「脳死」臓器移植入門
――生命倫理学の前線――




本稿は『真宗研究会紀要 第33号』
(2001年3月刊行予定)に掲載される予定である。
掲載された。




はじめに

 以前『りゅうこく』に拙論を掲載していただいた(1)頃に較べ、「脳死」臓器移植に関する私の考え方は幾分変化し、また、他の生命倫理学的な問題と対峙する際の態度にも相違が生じている。
 論を展開するに当たり、まずわたしの立場を明確にし、本稿の構成を明らかにする。


私の立場

◇浄土真宗本願寺派の僧侶である。
◇1997年10月に制定された「臓器の移植に関する法律」(2)(以下「臓器移植法」と記述)が消極的に規定している「脳死」を 脳死 とカギカッコなしで記述する方法は取らない。
◇「脳死」臓器移植を容認していない。
◇2000年秋の臓器移植法改正案・町野案(3)に反対である。
◇「脳死」臓器移植だけでなく、他の生命倫理学的課題にも取り組んでいきたいと考えている。
 私は論理的な理由から「脳死」臓器移植を容認していないつもりであるが、その基底には「脳死」臓器移植に対する素朴な違和感があり、それ故、私の論理が崩壊しそうになるたびに今までとは異なる論理を見つけようとする。素朴な感情を裏支えするために論理を持ち出すのである。これはこの問題に対して賛成・反対の主張を明確に打ち出している論者にはある程度以上に共通する傾向なのではないだろうか。


本稿の構成

 まず「一 何が問題か」で「脳死」を議論する際に何が問題となっているのか、何が問題となり得るのか、そしてその問題を解くためには何が必要なのかについて述べる。「二 脳死とは」では「脳死」の発生から現在に至るまでの展開を概観し、判定される「脳死」と診断される“脳死”との相違点に踏み込んだ議論を行う。「三 その他の生命倫理学的な問題との関連」では「脳死」臓器移植の周辺に存在する問題である死の定義・「自己決定[権]」・「死の義務」について概観する。「小結」ではそれらと「脳死」臓器移植との関係について考察し、一応の結論を提出する。
 本稿の目的は、真宗の立場から「脳死」臓器移植その他生命倫理学的な問題を考える際に必要となる「脳死」臓器移植や生命倫理学的な知識的前提を整備することである。
 なお、本稿は私が「坊さんの小箱」(http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/)管理人の棚原正智氏と共同で実施している(2000年10月現在)アンケート調査に触れる内容ではないことをここに記しておく。


一 何が問題か

 「脳死」は臓器移植に直結した概念である。「脳死」臓器移植の周辺で現在問題になっているのは、マスコミ報道などの表層的な場面では、◇ドナー(臓器提供者)不足が深刻であること、◇レシピエント(臓器受給者)候補者のストレスが深刻であること、◇臓器提供意思表示カードを更に普及させるにはどうすれば良いかということ、◇「脳死」臓器移植を拒む人をどう啓蒙していけば良いかということ、◇ドナーの遺族のケアをどうやっていくかということ、等々である。
 これら「問題は山積しています」タイプの報道を受け取り、それを吟味したり、時にはそのまま受容してしまうこともある私達は、これらが全て「脳死」臓器移植を容認し推進しようとしている立場からの問題提起であることに注意すべきである。これらの問題を考える前に立ち止まり、一体自分はなぜ・どのようにして容認・推進の立場になったのか、あるいはそう思うに至っているのか、または一体自分はなぜ・どのようにして保留・慎重・反対の立場になったのか。それを明らかにする必要があるのではないだろうか。なぜなら、それを明らかにすることによってのみ、今紹介した問題の基底に近いところに現存する別の問題を自覚することが可能となり、それを解く鍵に近づくことが可能となるからである。
 慥かに、1997年に制定された「臓器移植法」によって「脳死」臓器移植は事実として解禁され、すでに六例の心臓移植が実施されている(2000年10月20日現在)。だが、法の発効とそれ以前に存在していた問題群の氷解とは必ずしも同義でない。
 「「脳死」は人の死か否か」「臓器移植は是か非か」「判定基準は妥当か」など「脳死」臓器移植の基底付近に存在する問題を改めて問題として位置づけようとすると「あなたは移植を受けて生きている人の立場を否定するんですね」という言い方をされることが多いが、このような感情的非難はあたらない。例えばクローン人間が誕生してしまったとしよう。私はその人の人権や人格は勿論認め、その人を一人の人間として受容するだろう。だが、クローン技術を人間に応用してしまうことの非は問い続けるだろう。そのような非難は私のこのような立場を認めない非難である。
 以上の理由により、基底付近の問題が依然として解かれていないのならば、それを事実として認め、そこから始めなければならないと私は考える。
 そのような地点から「脳死」臓器移植を概観すると、その基底には、◇「脳死」は人の死か否か、◇自分が生きるために結果的に人の死を待望することになる臓器移植は是か非か、という問題が存在することを認めなければならない。また、「脳死」の付近に存在する「脳死」ではない“脳死”も問題として存在していることを認めなければならない。つまり先ほど挙げたマスコミが好む問題群はこれらの問題を解いた後、あるいは一旦保留した後に存在する問題群なのである。
 そのような問題を解くためには、発生から現在に至るまでの「脳死」の歩みを正確に概観する必要があるし、医療現場や最先端の生命倫理学的場面で何が起こっているのか・何が起ころうとしているのかを正確に把握する必要がある。


