったのか。
非合理的なものが人人にとって生きる力となる場面は、信仰に限らず、占いや呪い・祈祷や、本人には信条のように理解されるばかりで判然と自覚されないものまで含め、広義での宗教現象に限定されると言って良い。国家神道と天皇制は戦時に於て国民に生きる力を与えた、歴とした宗教であった。
当時隆昌を極めた国家神道は、信じる者が恰も天皇を敬うかのように信仰する、日本的規模で測れば最大の、世界的規模で測れば存外小さな、日本全体の幸福という現世利益的な目標を掲げた宗教であった。その宗教による精神的な後援を以て戦われた「聖戦」は必然的に大東亜共栄圏という日本的エゴ (28) の無限拡大的幻想を目指した戦いとなったため、世界という広い見地に立てば日本の聖戦は括弧で括られ、イコールで侵略と結ばれてしまう。欧米列強が国教を国家への忠誠と分離したままであったのに対し、日本は当時宗教と認識されていなかった国教たる国家神道を「即」で国家への忠誠と結合し得たわけである。明治政府の意図は為政者が代っても受け継がれ、敗戦までに十全な成功を収めた。だがその成功は日本を「建国」以来の、未曾有の国家的危機に叩き込むこととなった。そのような精神状況下、当時の「真宗」は時代とどのような関係にあったのだろう。
皇国日本に生を承けた者はその恩に報いる為に万世一系の神子たる天皇の威徳を世界に拡げる八紘一宇を実現すべく命を賭して尽力すべきである。仮令志半ばで現世の命が終えたとしても靖国神社に祀られ英霊に変じ国家の守り神となり倶会一処の浄土たる高天原で再会が果たせる。よって臣民信徒、心安らかに戦うべし。心安らかに死ぬべし。
以上は彼の戦争に於る「真宗」教学を簡約したものである。彼の戦争を戦っていた日本の中で「真宗」は孤立無援の寂寂しい信仰集団ではなかった。「真宗」の戦時教学は政府に脅されて大東亜共栄圏実現の聖戦に消極的に関わる中で生まれたのではなく、寧ろ日本政府を先導せんばかりの勢いを以て積極的に戦争に関わる中で形成され、真宗教団は大日本帝国の「聖戦」遂行の為に不惜身命での尽力を門徒に奨励または強制したのである。だがそのような「真宗」の物語は、玉音放送とともに崩れ去ってしまった。
当時の「真宗」教学、戦時教学は「現代」では否定され、完全無欠の虚偽教学として地中深く埋められている。しかし埋めるだけで済むものではない。戦時教学の何が嘘だったのかを追究せず目を背け放っておくと、戦時教学という種はすくすくと成長し、「現代」にも戦時のように花を咲かせ、見事に結実してしまうだろう。
慥かに当時の「真宗」が歩んだ道は「現代」の「真宗」に積極的に同じ轍を踏ませるだけの魅力を発揮するものではなく、研究意欲も沸き難い。しかし戦時教学が虚偽教学であったのなら、真宗研究者はそれ故にそれを封印するのでなく、逆にそれ故に掘り起こし研究し、その反省や批判を自己が生きる為の力としなくてはならない。歴史は凍結され後悔される為に在るのではなく、二度と同じ轍を踏まぬべく反省される為に存在する。「現代」の「真宗」教学からは、戦時の「真宗」教学は常軌を逸する教学としか捉え得ない。だが我我は反省を放棄してはならない。何故なら歴史は繰り返すからであり、反省されなかった歴史こそが繰り返すからである。発見された不発弾の周囲から無辜の人人を避難させるのは当然だが、信管は誰かに処理されなければならない。その「誰か」は真宗研究者以外にいないであろう。真理が時代を超えるものであるのなら、その真理に伴う責任も時代を超えて須く全うされるべきである。現在まで様様な真宗研究者によって戦時教学への反省は為されているが、それが真宗学研究の中で大勢であるとは言えない。以下の節では、不十分ながら今一度の検証を試みる。
戦時教学の特徴は端的に言って時代への融合を求めそれを実現してしまったことにある。「真宗」はアジア・太平洋戦争の時代に、信者が自己を顧みるに際し、内側から働く鑑や対象物としてではなく、時代に全く同化し、国民が国策を無批判に受容する為の受け皿として機能した。時代への融合は阿弥陀仏と天皇、浄土と高天原とを重層理解し融合させることによって達成された。
「現代」に於て、「真宗」の阿弥陀仏と日本国憲法で定める日本の象徴であるところの天皇とは全く重ならない。浄土と高天原とも同様に重なるものではない。だが戦時には「靖国浄土」という珍妙な言葉さえ誕生するほどにそれらは融合していた。それらの融合は如何にして為されたのであろう。
親鸞の主著『教行信証』化身土巻後序にある、
「主上臣下、背法違義、成忿結怨。」 (29)
