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真宗と現代
――融合と乖離―― |
はじめに第一章――定義―― 「真宗」と「現代」の定義
第一節 「真宗」の定義 第二章――融合―― 「真宗」と戦時の融合
第一節 アジア・太平洋戦争 自由主義史観と「自虐史観」 第三章――乖離―― 「真宗」と「現代」の乖離
第一節 「現代」的課題 結論――対話――
第一項 融合が齎すもの おわりに |
本論文は「真宗は現代に対し何を与え得るか」、「現代は真宗に何を求め得るか」という、表裏一体の問いに対し提示される私の仮説である。何を言おうと全く私の自由であるが責任を伴わない自由は存在しないので私の責任は須く全うされるべきである。
真宗は一般に「親鸞の教説」や「真宗教団」と認識されている。
研究者は真宗を(1)無量寿経、(2)浄土の教法、(3)阿弥陀仏の本願、(4)七祖あるいは善導及び法然によって開説された教法、教派、(5)親鸞によって体験され開説されたところの成仏をめざす教法、などと認識している。研究者自身が真宗に救済された〔る〕経験を持つ為真宗の歴史的な側面は軽視されがちであるが、真宗に真実性を見るだけでは真宗を総合的に把握したことにならないため、本論文では「真宗」を「真宗教団」と定義し、そこに無謬性を見ない。
現代には(1)現在の時代、(2)ロシア革命以後(世界史)・1945年以後(日本史)の二つの意味があるが、日本では、明治維新以後に開始された近代の中、一九九九年を含む「未完の近代」という時代に付された「字」が「現代」である。間違っても「ポストモダン」は「現代」ではない。近代化が完成していないのだから「現代」は近代の中にあると見るべきであり、「ポストモダン」は正しく「後現代」とこそ訳出されねばならないであろう。
実存的な私は獲信せざる未信の者であるが、それが親鸞の言葉を
「「煩悩に狂はされて、思はざる他に(の造悪であれば許される)」というバイアスのかかった仕方で受け取ってしまう」[1]ことに直結はしまい。そのような立場の私は組織真宗学的方法を用いて私なりの真宗学を行う。領域は日本の近代に限定する。
一九九九年現在、一九四五年に終結した戦争をめぐって自由主義史観と所謂「自虐史観」とが論争状態にあるが、当時の日本の行為全てを完全な悪と見るのも善と見るのもどちらも正しくないということが判然として来た。傍観者たる我我にとって問題なのは、我我が両史観のどちらに帰属するかではなく、我我がそれについてどんな実存的思考・判断をすることが可能かである。真宗研究者は文献学的研究のみならず現実世界の問題をも問題としなくてはならない。
戦時日本の行為は明治維新以後日本が一貫して歩んだ近代化によるものであり、敗戦という劇的なパラダイム・シフトを経験して以後の日本に生きる我我には「誤らない、しかし事後の思想」[2]を用いた一方的な断罪は不可能である。
「真宗」は彼の戦争の時代に融合し、当時の価値観なりに時代に応えた。それは親鸞還浄以後の「真宗」が「真俗二諦論」を用いて「為にする論理」を展開し続けて来たからである。時代への融合は戦争末期に限定されず、明治維新の頃には既に存在していた。
「現代」の「真宗」は生命倫理の問題に何らかの具体的な解答を示す必要に迫られている。だが「真宗」はパーソン論、自己決定権、インフォームド・コンセント、クオリティ・オブ・ライフなどの問題を内包する脳死臓器移植問題への態度を保留したままである。
「真宗」が態度決定を保留している間に、いずれ第一例目の脳死臓器移植は行われ、「真宗」の与り知らぬ場所で脳死臓器移植への社会的コンセンサスは構築されるだろう。そして「真宗」は戦時のように社会的コンセンサスに追随する「為にする論理」を構築し、脳死臓器移植を肯定するだろう。放棄されるべきは現実の問題ではなく真俗二諦論である。肯定するにしろ否定するにしろ「真宗」は「為にする論理」を放棄して脳死臓器移植を論ずるべきである。
宗教について殆ど考えず宗教的なものを避ける傾向がある「現代」人は、一方で「癒し」や「救済」への願望を持っていると言われる。「癒し」が日常に埋没した人格の一部が被る一時的安堵であるのに対し「救済」は出世間的「二度生まれ」的な全人格的前進である。「癒し」を求める者に宗教は応えられない。新新宗教は既成宗教と同様信者に「癒し」ではなく「救済」を与えるが、信者は殆ど思考しない。彼らは「なぜ生きているのか」「死ぬとどうなるのか」等の問いに確固たる解答を整備する新新宗教に飛びつくが、受容した「救済」が自分にとって妥当かどうかについては思考するものの、その受容が社会とどのような関係をもつべきかについては殆ど思考せずに、自分の思考判断を無批判に外部に延長し垂れ流す。それは戦時の日本が行ったのと同じである。自分の価値観に完全な「善」性を見取り他人に押し付けるのは如何なものか。一方で「真宗」は「真俗二諦論」を掲げるため、その信者が反社会的で破壊的な行動に出ることは少ないが、社会と信心との相克を本質的に経験しない信者は本当に「救済」されると言えるのだろうか。
彼の戦争の時代に実現した時代への融合は「真宗」の阿弥陀仏や浄土を天皇や高天原へ融合させる歪曲教義を生んだものの、他には同じく歪曲した歴史観と膨大な死者以外に殆ど何も生まなかった。「現代」的問題に積極的に応えない「真宗」は、戦時同様に社会的コンセンサスに追随するのみで、何も生み出さないだろう。融合や乖離に「真宗」の生産性は存在しない。