二 「脳死」とは

1.発生

 アメリカが朝鮮戦争(1950〜53年)を戦っていた当時、そのアメリカで飛躍的に進歩した人工呼吸器(=レスピレータ)が臨床に導入され(1953年)、呼吸が維持されているため「死亡している」と判断することが躊躇われるものの、心拍以外に生きている証拠がほとんど見られず、かつ確実に蘇生しない患者が発生し、従来の「三兆候死」(4)では括りきれない新しい死亡の概念が浮上することとなった。
 当初の「脳死」的な概念は脳の溶融に直結していたが、それは「三兆候死」を以て死亡を診断し、その後で解剖を行った結果として脳溶融が判明するものであったからだと考えられる。
 そのような患者にはおおむね @各反射喪失 A自発呼吸停止 B瞳孔散大 C数日内の心停止 D解剖後の脳溶融 という共通性があったわけだが、仮に@〜Dを満たしていたとしても、そのような患者には心拍停止に至るまで人工呼吸器が接続されたまま、蘇生の可能性を探るために濃厚医療が施され、心拍停止前に人工呼吸器を外されることはなかったと考えられる(5)。だが脳がアイデンティティの住処であることは当時から様々な医学的研究によって大まかなコンセンサスが得られていたので、医学界はこのような超昏睡状態、脳の溶融や脳の機能停止を人間の死と見倣しても良いのではないかと判断した。それに対しローマ法王ピオ12世は「個々の死の確定は宗教上・倫理上の原則とは関係なく、医学の判断すべき問題である」とし(1957年)(6)、脳の機能停止による超昏睡を死と見倣す医者の判断を容認、これによって脳が機能を停止すれば死と見倣しても良いのだという図式が緩やかに発生した。
 また、「脳死(braindeath)」という言葉が初めて登場したのは1960年代後半である。


2.展開

 以上の展開から、「アイデンティティの住処と考えられる脳の機能が完全に停止した人間は「死亡している」と見倣して差し支えがないのだから、その人の身体から臓器を摘出し、別の、臓器が不全になり余命幾ばくもないと診断された患者に移植すればその患者は助かるのではないか?」という医療の新たな可能性が考慮され出したことから、先進各国では、脳の機能が完全に停止した疑いが濃い人間の心臓を摘出するための、脳の完全で不可逆的な機能停止状態を心拍停止以前に厳密・正確に判断・判定する方法や基準の整備が模索されるようになった。また、それと併せ、そのような医療行為に付随して発生すると考えられる道徳的・倫理的な問題を解決するための論理の構築や、心拍を維持し続けている人間から臓器を摘出する(それは死亡を確定づける)行為が殺人罪に問われないで済むための法整備などが試みられ始めた。
 先進各国の医学的尖端がそのような関心で満ちあふれていた1967年12月、南アフリカに於いて、黒人ドナーの心臓を白人レシピエントに移植するという方法で世界初の「脳死」臓器移植が実施された。この手術は貧者から富者へ、弱者から強者へと実施される傾向が強まっていくであろうその後の「脳死」臓器移植の一面を図らずも垣間見せるものであった。
 この移植を皮切りに、先進各国は「脳死」と判定されたドナーからの臓器摘出、レシピエントへの移植に相次いで踏み切った。その流れの中、日本でも1968年8月に初の心臓移植が実施された(札幌医大 和田寿郎教授)。だがこの移植手術は、刑事的には不起訴処分で決着したものの、一人のマッドサイエンティストが「日本第一例目」の功を焦り、脳の機能が全く停止しているとは到底言い難い「ドナー」から、移植以外に助かる方法がないとは全く言えない、つまり移植しても病態に画期的な変化が生じる可能性が極めて少なく、移植前に患っていたのと全く同じ症状になり再び心臓が不全状態に陥る恐れの極めて濃厚な「レシピエント」に対して行われた一医者の暴走による殺人事件として疑惑されるべきものとして社会的に認知されるに至った(7)
 そのような過程を経て、先進各国では「脳死」身体からの心臓移植が一大ブームとなった。しかし、移植手術そのものが成功しても免疫機構が引き起こす拒絶反応のためにレシピエントが死ぬという事態が続発し、ブームは急速に沈静化していった。だが1978年に免疫抑制剤シクロスポリンが臨床的に成功したことから先進各国の心臓移植熱は再び再燃、現在に至っている。
 日本では1989年に「臨時脳死及び臓器移植調査会」(脳死臨調)が議論を開始したが、1992年に出た答申でも脳の機能停止を死と確定すべきとの結論は提出されなかった(「脳死は人の死だ」という結論を出すには出したが、その後に「死ではない」とする「少数意見」(少数とは言っても少なくない数の意見である)が併記されるという破格の答申となっているため、実質的には何の結論も出していないのと同義である。もう少し踏み込んで「一律の結論は出ない」という結論を出すべきではなかったのか)。そして、1997年にはその答申を承ける体裁を取って「臓器移植法」が成立したが、その時に国会で三時間余り議論されたのも「「脳死」身体からの臓器摘出を合法化するにはどうすればいいか・「脳死」の判定基準はどれを採用するか・どのような病院で実施するか・コーディネイトは誰がするか」など実際運用上の問題であって、「脳死は人の死か否か」という問題についてではなかった。