という下りは、戦時に教団当局の出した通達によって「主上」が削除された (30) ことで有名だが、この文は親鸞が天皇を完全に人間視していたことを物語り、阿弥陀仏と天皇、或は浄土と高天原を融合させる論に全く与しないものであることを示している。それは親鸞から見た阿弥陀仏が自分を救う主体に外ならず、その阿弥陀仏が法然と自分とを配流した 「背法違義、成忿結怨」 の後鳥羽上皇や土御門天皇に重なるとは考えられないことから明らかである。
戦時の「真宗」は斯様な国家神道に融合したが、その融合は親鸞の文章を曲解することによってのみ可能となった。戦時教学では「真宗」教義の要が天皇奉戴と国体護持であると理解され、それが巧妙に浄土往生と重層されていたのだが、その論考の典拠となったのは、
「詮じさふらふところは、御身にかぎらず、念仏まふさんひとゞゝは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはゞ、めでたふさふらふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こゝろにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえさふらふ。よくゝゝ御按さふらふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえずさふらふ。」(31)
という、消息であった。慥かにこの文章だけを見れば、恰も親鸞が日本の国体護持のための念仏を奨励しているかのように解釈することが可能である。だが親鸞には先程の漢文のように
「主上臣下、背法違義、成忿結怨。」なる記述があり、為に親鸞が天皇を阿弥陀仏に匹敵する現人神として絶対視していたとは考えられず、また同じ消息中、先の引用文の直前には、
「念仏をとゞめられさふらひしが、よにくせごとのおこりさふらひしかばそれにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こゝろにいれて、まふしあはせたまふべしとぞおぼえさふらふ。」 (32)
という記述があり、そのことから言っても親鸞が念仏と国体との関係性を戦時教学のように捉えていたとは考えられない。
この消息において、親鸞は上皇の配流につけても念仏をたのみ 「世」 のために念仏申すことを勧めているが、当時の世界観を考慮するに、この 「世」 は現代的な「世間」や「世界」としてではなく、より狭く日本を指すものであると推測される。それは鎌倉時代の人人にとっての 「世」 は日本、諸外国は現代で言う「宇宙」のような異空間として理解されていたと推測されるからである。
そのような世界観の中、親鸞は法然と自分を配流した土御門天皇と後鳥羽上皇が幕府執権北条義時によって配流させられた 「くせごと」 (33) ・承久の乱を見て、 「世」 のために念仏申すことを勧めている。これは親鸞に念仏が権力を超越するものとして認識されていること、権力はおしなべて盛者必滅の移ろい行くものとして認識されていること、念仏は為政者を超越する 「世」 の為のものとして認識されていることを推測させる。
親鸞にとっての 「世」 は当時の世界観から見て現代の日本規模の広がりしか持たないものであったろう。だが当時と現代の世界観の規模で測れば、それは逆に親鸞の 「世」 がそのまま「現代」に於ける「世界」と同義的であることをも導くであろう。よって、親鸞の阿弥陀仏観・浄土観を戦時教学のように天皇や高天原と同一と見ることは至極困難である。親鸞の消息の 「世」 が日本に限定されるという理解を以て親鸞の念仏を直接「神国日本」の為の念仏とした戦時教学は牽強付会教学であり、また短絡的教学である。また、以上の私の論稿が不十分であったとしても、親鸞が天皇や日本の為に念仏申すことを奨励するはずがないのは、親鸞の 「主上臣下、背法違義、成忿結怨。」 を見た時点でほぼ明らかであろう。
戦時教学では何故に斯様な曲解を親鸞の文章に付すに至ったのか。それは親鸞没後すぐ「真宗」に登場し、その後「真宗」を一貫して形成して来た真俗二諦論的世界観に依る。そもそも親鸞は教団を形成せず少人数の同朋教団をしか形成しなかったが、その理由の一つは親鸞が真俗二諦論を持たなかったことによる。
「真宗」には覚如・存覚の時代から現在まで一貫して真俗二諦論やそれに準ずる論理が存在するが、この節では近代以前の真俗二諦論史を詳らかに問うことはせず、その本質のみを論考し、戦時教学的真俗二諦論に絞って論考を行うこととする。
