真宗の生命観や生死観、親鸞の生命観や生死観について明らかにしようとする試みは、真宗学やそれに近接した他の立場の諸先学の諸業績により、現在までに一定以上の成果を挙げていると考えられる。
それらの多くは、仏教や真宗、親鸞に関連する経・論・釈の内容を探った上で、分析、解釈された理念をもとにして語られ、現代の実際の場面に向けて「何か」を提唱している。
真宗や親鸞の思考の軌跡を追って得られる「理念」と「実際」との間には、しかし埋めるべき溝(架けるべき橋、気づくべきなにがしか)がある。その「間」をどうするのかということについて、わたしは「生命学」的な視点からの思考や実践が望ましいのではないかと考えている。
今回の発表では、比較的最近に模索された、真宗や親鸞の生命観について概観・分析した上で、「生命学」という概念を紹介したい。真宗や親鸞の生命観の理念を探り、提言をおこなおうとする行為が、「生命の現場」とでも言うべき、現代の、生命を取り巻く様々な「実際」にどう向き合ってくことがより望ましいのかを具体的に模索する一つの試みとして、ご理解いただきたい。
なお、本発表は生命観と生死観に通底する「何か」を想定した立場からの発表であるとともに、真宗的見地から「脳死」臓器移植やヒトクローン個体、遺伝子治療など、現実のバイオエシックスの問題の解決方法を探ろうとしている立場からの発表である。かつ、「真宗の生命観の根本理念」のような「理念」のみを探ろうとしての発表ではない。以上について今はご容赦願いたい。
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もくじ
◆はじめに ◆真宗 ◆真宗の特徴 ◆生命学 ◇生命学の特徴 ◆結論 ◇理念の方向 ◇現実 引用・参考文献 |
(1)無常としての生死
(2)迷いとしての生死
(3)罪業的存在としての生死
(4)生死即涅槃としての生死
(5)利他教化地の場としての生死
(「親鸞の基点」『真宗学』69 1984)
に分類し、最後に「生死」を「人間すべての問題」「人間全体の課題」としている。
これはおそらく、人間の課題としての「生死」に対する解答として、親鸞の生死観を捉えているものと考えられる。
◇菊藤明道氏 は
自我に立脚する相対的価値観、差別的生命観を突き破って、すべてのいのちの絶対的尊厳性、平等性、円融性を見出し、いのちの連帯と共感をよびおこす世界がそこにある。最も非人間的なことは<いのち>に対する無感覚、無関心、無感動の状況ではなかろうか。
とし、自我にではなく、他のいのちとの「連帯と共感」が親鸞の生命観の基底にあるとする。
親鸞において死に様は問題とならないことがわかる。生き様に注目し、そしてその生き様で問題とするのは信心の獲得についてであり、念仏申すことであった。そこには、徹底して自己を見つめ、罪悪深重の煩悩熾盛なる凡夫であるという自覚の上に立ち、それ故に自力に頼ることなく一心に他力をたのむ親鸞の姿を見ることができる。まさにこの姿こそが、親鸞の生死観なのである。(「生死に関する一考察−源信・法然・親鸞−」『真宗学』80 1989)
とし、親鸞の生死観は「信心の獲得」(いわゆる回心)を基本としていると述べる。
生も死も、二尊の遣喚に則して、「不惜仏意何取人情」(仏意を惜しまずして人情を取らんや:石田註)という至純の展開がなされるのである。人間の感情、イデオロギーを、はるかに超えた世界である。(「親鸞の生死観」『親鸞教学』44 1984)
とし、人間を超えたものとして生死を捉える。
臨終が妄念なく迎えられるかどうかという問題は、平生において生死を超えた信心体験に住していれば、もはやそれほど大きな問題ではなかった(「法然・親鸞からみた尊厳死の問題」『印度学仏教学研究』83(42-1)1993)臨終まで消えることのない人間の生への執着心、虚妄の深さを自覚していたから、見せかけの安楽な死に様に固執しようとしなかったと理解できるだろう。(「浄土教における臨終の問題−法然・親鸞を中心にして−」『印度学仏教学研究』69(35-1) 1986)
とし、「臨終」を課題として親鸞や真宗の生命観や生死観を考える時には平生からの信心獲得(いわゆる「回心」体験)をはずしてはならないことを指摘するとともに、
