日本宗教学会 第60回学術大会 2001年9月15日

体細胞ヒトクローン
――真宗的立場からの一考察――

龍谷大学大学院生 石田智秀
http://www15.u-page.so-net.ne.jp/qb4/chishu/
(↑これは当時。)
*****@*****.ne.jp


もくじ

はじめに

1.前提
 (1) 真宗の前提
 (2) 科学的知識の前提
 (3) 科学と技術との関係に関する前提

2.産生される人間について

3.産生する技術とその欲求について

 (1)不妊症の立場からの欲求
  ◇遺伝子に使われる
  ◇生命の証
 (2)科学者の欲求(一部の科学者の欲求)
 (3)その他の欲求

小結

はじめに

 2001年8月6日付日本各紙の報道によると、同月5日付の英国日曜紙サンデー・タイムズ(インターネット版)は、イタリア人不妊治療医のセベリノ・アンティノリ氏が同紙のインタビューに答え、200組の不妊症カップルを対象に11月からヒトクローン個体を産生する計画に実質的に着手すると述べたと報じた。
 計画は、無精子症の男性の体細胞を抽出し、さらにそこから核を抽出。それを女性から取り出した卵子に移植して「クローン胚」を作り、刺激を与えて分裂を確認後、女性の子宮に戻すというものである。

 ヒトクローンの産生は、それに対する合理的な反対論が提示されない限り、これまでの科学や技術の歴史をひもとくに、事後承諾的に確実に容認されるであろう。
 ‥‥しかしそれで良いのだろうか。
 実現可能か否かが未確定な先端技術が存在し、それを実現したいと望む個人の欲求が存在する多くの場合、我々一般人はそれを個人の自由な判断に任せるという形式でいわば黙認してきた。だが個人の自由な判断に基づく欲求が結果的に個人にのみ還元される場合は稀である。果たしてヒトクローン技術の実践を容認すべきなのだろうか。

 以下の発表で、私が所属する真宗という一宗教の立場から目の前に差し迫っているヒトクローン技術の実際の産生という問題、ならびに、真宗的な立場に基づく倫理的な規範は他の宗教を信仰している人にどの程度の深度まで影響され得るのかを考察する。
 なお、私は2001年7月1日に日本印度学仏教学会で「真宗と生命の技術」と題する発表を行い、ヒトクローン産生に反対する立場を明確にした。今回の発表はその後に複数の方からいただいた指摘、ならびに発表者自身の考察の微々たる進展を承けるものである。



1.前提

(1) 真宗の前提

 この論における「真宗」は「浄土真宗」のこととする。なお「真宗的立場」はある意味ファンダメンタルな「真宗の信心を獲得している立場」には限定せず、「ある程度以上に親鸞や浄土真宗の思想と関わった実存的な立場」的に積極的な緩慢を以て考えたい。つまり

  1. 獲信(神秘体験を伴うこともある、いわゆる回心)している者
  2. 獲信を目指しつつ、それに至っていない者
  3. 獲信を自覚的に求めず、かつ真宗と積極的に関わって生きていこうとしている者

 これらすべてを「真宗的立場」としたい。
 なお発表者は「3.」である。ある種の哲学的な思考法を獲得し、信心獲得しないでいる立場である。
 また、「真宗的立場」は「3.」を含んだものであった方が良いと考える。それは、「真宗的立場」が獲信を絶対的に前提するのなら、そもそも伝道が成立しないかもしれないからである。幾分乱暴な言い方になるが、唯一の価値観を前提し他の多数の価値観の可能性を排斥するのは、自己を相対化する機縁として働き得る仏教による思考法とは一線を画するものであるとさえ言えるのではないだろうか。
 真宗的立場で語る場合には、キリスト者との対話など、他者への伝道を目指さない発言も可能である以上、それを逆から考えることも可能なのではないだろうか。
 また、真宗的な立場からの発言は、真宗的な立場にいる人間だけを対象にしたものではない。特定宗教である以上、他の宗教伝統や思想信条を持つ人に対して直接受け容れられる性質のものではないとしても、「人間とは何か」、「生きるとは何か」、「死ぬとはどういうことか」という、世界観や信条から来る問いに答えること・考えることをその目的に内包したものである以上、それを考える他の立場との相互理解や共感などは可能であると考える。
 しかし、私は以上の考察が非常に浅薄な水準に留まっている危惧を抱く。そのため、機会を改めて考察したい。
 だが、今回の考察はそのような立場からのものである。



(2) 科学的知識の前提

 「クローン」は「遺伝子が同一である個体の集団」【註1】のことである。よって、クローンには、器官と個体(生物の一個体)が存在することになるが、この発表ではその中からも特に「体細胞に由来するヒトクローン個体」の産生について考察し【註2】、クローン個体を産生する技術とは全く異なるES細胞の培養や、ヒトゲノム解析、ヒト遺伝子操作の技術などについては、直接的には考察をしない。機会を改めて論じたい。