真俗二諦論には「正しい真俗二諦論」や「間違った真俗二諦論」等というものはない。恐らくは回心の瞬間に一瞬で通り過ぎるであろう言亡慮絶の瞬間を「論」として凍結すること自体が大いなる過誤であるから、全ての真俗二諦論は虚偽に外ならない。
信仰する宗教や信条が異なれば、真理も異なるものになることがある。だが一人の人間は二つの真理を抱えて生きられる程に器用ではなく、一つの真理しか維持できない。人間は自覚的・無自覚的の別はあっても常に真理を抱えて生きており、その真理は一人に一つである。
では恰も真理を二つ立てるかのように見える真俗二諦論とは、一体何なのか。
真俗二諦論は、諦/真理を真実に属するものと俗世間に属するものとに二分し、それが相資すると主張する。だが諦は一人の人間にとって一つであり、それを二側面から見ることは可能であっても、二分することは不可能である。端的に言って真俗二諦論は真理を二つ立てる論ではなく、二つ立てた「真理のようなもの」を相資させる運動を一つの真理と見るものであり、逆から見れば一つの真理に真なる「真理」と俗なる「真理」との二要素を見るものである。故にその二要素たる二諦は両方とも真理ではなくなってしまうのである。
真俗二諦論で立てられる二つの真理は両方とも真理ではなく、括弧付きの「真理」、論に過ぎない。真俗二諦論は論を二つ立てそれを真理と呼ぶ約束事を真理としている。親鸞はそのような分裂した世界観を携えて念仏申していたわけではなく、阿弥陀仏と、それと同一の浄土を真理とするのみで、真俗二諦論が言うように世俗の国家権力をそれに並ぶ真理として受容してはいない。親鸞にとって唯一の真理は阿弥陀仏である。そして阿弥陀仏が親鸞自身を浄土に往生させることは親鸞の実存的理解から見て真理の自明的な一側面に過ぎず、たった一つだけ存在する真理の一つの側面に己の救いが現れているのである。戦時教学が如何に主張しようとも、親鸞は真俗二諦論に全く与するものではない。
彼の戦争では日本の全てが当局への協力を強制されたのだから、全国民が脅迫されるに似た当時の情勢として「真宗」の戦争参加も致し方なかったのだ、だから真宗も時代に阿るよりなかったのだ、とする論で当時の「真宗」に向き合うのは甚だ危険である。当時の情勢が戦争批判を許さなかったと言えるのは厳密には先の戦争の極く極く末期である。よってそれ以前に「真宗」が聖戦を積極的に認容していたのであれば、それは国家からの強制ではなく、「真宗」の自発的行為であることになる。以下は自発的行為であった証拠である。
「それ、皇国に生をうけしもの、皇恩を蒙らざるはあらず。殊に方今維新の良政をしき給ひ、内億兆を保安し、外万国に対峙せんと、夙夜に叡慮を労し給へば、道にまれ俗にまれ、たれか王化をたすけ、皇威を輝し奉らざるべけんや。(中略)ねがわくは一流の道俗、上に申すところの相承の正意を決得し、真俗二諦の法義をあやまらず、現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ、来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難をまぬかるる身となられ候やう、和合を本とし自行化他せられ候はば、開山聖人の法流に浴せる所詮このうへはあるまじく候。」 (本願寺派 1871年) (34)
「皇国に生れ、名誉の戦死を遂げて名を海外に輝かせしことは実に喜ばねばならぬこと、されば遺族のやから、今生に於いてはいよいよ御国の為には身命を惜しまず報国尽忠の誠を抽んで、未来にとりてはおのれがはからいを捨て、ひとえに弥陀他力の本願にすがり奉り、生きては皇国の良民と言われ、死しては安養浄土の華のうてなに往生を遂げるよう……」 (大谷派 1895年) (35)
これらの文書は決して1945年に近い時期のものではない。この文章から「真宗」がアジア・太平洋戦争末期から半世紀も溯る明治維新から間もない時期に 「現生には皇国の忠良となり、罔極の朝恩に酬ひ、来世には西方の往生をとげ、永劫の苦難をまぬかるる身とな」 ることや 「生きては皇国の良民と言われ、死しては安養浄土の華のうてなに往生を遂げる」 ことを門信徒に勧めていたことが判然とした。覚如・存覚時代に発芽した真俗二諦論は、明治維新期に花をつけ、戦時に結実したのである。