仏教・親鸞における生命の見方は、一切の生命を非人格的に、自己とは無関係の物として捉える立場ではなく、一切の存在を人格的に、自己と深く結びついた仲間、同情者として捉える立場であるといってよいかもしれない。そして、その如実知見なる智慧を基点とし、阿弥陀仏を基点として、一切の生命や無情存在の全く固有なる尊厳性を再発見して、生命に対してどこまでも謙虚になって接する態度をめざしていたといえるだろう。(「親鸞から見た生命の問題」『日本仏教学会年報』55 仏教の生命観 1990)
と、阿弥陀仏を基点とした、他の生命、他の尊厳性とのつながり・関係性の存在への自覚の重要性を指摘している。
聖人における生死観というものは、常に自身の罪障感、罪業深重のいたみというものと直結してくることとなると思われる。(中略) 「ただ念仏」ひとつが聖人における「生死いずべきみち」であり、それはまたそのまま私どもの「生死いずべきみち」そのものである(「生死いずべきみち」『真宗教学研究』12 生死観 1988)
とし、親鸞の「生死観」は「「ただ念仏」ひとつ」にきわまる、とする。
これら諸分析・解釈の特徴は、自分自身にとっての救主としての阿弥陀仏や、自己と阿弥陀仏との間にある信心獲得の体験を中心にして生命や生死を考えている、ということである。
真宗学の基本には、真宗の救いの真実性を疑わないという大前提がある。疑ってはそもそも真宗ではなくなる以上、「真宗現象学」や「社会真宗学」など、真宗を客体として研究する立場の人間が携えていることは可能であるかもしれない「救いへの疑心」は、真宗の救いの内的事実を問うていく学問である、(おそらく狭義での?)真宗学には無用であるし、(おそらく)あってはならないものである。
しかし、真宗や親鸞の生命観や生死観は、これら阿弥陀仏の実在や信心獲得を至上とするような価値観のみから語られ、模索され、実践される「べき」ものであるのだろうか。
真宗の信者数は、事実として、慥かに日本に多い。しかし先日も、とあるメーカの広告に用いられた「他力本願」という、真宗がもっとも大切に考えている概念の一つがこれほど誤解され、誤解のままで理解され、語感から来る言葉の内容が一人歩きしているという事実を、真宗の側はまた突きつけられることとなった。「他力本願」という言葉の解釈はさておき、この騒動が示しているのは、
という事実ではないだろうか。
これを重い事実として理解するならば、自身の携えている理念や理想・世界観を他の存在も共有していると無前提に考えて語り出しても、その射程は狭く短いと言わねばならない。
おそらく真宗は、信者や、研究者集団の内部にとどめられるべき内実しか持っていないわけではないだろう。私を含め、真宗研究者は自分たちしか持っていない(かもしれない)「何か」を他に向かって主張し、それで事足れりとしたり、押しつけたりせず、(今後の課題かもしれないが)「宗教多元主義」的な見地から、他の価値観や世界観に立脚した立場を想像・可能な限り実感した上でこれらを語り、また、語るばかりでなく、それらからの言葉や事実を理解し、想像していくべきではないだろうか。
以上、分析し、解釈・主張したように、真宗や親鸞の思考の軌跡を追って得られる「理念」と現代に現れている「実際」との間には、「断絶」と言ってよい「何か」がある。その「間」をどう認識し、どう対処していくのかということについて、私は「生命学」的な視点からの思考や実践が望ましいのではないかと考えている。以下に紹介しその方法を探る。
生命学とは、哲学者の森岡正博氏の提唱する、他者との関係性を考えながら常に自身を問うていく、実践との結びつきが前提とされた学問である。(森岡正博の生命学 http://www.lifestudies.org/jp/)
氏の『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優生思想』(勁草書房 2001)を参照すると、
生命学とは、
「生命」に注目(前掲書399頁 以下の数字も同様)した私が