3.「脳死」とは何か

 まず始めに判然とさせておくが、「脳死」は表面的な字義から「脳が死んでいる状態」と早急に結論づけて良いような単純な概念では全然ない。漢字でも英語(braindeath)でもそのように受け取られがちなのが事実であるが(私自身も当初はそのように誤解していた)、「脳死」と呼ばれているのは、脳が不可逆的に機能を停止したと判定された状態に過ぎない。つまり、それを「死」と呼ぶかどうかはその事実に関わる個々人の判断に任されるべき用件である。そんなものについて社会的な、誰にでも納得のいくコンセンサスを形成することは不可能である。
 「臓器移植法」に「脳死」の積極的な規定は存在しない。「臓器移植法」第六条第二項には「……「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」とあるが、これは「脳死した者の身体」について定義している文言に過ぎない。だがこの部分を詳読すれば「臓器移植法」が消極的に規定している「脳死」が「その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの」脳の状態のことであるのが解る。つまり、「脳死」は臓器移植を第一の目的として判定され、そこで初めて発生するものなのであり、他の場面では一切発生し得ないものなのである。
 つまり、臓器移植のドナーとなるための「脳死」判定が実施されない限り「脳死」にはならない(なれない)。自発呼吸を停止し、瞳孔が散大し、各反射を喪失し、脳が溶融していることが予測され(脳をCTなどでスキャンすることによってそう診断されることさえ可能であるらしい(8))、数日内に心拍が停止することも予想され、人工呼吸器に接続されている人であっても、その人本人が「1.私は、 脳死の判定に従い、脳死後、(中略)臓器を提供します。」 の「1.」に○をし、提供臓器を更に○で囲み、あるいは( )内に書き加え、自らが署名した「臓器提供意思表示カード」を保持していなければ(9)、つまり、人工呼吸器に接続される前に本人が臓器提供と「脳死」判定の両方を容認して「臓器提供意思表示カード」にそれなりの記述をしていないのであれば、そして家族や近親者がそのような判定を行うことに同意しなければ、その人が「脳死」と判定されることはあり得ない。判定されなければ「脳死」にはならない。
 これは法解釈の問題なのかもしれないが歴とした事実である。もともと「脳死」は臓器移植を前提として発生した概念であり、それとともに発展してきた概念である。そして発生から現在まで一貫して、とりわけ臓器の「いき」が良くなければ移植できない(技術的にはもちろん移植可能なのだろうが移植しても意味がない、ということである)心臓・肺臓・肝臓移植とセットである、それが「脳死」である。
 誤解が多いようだが、臓器提供を前提とした判定が実施されなければ「脳死」は起こり得ない。判定なくして存在するのはそれに近接した状態のみである。よって、それに近接した状態を無造作に同じ言葉を用いて“脳死”と呼ぶことは実状に合っていないし、理性的に論を進めようとする際には避けなければならないと考えられる。


4.“脳死”とは何か

 以上のような法的「脳死」とは明らかに異なる、“脳死”とでも記述するしかないような状態になる人間が現実に存在する。わたしが勝手にそう呼んでいる“脳死”は「法的脳死判定」によって判定される「脳死」ではなく、移植とは全く関係ない場面で「臨床的脳死診断」によって診断されるもののことである。
 それが診断されるのは、主にICUにおいてである。
 交通事故や脳内出血などによる昏睡状態でICUに運び込まれた患者に対して、担当医は最善の治療を施す(10)。脳低体温療法を施す医師もいる。そのような懸命に試みられる治療に反応して蘇生する患者、尽力の甲斐なく蘇生せずそのまま心停止に至る患者がいる一方で、そのどちらにも当てはまらず“脳死”状態になってしまう患者も発生する。そのような状態になってしまった患者が「1.」に○をした臓器提供意思表示カードを保持しており、そこに呼ばれた家族がそれを容認した場合には、場面は「脳死」判定に移る。だがその人が「2.」や「3.」に○をしていた場合やカードを持っていなかった場合、家族が承諾しなかった場合には、「脳死」の判定は行われない。行われるのは「臨床的脳死診断」である(11)
 脳が「死んでいる」とは如何なる状態か、何を以て脳が「死んでいる」と言うのか、などの問題について本稿では扱わない(12)が、その外側にある問題については「三」中「1.」で問題にしている。本節ではひとまずそれらを措き、「臨床的脳死診断」について考察する。
 医療現場では、臓器不全が極限まで進んだ状態を「〜死」と呼び、可逆的な不全状態と区別している。例えば肝臓の機能低下がある程度以上に進むとその状態は「肝不全」と呼ばれるが、それが更に進行し完全かつ不可逆的な機能停止に陥ると、それは「肝死」と呼ばれるようになる。そのために患者が死んだ場合は「肝死死」という診断名になることもある。それでいくと“脳死”によって心拍が停止し人工呼吸器が外され三徴候死による死亡が診断された場合には「脳死死」と診断されてしかるべきであるらしい(13)
 そのような「臨床的脳死診断」の現場で問題になるのは臓器移植ではなく、その患者へのその後の治療をどうするのか、そして患者の近親者へのケアをどのように行うのか、それらの複合した状況である。
 具体的には、脳が不可逆的な機能停止状態に陥った結果、現在の医療的観点からは絶対に蘇生しないと考えられる患者に対してICU内で濃厚治療を継続しICUのベッドをその患者に占有させ続け、生還する可能性を携えた他の患者の搬入を拒否し続けるのか、それともその患者を別のベッドに移動させて濃厚治療を緩和させていくのかということであり、患者と近親者との距離を開いたまま保ち続けるのか、接近させるのか、ということである。
 臓器移植を前提とした判定による「脳死」とは全く異なる「臨床的脳死診断」とどのように付き合っていくのか、「脳死」だけでなく、それも問題にされてしかるべきであると考えられる(14)