「真宗」が融合や乖離というを局面を超克して「現代」に応える為には、時代との対話を果す以外にない。没入という融合も、背を向ける乖離も、対話を果すのに有効ではない。「真宗」は「現代」にしっかり向き合いそれと対話し、「現代」に応えるべきである。
冒頭に掲げた、「真宗は現代に対し何を与え得るか」、「現代は真宗に何を求め得るか」という表裏一体の問いに解答するという本論文の目的は十全に果せたのだろうか。更なる研究も必要だが、私自身が思考のスパイラルから抜け出し何かに身を投じ、そこから語り出す必要があるのではないだろうか。
本論文が孕む問題点に気付かれた先生、先輩、同輩、後輩諸氏の御指摘、御指導、御鞭撻、罵倒を懇願して止まない。
阿満利麿 『日本人はなぜ無宗教なのか』 ちくま新書
石井研士 『データブック 現代日本人の宗教』 新曜社
季順愛 『戦後世代の戦争責任論』 岩波ブックレット467
岩城之徳編 『新潮日本文学アルバム』6 石川啄木
今村仁司編 『現代思想を読む事典』 講談社現代新書
上田紀行 『宗教クライシス』 岩波書店
江口圭一 『日本の侵略と日本人の戦争観』 岩波ブックレット365
大江志乃夫 『靖国違憲訴訟』 岩波ブックレット211
大江志乃夫 『靖国神社』 岩波新書
大村英昭 『現代社会と宗教 宗教意識の変容』 岩波書店
岡亮二 『親鸞の教えと現代』 永田文昌堂
小田切進編 『新潮日本文学アルバム』2 夏目漱石
加藤周一 『羊の歌』 岩波新書
加藤周一 『続・羊の歌』 岩波新書
加藤尚武 『二十一世紀のエチカ 応用倫理学のすすめ』 未來社
加藤典洋 『戦後を戦後以後、考える』 岩波ブックレット452
河合隼雄・中沢新一 『私とは何か』 岩波書店
大西修(現 神戸修) 『戦時教学と浄土真宗』 社会評論社
小沢浩 『新宗教の風土』 岩波新書
小林よしのり 『新・ゴーマニズム宣言1〜5』 幻冬社
小林よしのり 『新・ゴーマニズム宣言 戦争論スペシャル』 幻冬社
小堀桂一郎 『靖国神社と日本人』 PHP新書
信楽峻麿 『近代真宗教団史研究』 法蔵館
信楽峻麿 『宗教と現代社会』 法蔵館
信楽峻麿 『親鸞における信の研究』 永田文昌堂
島薗進 『現代宗教の可能性 現世主義と暴力性』 岩波書店
自由主義史観研究会 『教科書が教えない歴史』 小学館
立花隆 『脳死臨調批判』 中央公論社
田中伸尚 『政教分離』 岩波ブックレット435
田丸徳善 『宗教学の歴史と課題』 山本書店
戸坂潤 『日本イデオロギー論』 岩波文庫
中沢新一編 『オウム真理教の深層』imago 臨時増刊 青土社
永瀬唯 『ターミナル・エヴァ』 水声社
中村政則 『近現代史をどう見るか─司馬史観を問う』 岩波ブックレット427
西谷啓治 『宗教とは何か』 創文社
菱木政晴 『浄土真宗の戦争責任』 岩波ブックレット467
日野原重明 『現代医学と宗教』 岩波書店
「戦時教学」研究会 『戦時教学と真宗』 同朋社
本多勝一 『南京への道』 朝日文庫
本多勝一 『中国の日本軍』 朝日文庫
間瀬啓允 『エコロジーと宗教』 岩波書店
丸山高司 『ガダマー 地平の融合』 講談社
村上春樹 『約束された場所で』 文藝春秋
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柳瀬睦男・村上陽一郎・川田勝編 『日常性のなかの宗教』南窓社
山崎龍明編 『真宗と社会─「真俗二諦」問題を問う─』
吉本隆明 『増補 最後の親鸞』 春秋社
吉本隆明 『消費としての芸』 ロッキング・オン
吉本隆明 『親鸞復興』 春秋社
吉本隆明 『未来の親鸞』 春秋社
ケン・ウィルバー 『万物の歴史』 春秋社
『岩波 哲学・思想事典』岩波書店
『りゅうこくブックス特別号 顕真館公開講演会講演集』 龍谷大学宗教部
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池田行信 「戦時教学の理論構造」 『近代真宗教団史研究』所収
石川啄木 「時代閉塞の現状」 明治43年8月頃執筆 筑摩書房『啄木全集』 第四巻 評論・感想
大江修 「本願寺教団の民主化と戦争責任」 『近代真宗教団史研究』所収
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宗教研究 「オウム真理教の修行体験」尾堂修司 69−307 第四輯 1996.3.
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「医療と人権─生活者の視点に立つ医療を求めて─」
主催:「医療と人権」開催実行委員会
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「いのちの文化人類学─臓器移植法施行一周年を迎えて─」
第15回・現代医療を考える会 波平恵美子氏講演会
主催:現代医療を考える会
1998.10.24. 於高槻現代劇場
「小林よしのり『戦争論』をめぐって─現代日本の「戦争と平和」観への異議申し立て─」
新しい歴史教科書をつくる会 第7回シンポジウム
主催:新しい歴史教科書をつくる会
1998.12.13. 於京都会館