(1)現代文明に組み込まれた生命世界の仕組みを、自分なりの見方で把握し、表現してゆく知の運動であると同時に、
(2)私が、限りあるかけがえのないこの人生を、悔いなく生き切るための知の運動で(p400)ある。
なお、その時に注目される「生命」とは、
それを大切にしたいという人と人とのかかわりあいによって、かけがえのなさを与えられた「存在」のこと(p408)であり、「生命の尊厳」が意味しているのは、<ある生命体を殺すなかれ>ということではなく、<ある生命体の存在を他の存在によって置き換えることなかれ>ということである。(p409)
その学問的態度は
みずからの生に決着を付けながら生き続けることそれ自体が、学問となりえる(p403)
あるいは
論文を書くことが、生命学の第一の目標ではない。自分の人生を悔いなく生き切ることが、生命学の第一の目標である。(p422)というものであり、その目標は
教科書に書けるような一般則を発見するというのではなく、個々の事例を与えられたときに、個別に対応策が提案されるようなダイナミックな心身を鍛練し構築すること(p424)である。
現時点で判明している課題は、
「主観的な思い込み」や「独断」をいかに排するかということであ(p423)り、そのために自分自身の人生における実験と検証(p424)が不可欠である。
具体的作業は
(1)自己の問いなおし、(2)自分の人生における実験と検証、(3)他者との出会い、(4)生命世界の自分なりの解明と表現、(5)得られた知見についてのコミュニケーション、(6)社会変革への参画、(7)先行者の表現物の学習、などによって構成される。(中略)自然科学における「数理的手法」に当たるものが開発されていないという弱点がある。その開発が、生命学方法論の次の課題である。(p426)
陥ってはならないのが、あらゆるフィードバックのない枯死状態からの発言であり、
その成果が自分自身の人生において実際に生きられることが必要(p421)である。また、
自分の人生へのフィードバックなしでも成立するような机上の思弁や、論理ゲームや、自分を棚上げにした実証研究・自然法則探求は、生命学にはならない。(p421)
よって、自身の生き方を重視し、最終的に肯定するとしても、その生き方は
生命学を営むひとりの人間の内部で完結しているものではない。生命学は、それを営む人の有限な人生を超えて、次々と受け継がれてゆく可能性をもったものである。有限な私の生において、私が得たものや失ったものについての経験が、他の生へと受け継がれてゆく、その成功と失敗のかけがえのない無数のプロセスの総体が、ひとつの学になる。この意味で、生命学は、死者の分まで私が生きることをはじめから内包している。(p422)
また、
他人との差異による自己肯定や、権威からの承認による自己肯定は、弱者の無力化と自己否定を必然的に導き出してしまう。であるから、自己肯定は、私の存在そのもののかけがえのなさの実感の上に構築される自己肯定でなくてはならない。それを可能にするための方法を、生命学は考える必要がある。自己肯定は、みずからのアイデンティティの問い直しと密接に関わっている。表層アイデンティティ、深層アイデンティティの背後にある、「中心軸」を再発見しなければならない。(pp.402-403)
そして、森岡氏は、最後に次のように言う。
生命世界を当時の文明との関わりにおいて探り、みずからの生き方を模索する知の運動は、実に多くの先行者によって遂行され、現在にまで伝達されてきているのである。その運動に、私はいま「生命学」という名前を与え、より明瞭な輪郭を付与して、私なりの寄与をなそうとしているのだ。(中略)私がそれに生命学という名前を与えようが、与えまいが、そんなこととは関係なく、それは運動を続けてゆくだろう。(p427)
現実に起きている、起きつつある、「生命」と科学や先端技術、倫理などの問題を重く受け止め、そのような興味から開始される学問的な探求や実践の模索は、従来のバイオエシックス(生命倫理学・生命倫理)が、ともすれば「いかにすればそれを合倫理的に殺せるのか」あるいは「いかにすれば、それをしてしまった・しようとしている人間はその責めを受けずにいられるのか」の問題を考えがちであったのに対し、そのような方向にではなく、「いかにすればそれを生かすことが出来るのか」、あるいは、「それを殺してしまった我々は何を自身の責任として引き受け、それ以後をどのように生きれば良いのか」という、今までとは少し異なる方向に進むべきなのではないだろうか。