三 その他の生命倫理学的な問題との関連

1.死の定義・受容

 わたしは「脳死は人の死か否か」という問題にコンセンサスを得ることは不可能だと考えているが(15)、それは死の定義にも、死の受容にも、それぞれ個人差があると考えるからである。
 「死の定義」の個人差については改めて論じる必要もないのではないだろうか。なぜなら「脳死臨調」以前からその問題が様々に考えられ続けているにも拘わらず、未だに確固たるコンセンサスが得られていないことからも導き出せるように、死について異なる定義を持つ論者が複数集い互いを説得しようと論理を駆使しても、その試みはほぼ必ず失敗に終わるからである。死の定義は他人からの説得によって得られるような簡単なものではない。
 死の定義が人によって異なるのは、人がそれを考える際に自覚的と無自覚的とを問わず前提にしている宗教や哲学などの世界観が人によって異なるからである。例えば「脳死」を人の死だと考える人には「アイデンティティの住処たる脳が不可逆的に機能停止したならそれは死である」等の定義があるのだし、「脳死」を人の死だと考えない人には「脳が機能しなくなってもホメオスタシスが維持されているならそれは死んでいるとは言えない」等の定義があるのだ。医学的に死亡した人を生きていると主張しつづけた集団が1999年末に紹介されたが、あの集団には「体温が〇度にならないならその人は生きている」という生の定義があった。一体誰にあの集団を説得できるのか。
 また、コンセンサスは単純な多数決ではない。新聞社や総理府が実施するアンケート調査では慥かに「脳死」を人の死と認める人が有効回答の過半数を占めているが、それを社会全体の合意と受け取ることは出来ない。ましてそれを受容することを他人に強いる行為が許されるはずもない。
 「死の受容」に個人差があるというのは、こういうことである。
 三徴候死などにより医師が診断するのは「死亡」であり「死」ではない(16)。「死亡」という医学的・法的な事実は厳然としてそこに存在しているのだろうが、その人が「死亡した」という事実を受容するまで個人にとってその人の「死」は存在しない。甚だしい場合には死体を目の前にしても「死」が存在しない場合もあるし、葬儀が終了しても存在しない場合さえある。
 以上から、一律的な価値判断を「死」に行い、その判断を他人に対し無批判に垂れ流し延長することは避けなけれればならないことが解るのではないだろうか。


2.自己決定[権]

 「自己決定[権]」は死を早める方向に拘束された論理であり、生の方向に開けた論理ではない。
 この国で「脳死」臓器移植が法的に解禁された背景に存在しているのが「自己決定[権]」である。これは単純に「自分のことを自分で決める権利」として理解されがちだが、実はそのように簡潔に自己閉塞して済む問題ではない。
 まず「自分のこと」とは何か。自分が他人の一部を他人と共有していることを否定できない以上(17)、自分の一部も他人に共有されていると考えるべきである。ならば「自分のこと」が何を指すのかは自明なものではなくなるのではないか。また、今生きている「自分」は様々なものの影響を受けて今の自分になっているわけであるから、自分が下す決定は果たして自分だけの決定と言えるのか、それも自明ではなくなってくる。自分の決定は人間関係や環境など、自分の外にあるものの影響を受けざるを得ないのではないか。
 ということは、自分の死を「脳死」であると決めること自体は許されぬ行為ではないだろうが、自分の死を自分だけのものであると「自己決定」することは本質的に不可能なのではないか(18)
 「自己決定[権]」の思想や論理を延長したところに、オランダなどで合法的に実施されている「安楽死」(19)という問題がある。オランダで行われている「安楽死」は死にゆく個人で完結したものとして捉えられているが、以上の内容を見るに、そのような捉え方は不可能となるのではないか。
 また、死の「自己決定[権]」は、「脳死」や「安楽死」など、死を早める方向でしか認められていない(20)。たとえ「わたしはわたしの死を心臓停止から一年後に自己決定する」と主張してもそれは到底認められない(21)。つまり、死の「自己決定[権]」は死を早める方向に拘束されているのだ。
 それを示す好適な例がジャック・キヴォーキアン(Jack Kevorkian)の主張である。
 19「99年現在で七一歳になる」ジャック・キヴォーキアンは、「1990年6月のアルツハイマー病の男性を皮切りに、130人以上の自殺を幇助し、「ドクター・デス」として畏怖されてきた」医師である。
 彼は「他人に殺されることを望んでいる者、病気に罹っているわけではないが死を決意した者で自力で自殺を実行できない者、胎児や無脳児などの本人の意思確認が不可能な者など」を「医殺(medicide)」すべきであると主張する(22)
 「キヴォーキアンによれば、脳死者には意識があることが分かっていながら、自己決定権のもとに臓器を取り出すといった残虐なことを、アメリカでは日常的に行っている。自己決定権が正当なものだとするなら、医学利用の対象を臓器提供に限定する必然性はない」(23)。彼はそれを以て死刑囚の死体や「脳死」者の身体を各種検査や実験、臓器工場、代理母出産などに利用する道を開こうとしている。
 私には彼の主張を受け入れることはできないが、彼の主張が「自己決定[権]」を基礎として成立していることには疑いの余地がない。今更パターナリズムに完全回帰することは不可能だが、しかし「自己決定[権]」だけを金科玉条にして生命倫理学的な事物の全てに対処しようとするのも不可能である。


3.死の義務

(24)