「この教義 (真俗二諦論:執筆者註) によれば、浄土真宗の信者とは、まず国家の要求する忠実な臣民となることであり、肝心の阿弥陀仏の本願を信じるという点は、二の次となってしまうおそれが生じてくる。宗教は決して現世の秩序の維持を目的とするためにあるのではない。時には、宗教的真理を守るために現世の秩序に背いたり、それを破ることもある。とりわけ、信心を同じくする者の連帯は大変強く、領主の支配権を容易に超えてゆく傾向が強かった。現に、真宗信者の信心は、信長をあれほどまでに悩ませたのであり、島津藩は、それゆえに浄土真宗を禁制とした。しかし、歴史を全体として見れば、真宗教団は最終的には国家権力の前に、屈し続けるのである。」 (36) (『日本人はなぜ無宗教なのか』阿満利麿)
「真宗」は彼の戦争の時代に融合し、斯くも無残な状況を現前した。融合は時代に対する批判の契機を放棄させるものに外ならず、決して肯定される事態ではない。
では融合の対局にある乖離は時代に何をもたらすものであるのだろう。
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(18) 本多勝一『中国の旅』『南京への道』(ともに朝日文庫。今の石田の手元にはない。)、加藤典洋『戦後を戦後以後、考える』岩波ブックレット452など。「罪悪」と見る文献や人物は、「自由主義歴史観」のそれよりも多く存在する。
(19) 『教科書が教えない歴史』を産経新聞に連載している「自由主義史観研究会」が最も有名であろう。単行本は現在四巻まで出版され、漫画化も為されている。また、同じ理念の別の組織に「新しい歴史教科書をつくる会」もある。
(20) 山崎豊子『二つの祖国』や、岩波文庫の『東京裁判』などで明らかにされている。
(21) 「1953年、福岡生まれ。漫画家。大学在学中の75年、『東大一直線』でデビュー。以来20年以上にわたって数多の傑作を生み続ける。90年代に入って、思想・哲学の領域に踏み込んだ『ゴーマニズム宣言』(全9巻)が大ヒット。現在では『新ゴーマニズム宣言』として雑誌SAPIOに強力連載中。また、その番外編ともいうべき『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』『新ゴーマニズム宣言スペシャル 脱正義論』も言論界にただならぬ波紋をつくった。他の代表作に『東大快進撃』『おぼっちゃまくん』『厳格に訊け!』など。」 (『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』著者紹介)
私は彼のファンであるが、彼を「カリスマ」と呼ぶ気持ちはさらさらない。またファンはファンになった者の全てを常に受容しなくてはならないというわけではない。1998年12月13日に京都会館で「新しい歴史教科書をつくる会」主催のシンポジウムに、私は彼を見ることだけを目的として参加したが、前から5列目の席に座れて、とても幸せを感じた。周囲の席には「若者」が溢れていたが、本論文の第三章で扱う新新宗教信者のように「小林について行く」という判断をした時点で思考を全面的に放棄したのでは? と思える反応ばかりが目についた。具体的には、シンポジウム参加者が大韓民国や中華人民共和国の悪口とも取れる発言をするたびに会場は満場の拍手に包まれたのである。非常に寂しかった。物事はそれほど単純に把握できるものではなかろう。
小林は慰安婦を『ゴーマニズム宣言』で扱った折りに「誰も信じるな。わしをいちばん疑え!」とかました。だが今の彼は若者に信じ込まれている。左翼集団に帰属することで自我を確立し社会から逸脱して行く「純粋まっすぐ君」を『脱正義論』で批判し「日常に帰れ!」と呼びかけた小林であるが『戦争論』以降の彼の周囲には「純粋まっすぐ君」的な若者が多く集まるようになっているように思える。結論を急ぐのが古今の東西を問わず若者の特権であり悪癖であると思われるのだが、思考放棄がそれに加わってしまうのが最近の傾向なのだろうか。「自由主義史観」は深く思考・判断・批判され反省されることなくトレンドと化してしまっている観が否めない。
「日本人にとって「国」というのは実にあいまいなものなんです。
「英語で言うと、国に該当するものとしてland,country,nation,stateと、少なくとも四つの表現があるのです。この四つはスペルが違うように全部違うものを表しています。(略)重なりあい共通する部分もありますけれど、全部違うものを指しています。