(3) 科学と技術との関係に関する前提

 「科学」は19世紀に開始されたが、当時は研究者個人の好奇心を充足させ満足させることが最大の動機であり、かつ最終の目標でもあった。つまり、現在のように先端の「技術」と密接に結びつくこともなく、外部にそれを運用する積極的な要望が明確に存在するというものでもなかった。ほぼ芸術と同じ扱いの、個人的な財団や貴族など、出資者の満足のために支援され、自己満足のみを目的として自己閉塞していた、それが「科学」であった。
 だが現在の尖端科学における研究の多くは、新しい技術と、それを運用しようとする欲求と結びつくことで、外部社会に向かって開けている。そこに働いているのは需要と供給の関係である。そして需要と供給の関係は科学や技術の開発状況に依存する。
 つまり、科学に基づく先端技術は個人的な欲求と結びついているのである。

註1:文部科学省[当時は文部省] 「クローン技術による人個体の産生等について」1999年12月21日
註2:一卵性双生児も厳密に言えばクローンである。クローン技術を用いれば、現在は技術的に確立されていないが、臓器などの器官だけを製造することも可能である。



2.産生される人間について

 どのような経過をたどろうと、体細胞由来ヒトクローン個体として産生されるのは紛れもなく人間の個体であると私は考える。他の経過で誕生するヒト個体と同様、産生された個体を、産生した個人の欲望に基づいて利用しようとしてはいけないと考える。真宗的には鍋島直樹「縁起の生命倫理学──人クローンに関する浄土真宗からの一考察──」(真宗学 第103号 平成13[2001]年1月 龍谷大学 真宗学会)という勝れた論文がある。出生する人間に向ける眼差しに関しては、私はこれに全面的に賛同する。
 仏教の根幹を貫くと考えられる縁起の法に基づくこの考察は、多くの方の賛同を得られるものであると考える。



3.産生する技術とその欲求について

 「1.」の「3.」で述べたように、科学的な知識に基づく新しい技術は、人間の具体的な欲望と絡まり合って初めて実現される。ヒトクローン個体を産生しようとする新しい技術を実際に用いようとする欲望は、何らかの理由によって不妊症をなった人が「それでも自分と遺伝子的なつながりを持った人間を得たい」と考える欲望と、そのような欲求を充足させたいとする技術者の欲望である。また、まったく別の理由で自分あるいは他人の体細胞クローン個体を得ようとする欲望も存在する。これら三つの欲望を真宗的な立場から考察する。

(1)不妊症の立場からの欲求

◇遺伝子に使われる

 不妊症の立場の人が子どもを得たいと考える欲求は煩悩であろう。子どもを自分の所有物と考える考え方は、ますます煩悩であるだろう。
 仏教や真宗は個人や人類が生きるために絶対的に必要とする行為の小さくない部分を否定的に捉えるが、こと真宗的な立場に絞って考えれば、煩悩の一部は消極的にであれ容認されている。生きるために食べる、そのための殺生も、子を為すことも、そのための行為も、親鸞は否定しなかった。だが、毒消しがあるからと言って積極的に毒を喰らうような煩悩の発露は容認しなかったとも伝えられる。
 そのような立場から不妊症の人の欲求を考察するとどうなるのであろうか。

 まず。不妊症の人が得たいのは子どもなのだろうか。

 子どもと言うより、自分の遺伝子を残したいと考えているのではないか。では遺伝子とは何か。それは科学に基づく技術の進歩によって突き止められた全ての生物を生物たらしめる基本的な情報である。人間はじめ生物の全てはそれを体内に、細胞内に携えている。

 真宗的な立場の人間は遺伝子に縛られるべきなのだろうか。私はそうではないと考える。
 真宗の立場に立てば、真宗的立場の人間はすべて「世々生々の父母兄弟」と考えることが可能である。一人ひとりの相互の尊敬関係の中で真宗的立場の人間は「御同朋・御同行」となる。そこに遺伝的な相互関係が入り込む余地はない。

 科学的な前提に立てば、人間を人間たらしめているのは遺伝子であるとの見方も成立し得るだろうが、多少異なった、しかしやはり科学的な立場から考えれば、遺伝子は人間のいわばハード、肉体を構成しているにすぎないのである。利己的な遺伝子プログラムが我々人間はじめすべての生物を弄んでいるとする意見に私は納得するのだが、それは「存在」に限定されるのではないか。
 いわば、マイクロソフト社が作った「ワード」というワープロプログラムを使う私は「ワードを使って文章を書く」という水準まではマイクロソフト社の思惑に則っているわけであるが、それを使ってどんな文章を書くのかは私に委ねられている、それと同様なのではないか。例えばの話であるが、ワードを使うわたしがマイクロソフト社の経営方針に異を唱える内容の文書をワードを用いて執筆することも可能なのである。実際に存在する以上、遺伝子の存在を否定することは出来ない。しかし真宗的立場に限らず、人間の意志は個人の遺伝子に固執しなければならないわけではないのではないか。