 これも「自己決定[権]」に深く絡んだ問題であり、「自己決定[権]」の真骨頂と言える。
 この論理は、そもそも、1984年、アメリカのコロラド州知事リチャード・ラム(Richard Lamm)が「人生の黄昏時ともなれば、年少者に居場所を明け渡すのが道徳的な義務である。秋には木の葉が落ちるように、高齢者には死ぬ義務がある」として提唱した、高齢者に対する「余分な」医療費を削るための具体的な論理であった。
 ラムが提唱した時、この論は冷笑を以て迎えられた。しかし一九九七年に同国の生命倫理学者ジョン=ハードウィッグ(John Hardwig)が改めて提唱し出すと、この概念や論理は非常に好意的に受容され始めるに至っている。
 ラムとハードウィッグとの違いは、前者が社会政策としての「死の義務」が必要であると訴えたのに対し、後者は個人の考え方としての「死の義務」の必要性を提唱しているという点である。“他人がどう考えどう行動するのかは他人に任せるが、わたしはわたしがそうすべきだと考えることをする”(「自己決定[権]」による)、ということである。
 しかし重要なのは、自分の行為は、他人の行為が自分に対し何らかの影響力を発揮しているのと同様、必ず他人に対して何らかの影響力を発揮するものだ、ということではないだろうか。
 自己の死は自己にだけ閉塞しているものではない。それはハードウィッグが自己の死を「自己決定」する際に他者、社会全体を構成する全ての他者への配慮を根拠としている点からも明らかである。であるならば、これは自己閉塞した「自己決定」の論理ではあり得ないはずなのに、ハードウィッグはこれが「自己決定」であると主張している。
 以上のように、「死の義務」は出だしからして破綻した論理である。だがその表面は偽りの「自己決定」という糖衣で巧妙にくるまれている。この誤謬に気付かず、あるいはこの誤謬を無視してこれを用いれば「二」の「4.」で論じた「臨床的脳死診断」による“脳死”に至る前、その人は「個人的」な衝動から「死の義務」を感じ、「脳死」判定からの臓器移植を「自己決定」しておかざるを得なくなるのだ。なぜハードウィッグがこれほどまでにして死に急ぐのかは不明である。


小結

 「脳死」は臓器移植だけと絡めて議論することが不可能な問題である。臓器移植のために法的な手続きによって判定される「脳死」の傍らには臨床的に診断される“脳死”というものが存在し、そう診断された人やその近親者はどうすべきか、周囲は彼らに対し何が出来るのかという問題が存在する。また「脳死」や“脳死”の問題の基底には「死をどう定義するか」「死を受容するとはどのようなことか」という問題が存在するし、その周辺には「自己決定[権]」や「死の義務」という問題が存在する。「脳死」はそれらすべてと絡めて論じていかなければならない問題である。
 TV等マスコミの偏りがちな報道ばかりに影響されて、印象批評的に「脳死」を問題にするのも一つの方法ではある。だが以上のような広範な問題を「脳死」や“脳死”の基底や周辺に認め、それらを改めて問題点として把握した場所から論じた方が、より現実の問題に密着した回答を得られる可能性が増すのではないだろうか。
 以上、真宗の立場から「脳死」臓器移植その他生命倫理学的な問題を考える際に必要となると考えられる「脳死」臓器移植や生命倫理学的な知識的前提について考察した。