「landというのは自然的な国土であり、そして countryは人びとの集団であり、nationというのはそれの政治的統一体であり、そしてstateというのはそういうnationやcountryに作られる政府とか、裁判所とか、軍隊とか、議会とか、地方行政機関とかを持った国家機構を指しています。英語ではこの四つはいずれも違うものを指しています。landをたとえば、ざるそばであるとすると、countryは肉うどんで、stateはラーメン、nationはスパゲッティ(笑い)。麺類という点では共通性はありますが、全部違うんですね。ところが日本人はこの違いがわからないんですね。(略)全部「国」としかイメージされない。ざるそば、肉うどん、ラーメン、スパゲッティの区別が出来ないのです。」(略)
「もう一つ違う比較をしてみますと、英語的表現では「stateの政策が悪く、landの環境を破壊するので、na-tionの利益に反するとして、country中に非難が起こっている」という文章がきちんと成立します。ところが日本人というのは幸福なのか不幸せなのか、これを「国の政策が悪く、国の環境を破壊するので、国の利益に反するとして、国中に非難が起こっている」という意味不明の文章としてしか表現することができない。」(略)
「同質的国家意識は二つの、正反対の作用・機能をもっています。一方では、日本人のlandやcountryへの愛着、あるいはnationとしての一体感が、そのままstateへの帰属心や忠誠に容易に転化されるという作用です。逆にいうと、stateを批判するものを「非国民」として容易に排斥する機能を演じます。同質的国家意識は一方では日本国民の日本国家への帰属と統合、排他性を強化し助長する。
「しかし他方では、その日本国家は「国」と自称してはいても、landでもcountryでもnationでもなく、あるいはそれらすべてを包含し代表しているものではなくて、実体は単なる stateにすぎないのですから、日本国民を無条件に結集することができません。同質的国家意識は、逆に、日本人のlandやcountryへの愛着、あるいはnationとしての一体感のゆえに、stateの帰属心や忠誠を妨げる作用を演じます。
「現に、水害とか薬害とか騒音とか、「国」を相手どって実にさまざまの裁判を起こさねばならないというのに、その被告たる「国」をおいそれと「愛」したり、それに「殉」じたりすることができるはずもありません。」
江口圭一『日本の侵略と日本人の戦争観』岩波ブックレット365 P54−58
小林が『戦争論』を発表した3年も前に、彼の「国」観を揺るがす論は提示されていたわけである。
(23) 李順愛『戦後世代の戦争責任論』岩波ブックレット467 P17 (加藤典洋『戦後後論』の表現と思われる。)
(24) 小林よしのり『戦争論』 幻冬社
また、『戦争論』をめぐって催された『朝まで生テレビ』で小林と議論した姜尚中は、「『公』は『個人』と『国家』との間にある」と述べていた。私には小林の論よりも姜氏の論の方が妥当であるように思えたが、番組の最後に行われたアンケートでは『戦争論』をはじめとする「自由主義史観」が所謂「自虐史観」よりも多くの支持を集める結果となっていた。
(25) 野世英水「戦時下真宗者の軍隊慰問─本願寺法主「中支皇軍慰問」をめぐって─」龍谷大学靖国問題学習会編『真宗と靖国』より。
(26) 第三章 註(47)参照。
(27) 靖国神社(靖國神社)については、大江志乃夫の『靖国神社』岩波新書や、小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書などに詳しい。因に二者は全く逆の観点から靖国神社を捉えている。岩波新書の『靖国神社』の方は絶版らしく現在入手困難である。名著なのに。
(28) この部分に限らず、直接の引用は存在しないものの、「第二章」は大西修(現神戸修)氏の『戦時教学と浄土真宗』(社会評論社)に大きくよっている。勿論、本論文自体が孕む問題点の責任は私にある。
(29) 『真宗聖教全書(以下『真聖全』と略)』第二巻P201 大八木興文堂
(30) 信楽峻麿『宗教と現代社会』法蔵館 P167〜
(31) 『真聖全』第二巻 P697
(32) 同 P696−697頁
(33) 『浄土真宗聖典(註釈版)』P784脚注 本願寺出版社
(34) 『真聖全』 第五巻 P777 本願寺派廣如門主の『消息』。 菱木政晴『浄土真宗の戦争責任』岩波ブックレット303 P46
(35) 1895年11月、真宗大谷派「本山事務報告」。
(ただし菱木政晴『浄土真宗の戦争責任』岩波ブックレット303 P45よりの孫引。)
(36) 阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』第三章「痩せた宗教観」P96−97。