文献学や思想史的な研究を経て、親鸞やそれ以前・以後の伝達状況を探り、自身を振り返り、いたむ、という行為が、信仰を持った立場からの真宗学の根本であることには疑いの余地がない。
しかし、精神世界の深みに降りていくだけが真宗の研究であるのかというと、おそらくそうではないと思われる。なぜなら、わたしたち人間は他人との関わりの中に生きており、真宗は阿弥陀仏という他と自身が向き合うことによって成立するとともに、そこから翻り、他の生命もすべてが阿弥陀仏と「一対一」の関係を築いている、あるいは築こうとしている、あるいは築けないまま(「宗教多元主義」的には、そのように真宗的な価値判断さえ許されないこともある)の存在だからである。
それならば、そのような真宗学と現実の様々な問題がリンクする、‥‥ことが、たとえ少ないとしても、その研究者や信者の生きる日常と、現実に存在する様々な先端技術の扱う「生命」や他者との関係の問題がリンクすることは、‥‥多くはなかったり、今は皆無であったりしたとしても、今後は決して「皆無」とは言えなくなるであろう。
他者との関わりを重視する。理念を知り、理念だけでは生きていけない等身大の自分自身の姿に自分自身で寄り添い、そのような他者にも寄り添おうとする。
生命学は、確立された中心理念を背にしてソトを向き、そこから生命を見つめ、何かを語ろうとするのではなく、「生命」や、「生命のようなもの」を中心に据え、等身大の自分が生命を見つめるために、生命によりそって行くためには何が必要かを考えていく。そのための方法を、真宗とは異なる方法で探っている。
もちろん、「生命学」には「生命学」なりの限界があるのかもしれない。しかし自分の心に常に立ち返ることをその本質とし、理念や論理を駆使しながら他人と自分との関わりを捉え直す契機に出発点から満ちている「生命学」は、仏教や真宗の「論理」や「理念」という根幹からソトを見るばかりで、自身の日々の営みを省みることを忘れがちな私をはじめとする真宗研究者の研究・実践態度に一石を投じるものであるとともに、様々に存在するバイオエシックスの問題や、「いのち」をめぐる他の問題と真宗が対峙し、具体的な方法を探るための、最も有効なヒントの一つとなると、私には思われる。
川添泰信「親鸞の基点」『真宗学』69 1984
川添泰信「親鸞の生死観」『印度学仏教学研究』68(34-2) 1986
菊藤明道「親鸞の生命観(二) 脳死・臓器移植への一視点」『印度学仏教学研究』80(40-2) 1992
桑原淳「生死に関する一考察−源信・法然・親鸞−」『真宗学』80 1989
大門照忍「親鸞の生死観」『親鸞教学』44 1984
鍋島直樹「法然・親鸞からみた尊厳死の問題」『印度学仏教学研究』83(42-1) 1993
鍋島直樹「親鸞から見た生命の問題」『日本仏教学会年報』55 仏教の生命観 1990
鍋島直樹「浄土教における臨終の問題−法然・親鸞を中心にして−」『印度学仏教学研究』69(35-1) 1986
幡谷明「親鸞の生死観 横超断四流の意義」『真宗教学研究』11 生死観 1987
藤原幸章「生死いずべきみち」『真宗教学研究』12 生死観 1988
『真宗聖教全書』一 三経七祖部
『真宗聖教全書』二 宗祖部 (ともに大八木興文堂)
『生命学への招待 バイオエシックスを越えて』勁草書房 1988
『生命観を問いなおす』ちくま新書 1994
『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房 2001
など。
なお石田の書いた拙評は こちら。
森岡正博の生命学 http://www.lifestudies.org/jp/
(英語サイトは International Network for Life Studies http://www.lifestudies.org/)