<了>

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 註




(1) 「「脳死」臓器移植―その真宗的解紛の一可能態―」龍谷大学宗教部『宗教部報りゅうこく』第六五号所収 龍谷大学宗教部 1999年7月16日 30〜33頁
(2) 「臓器の移植に関する法律」平成9年7月16日 法律第104号
 ちなみに「平成9年」というのは1997年のことである。
 また、「臓器の移植に関する法律」を「脳死法」と略称する向きがあるが、わたしはこれを容認しない。なぜなら、この法律は「脳死」を規定している法律ではなく臓器移植に関わる様々な物事を規定している法律に過ぎないからである。  「Transplant Communication 臓器移植の情報サイト」
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/ →「DATA」→「法律関係」→「臓器の移植に関する法律」
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/DATA/law.htmlで全文を読むことが出来る。
(3) 上智大学法学部教授である町野朔氏が2000年2月18日に発表した「臓器移植法」の改正案。特色は本人の意思を一切確認しないことであり、具体的には ◇「脳死」臓器移植に対し賛成・反対の意思表示をせずに「脳死」に近接した人に対しても、家族の承諾があれば「脳死」判定を行うことを可能にし、「脳死」になった場合、臓器を摘出できるようにする。◇子どもが「脳死」に近接した場合、家族の承諾があれば「脳死」判定を行うことを可能にし、「脳死」になった場合、臓器を摘出できるようにする。また、子どもが「脳死」臓器移植に対して賛成・反対の意思表示ができないとする現行法の規定は踏襲する。ということである。
 なお、町野氏によると「我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。」(改正案より)ということなのだそうだ。しかしこの「我々」とは一体誰なのか。理解に苦しむ。
 なお、町野氏の「改正案」については
「森岡正博の生命学ホームページ」http://www.lifestudies.org/jp/
「臓器移植法改正案に反対します」http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm
「改正案」中間報告全文http://www.lifestudies.org/jp/machino01.htm
「改正案」最終報告書全文http://www.lifestudies.org/jp/machino02.htm
などで読むことが出来る。
(4) 三兆候死(「呼吸停止・心拍停止・瞳孔散大」)
 呼吸停止 → 肺が酸素を摂取できない → 身体全体への酸素供給が絶たれる → 死ぬ
 心拍停止 → 血液循環(つまりヘモグロビンによる酸素供給)が絶たれる → 死ぬ
(瞳孔散大 ← 死ぬ)
 呼吸が停止すると、身体全体への酸素の供給が絶たれ、死亡するに至る。それは体中の細胞が徐々に機能しなくなり、脳も徐々に機能しなくなっていくからである。運動神経系の脳は比較的すぐに機能停止するが、脳下垂体(ホルモン分泌等を司る)に位置すると考えられる「感覚する脳」(アウトプットはあまりせず殆どインプットのみを受け付ける。ぐるぐる思考することも可能らしい)はかなり長い間生き続けると考えられる。しかしあまり長時間に亘って酸素供給が絶たれれば確実に機能を停止し、溶融が始まる。
 心拍が停止すると、血液循環が止まり、よって酸素の供給も止まり、やはり死亡するに至る。
 つまり、呼吸停止や心拍停止は人体全体の不可逆的機能停止の結果でもあるが、理由にもなり得る。対し瞳孔散大はその理由にならない。瞳孔は千日回峰行の過程で七日間(実質五日間強)「断食断水不眠不臥」を続ければ散大してしまう。だが行者は死んでいるわけではない。人体としての生物学的な諸機能が不可逆的に停止した人は残らず瞳孔が散大しているが、瞳孔の散大しているすべての人の身体が不可逆的に機能停止しているわけではない。
 呼吸や心拍が停止した場合、何らかの措置を行っても心拍や呼吸が回復しないのなら、そのまま死亡する。
 人工呼吸器が開発されるまで、死亡を診断する過程で最も重視されていたのは心拍停止だった。なぜなら呼吸が止まっても、人工呼吸器の力を借りて呼吸させれば酸素の供給は絶たれないので心臓は酸素というエネルギー源を供給され続けるため(ある種のホルモンが血液中に存在する限り)動き続けるが、しかし心拍が停止し二度と拍動しないなら、確実に死亡するに至るからである。
(5) そのような中で「脳低体温療法」(脳低温療法・低体温療法などとも呼称する)という画期的な治療法が誕生した。
 脳低体温療法とは、体温を下げることによって脳を流れる血液の温度を下げ、それにより脳全体の温度を下げるという治療法である。この療法は、血栓などによる血液循環の途絶、つまり酸素欠乏によって機能停止しそうになっている脳に対してはまったく有効でない。だが温度の高い血液が急激・多量に流れ込むことによって急激に機能を低下し、不可逆的に機能停止しそうになっている脳に対しては極めて有効な治療法である。
 具体的な治療は、冷水を循環させたマットで患者の体をくるみ、それによって体温を低下させるという極めて即物的な方法で行われる(頭部だけを集中的に冷却しても血流の温度が下がらないためほぼ無意味である)。その外観は他の病気で末期状態にある患者に様々なチューブが接続され「スパゲッティ」と呼ばれる状態になっているのと同じかそれ以上に悲惨なものであるらしい。だがスパゲッティの末期患者に人間としての尊厳が認められないと主張する論者も(「だから「尊厳死」を容認しよう!」)、脳低体温療法の悲壮な状況を問題にして同様の主張をすることはない。恐らく、前者の死が確定的であるのに対し、後者の死が全く確定されていないことによる違いだと思われる。  脳低体温療法にも問題は存在する。血流の温度を低くすればするほど脳機能の回復は促進される傾向にあるが、逆に、内臓は血流の温度を低くすればするほど弱り、様々な感染症に罹患する危険性が増す。脳低体温療法はそれをふまえ、絶妙なバランスを保ちながら実施される。
 個人的に気になるのは、この療法をNHKが特集番組として放映した際に紹介された病院の一部が、その後「脳死」臓器移植の指定病院として認可されるようになっていることである。慥かに脳低体温療法は脳外科治療の最先端の一部を形成しているものであるから、そのような病院が「脳死」を判定する能力を持っているとしても不思議はない。だが「脳死」臓器移植と、恐らくそれとは全く異なるコンセプトで実施される脳低体温療法を、その病院や医師が患者をそっちのけにして選択肢として選択するようなことにはならないのだろうか。
 この問題については調査を継続したいと考えている。
(6) 小松美彦『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』勁草書房 1996年6月20日 63〜64頁
 ならびに
 土井健司「隣人愛の美名のもとに 脳死移植に対するキリスト教的視点からの問題提起」『現代思想』青土社 2000年9月号(通巻28巻10号)所収 243頁
 恐らく後者は前者を参考にしていると思われるが。
(7) 「ドナー」「レシピエント」とカギカッコで括ったのは、それぞれにその資格がなかったと思われるからである。この問題に関しては立花隆『脳死再論』(中公文庫 1991年6月10日 特に298〜318頁)が詳しい。
 また、日本での「脳死」臓器移植解禁が他の先進各国から大幅に「遅れる」ことになったことの理由としてこの事件、所謂「和田移植」による医療不信の助長のみを見出すのは明々白々たる間違いである。「和田移植」による医療不信は慥かに一般人の態度を硬化させたが、先進各国の中で日本の「脳死」臓器移植解禁が最も遅くなったのは、この国ではそれだけ長い時間をかけて「脳死は人の死か否か?」という問題が考えられ続けていたからである。医療不信だけではなく、「死」や「死亡」を医療の側に押しつけるだけでは無責任であることに多くの人間が気づき、自分で考えることにしたからである。
 「この間の移植ができました時【1999年2月に実施された日本国内第一例目の「脳死」臓器移植と思われる・石田】に和田寿郎さんが「この移植のできなかった今までの三十一年間は無駄になった期間だった」と言ったそうです。しかし、私はそうではないと思います。なぜならその三十一年間で、アメリカ人より日本人がこの技術について深く研究して、道徳とか倫理的な面も深く考えた気がしています。ですから、技術をやっている人にとってこの時間は無意味といっても、道徳と倫理の面を考えると、その時間に価値のあることが出来上がったと私は考えます。なぜなら、アメリカ人よりその三十一年間が、日本人の方が死と生、特に医学テクノロジーと生命倫理との関わりについて、私たちよりも深刻に考察したと思います。」(ウィリアム・ラフレール「脳死と臓器移植をめぐる文化・宗教の比較」 講演 1999年3月26日 【NCC宗教研究所『脳死・臓器移植と日本の宗教者―アメリカの宗教学者の提言をうけて―』ルガール社 1999年7月15日 所収 一三頁】
 なおこの全文は「脳死・臓器移植と日本の宗教者」http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r23.htm で読むことが出来る。)
 だが、ここが重要だが、それらの熟考は1997年の「臓器移植法」制定により宙に浮いたままになってしまった。「脳死は人の死か否か?」という問題は、現在では「脳死が人の死かどうかは問題ではない。蘇生しなくなった自分から提供すべきと考えるか否かが問題なのである」という方向に微妙にズレている。だがそのズレを自覚している人間は意外に少ない。また、他人と話してある結論を導き出そうとする際に実際に重要なのはこちらである。
(8) これは、ある医師との議論によって知った事実である。議論は Web 上に存在したディベートサイトで行われていた。だがこのサイトは現存しない。相手の医師がわたしの文章を誤読した上で議論を続行し、それに立腹した石田がそのサイトをフレーム化してしまい、管理人がサイトそのものをダウンさせたためであると考えられる。ある医師には読解力が、石田には忍耐力が必要であった。
 だが、お互いに自己の非を理解し、更に議論を重ねようとの共通理解が復活した矢先のサイトダウンであったことが石田には残念でならない。
(9) 臓器提供意思表示カードの詳細 (←クリックすると記入面が展開します。棚原さんから。)

 日本臓器移植ネットワークや公共広告機構などの移植推進派は、慎重派や反対派も「臓器提供意思表示カード」を持ち、「3.」に○をして携行することを呼びかけているが、わたしはこれに第四の選択肢を加え、そもそもこのカードを携行しないことにしている。自分がどのような意志を持っているのかを表明することの重要性は否定しないが、このカード一枚にそれを託すのは危険きわまりないと考えるからである。例えば自分と全く同じ名前が記入されたカードを拾得し、その場で交通事故に遭い、「脳死」に近接した状態になった場合を考えていただきたい。
 第一例目の「脳死」臓器移植が行われた時の報道状況を思い出していただきたい。あの時マスコミは「その女性がドナーカードを持っていたため」という言い方をしていたはずである(そのカードが「臓器移植法」制定前の無効なカードだったのではないかという疑いは現在でも存続している)。彼らは恐らく無意識ながら「3.」に○をしたカードの存在を容認していないのだ。
 また、この問題については本稿中で後述しているが、このカードは「自己決定」という甘美な罠に人々を積極的に導くものである。
(10) 「脳死」や心臓死を先見し、ごく僅かながらも蘇生の可能性が残されている患者に対して行うべき蘇生のための治療を放棄し、近親者に何も告げぬまま臓器保存のための施術(利尿剤の投与を中止したり腎臓保存のためのカテーテルを挿入したり)を開始する医師も慥かに一部には存在する。しかしそのような医療現場に疑問を感じ、それを非医療従事者に告発する医療関係者が存在する事実を考えるに、そのような暴走を医療現場全体の傾向として認識すべきではない。それは和田移植を医療現場全体の傾向として敷衍しようとするのと同様の誤謬であると考える。
(11) どのように診断されるのか、マニュアルは存在するのか、存在するとすればそれはどのような基準であるのか、医師や病院によってその基準は異なるのか、国や地域の違いによってはどうか、……そのような内容について私は調査を完了していない。この問題についても、註(5)同様、調査を継続したいと考えている。
(12) 本論「三」の「1.」や「註」の(17)で論じているように、「死」や「死亡」の概念や定義は複雑に入り組んでおり、それだけを取り上げでも大変な問題である。私は、医療現場は肝臓や脳の極限的な機能停止状態を以て「死んでいる」と表現するという方法を無造作に用いるべきではないのではないかと考えるが、私の思いとは関係なく、医療現場では法に準拠して判定される「脳死」とは別の意味を持つ“脳死”という言葉が実際に使用されている。だが、それが医療現場で行われている思考や主張、あるいはその前提となっている思考や主張をそのまま外部に押しつけて良いということと同義であるわけではない。
 「脳死」の医学的な限界や医学的な問題点については、頁数の限界があるためここでは言及しない。立花隆の「脳死三部作」などを読んで理解するなりして自分で調べていただきたい。
 『脳死』中央公論社 1986(文庫化は1988)
 『脳死再論』中央公論社 1988( 〃 1991)
 『脳死臨調批判』中央公論社 1992( 〃 1994)
 なお、現在の立花隆は「脳死」臓器移植を賛美している。理由は不明。あるいは「「臓器移植法」が制定されそうになった頃からこの問題に関して発言のなくなった立花隆が前面登場して、かつての批判的自説を改竄しつつ、脳死・臓器移植を絶賛していく。まあ、立花隆はこの豹変と東海村臨界事故に対して沈黙を守りぬくことで、「知の巨人」としての自身の位置を二一世紀に向けて確保したわけです」
(小松美彦『黄昏の哲学 脳死臓器移植・原発・ダイオキシン』河出書房新社 2000年10月20日 88〜89頁)ということなのかもしれない。
(13) 註(8)と同様。
(14) この問題は勿論それ以外の場面でも想定され考慮されてしかるべきであるが、この問題を真宗に引き寄せて考えれば、真宗はビハーラとは異なる新たな「看取り」を想定する必要性に迫られることになるだろう。ビハーラで問題になるのは主に死にゆくその人の心であり、その人が死をどのように受容するのかであった。近親者など周囲の人間はそれをサポートする中でその人の死をその人と一緒に受容していくものであったわけである。だが臓器移植とは無関係な場面で発生する“脳死”の周辺では、死にゆくその人の心の中がどうなっているのかを問うこともその回答を得ることもできない。そこで問題になるのは遺される者たちの心である。その人達が拒まないのなら、真宗は積極的に関わるべきであると考える。
(15) 「「脳死は人の死か否か」という問題にコンセンサスを得ることは不可能だ」というコンセンサスならば得られるかもしれないと考えることはある。
(16) 大峯顯氏は「「いのちの質」をどう考えるか ――仏教の立場から――」(『仏教』別冊4「脳死・尊厳死」法蔵館 1990年11月 203〜208頁)の中で「人間の生と死を判定できるのは、昔も今も医師だけである」(204頁)あるいは「社会的コンセンサスとは、医師と医師以外の社会人がそれぞれ出した意見を修正して、その一致点を見つけるというようなことではない。医師の意見を社会が受け入れたら、それが社会的コンセンサスの成立である。受け入れなかったら社会的コンセンサスはない。一人の人間が医学的には死んでいるが、法的・社会的にはまだ生きているというようなことはナンセンスである。」(206頁)という内容の主張を繰り返しているが、私にはこの主張が非常に無意味な主張に思える。なぜならこの主張には論理がないからである。「脳死」臓器移植を容認・非容認する際には素朴な感情が重要だと考えるが、主張し、他人を説得しようとする際には(説得する行為はある程度以上に詮無いものであるが)論理がなければならないのではないだろうか。
 まず一つめの主張に関して。
 私には、医師に人の死亡を法的に「診断する」権限を認めることは出来るが、「判定する」権限があると考えることは出来ない。医師は死亡を「判定する」のではなく「診断する」のである。また「死亡診断書」を書くことが法的に許されているのは医師だけだが、三兆候死の場合、法的でないものの、診断そのものは比較的容易である(雪山別荘孤立遭難系の推理小説を見よ)。「昔も今も」という言葉が何を意味しているのかはまったく不明である。
 慥かに「脳死」を「判定する」のは医師であるが、それを死亡の判定と同義であると理解し、その理解を他人にそのまま延長可能であると考えるのは正しい認識とは言えない。医師は「脳死」か否かを判定するのみである。「「脳死」は人の死か否か?」という問題に一律的な結論が出せない以上、「脳死」判定は「死亡」の判定と似ても似つかぬもののままである。
 また、私は、人の死や死亡は他人が判定せずとも自ずと「決まる」ものであると考える。それを待てず「「脳死」は人の死である」と殊更に決めようとする行為には何らかの恣意性があると考えてしまう。
 また、大峯氏のこの論は十年前の論であるため氏が現在もこのように考えているかどうかは解らない。ただ積極的に撤回されてはいないはずである。
 二つめの主張は医学の立場に偏った主張に過ぎず、それ以外の立場の人に対して力を持たない主張である。
 大峯氏のこの論文が抱える最大の問題点だと私に思われるのは、臓器を提供することを拒む人に対して「それはエゴだ」的に言う一方で、レシピエント側の「欲しい」と思ってしまう気持ちを冷静に批判する視点が一切欠けているということである。
(17) 他人の死が時に悲しく感じられるのは、その死によって自分の携えている記憶や思い出など、自分がその人と共有していたものの一部がその人に持って行かれてしまうからではないだろうか。
 人間の存在は即物的に捉えて捉え尽せるものではない。人間が肉体的なも面だけでなく精神的な面をも含めて成立している現象である以上、物質的な距離だけを根拠に「自分」を限定的に捉えるのは正確とは言えないのではないだろうか。
(18) 近親者のものだと言いたいわけでも社会全体のものだと言いたいわけでもない。そのような考え方は「だから「脳死」した者の身体は家族(or 国家)の財産である。よってそれをどう処分するのも家族(or 政府)の意のままである」などの極論に走りやすい。
 個人の死をその個人に閉塞させるのも、その個人と他者との関係の中に還元し尽くしてしまうのも、わたしにはどちらも受容しがたい。恐らくその間に何かあると思うのだが、何があるのか、まだ正確には解っていない。
(19) 積極的安楽死。これに対し「尊厳死」は「消極的安楽死」に含まれる。
(20) 心臓死を自己の死亡であると積極的に「自己決定」する必要はない。「自己決定」する必要があるのは自分の死亡を心臓死よりも早めようとする場合だけである。
(21) 「三」の「1.」に登場した集団の主張が認められなかったことからもそれは判然としている。
(22) キヴォーキアンやハードウィッグ・「脳死」臓器移植・「安楽死」・「尊厳死」などと「自己決定[権]」との関連については、小松美彦「「自己決定権」の道ゆき―「死の義務」の登場(上)(下)―生命倫理学の転成のために―」(岩波書店『思想』2000年2月号(908)、2000年3月号(909))が詳しい。
(23) 小松美彦『黄昏の哲学 脳死臓器移植・原発・ダイオキシン』河出書房新社 2000年10月20日 95頁
(24) 註(22)へ。


(真宗学専攻博士課程)
(2000年10月20日脱稿)