◇生命の証

 不妊症の人が遺伝子にこだわる場合、それは遺伝子が生命存在の唯一の証だとする考え方に依っているのではないだろうか。しかしこれは真宗的な立場からは否定される。
 真宗的な立場から見れば、一人ひとりの人間が生きるのは阿弥陀仏に願われたからであり、死ぬのは、娑婆での縁が尽きたからである。
 人間はじめ全ての現象は縁起の法の網の目の中で生滅する。そこに遺伝子を残すも残さぬも、縁である。遺伝子を残そうと残すまいと、真宗的な立場で生きた人間は、縁起の法の中にある娑婆で関わった他人の心、他人の存在にその証を残すと考えることが可能である。
 以上から、遺伝子にこだわる必要は一切ないということになると考えられる。

 しかしこう考えると「必要が一切ない」ということに過ぎず、それをしても良いということになるかもしれない。この問題については考察を継続したい。



(2)科学者の欲求(一部の科学者の欲求)

 ヒトクローン個体を実現したいとする科学者・医療関係者は、「(1)の欲求を実現する手伝いをしたい、そのために自分の持てる技術力を行使したい」とすることが殆どである。だが、科学者や医療関係者はじめ人間は完全にボランティアな現象ではないのではないか。自己の研究欲と(1)を絡めている科学者・医療関係者も必ずや存在しているのではないか。

 科学に基づく技術は、常に人間の携える欲望を実現する方向に進んできた。それが技術の本来の存在形態なのだからこれは良いとも悪いとも言えない。そして、技術者や科学者は、時に「技術を開発するのは我々だ。その実際の運用方法を考えるのは我々ではない。」とする無責任な態度を保ってしまう。もちろんそうでない人もいる。
 問題は、人間の欲望を無限に実現して良いのかどうか、ということではないか。

 少なくとも、真宗は欲望を無限に肯定する立場ではない。科学や技術とは異なり、倫理は、人間の行動をどちらかと抑制する方向に進んできた。真宗は宗教であるが、そこには他の宗教同様、倫理が存在する。その立場からこれら科学や技術、欲望の関係を見るとどうなるのか。  科学者や医療関係者は、ヒトクローン個体を作って欲しいと考える人と向き合う人である。その人は、その欲求をただ積極的に容認するべきではなく、なぜそう欲求するのか、それ以外に選択肢はないのかなどを倫理的にともに考えるべきなのではないか。歴史をひもとくに、倫理なき行動は危険だと考えるのが科学的でさえあるかもしれない。
 そのようにするのが科学や医療関係者の仕事であるのではないかと私は考えるが、もしそうではないとするのなら第三者がそこに関わり、その欲求をそのまま肯定することではなく、その欲求そのものを考える手伝いをすべきなのではないか。

 真宗の立場は、個人の感情や自由意志を尊重しなければならないとする考え方には首肯する。だが、それをそのまま黙認する方向には必ずしも進まないのではないだろうか。



(3)その他の欲求

 その他の欲求は、ヒトクローンを作ることが「人間の」使命だとする宗教的な欲求などである。
 真宗的な立場からは、他者の信条や世界観を一方的に操作する理由は見つけられない。唯円『歎異抄』二章に伝えられる親鸞の言に

「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」

 とあることからも、これは明らかである。
 親鸞は自己の世界観として、念仏の救いが親鸞一人のために存在しているという事実を知った。それはつまり、親鸞に影響を受け、親鸞の世界観を共有した者にとってはそれが同様にその人一人のために存在しているという事実になるということであり、それ以上でもそれ以下でもない。親鸞にはそれが事実であるといういわば確信があったのだが、それを他者に押しつけることはしなかった。
 「人間の」使命を確定的に限定する「(3)その他の欲求」の立場は、自己の世界観を受け容れるよう他者に要求するが、それに異を唱える人に対し、表面的には彼らとは異なった価値観を容認する。
 だが、彼らの姿勢は、実際には他者に対しその価値観を問答無用で押しつけていると言える。なぜなら、彼らは彼らの世界観に基づいてヒトクローンを作ろうとするわけであるが、生まれ出る人間が彼らが携えているのと全く同じ世界観を獲得するという保証はどこにもないのに、彼らの行為によってヒトクローン個体が生まれてしまった場合には、それを強要することになるからである。
 このような強要の姿勢は、真宗的には否定されざるを得ないと私は考える。



小結

 以上、真宗的な立場からヒトクローン個体の産生という問題を考察し、単純に「ヒトクローン個体産生という問題」と言っても、その中には科学やそれに基づく尖端技術の問題、実際に産生されんとする人間の人権や人格の問題、そのような技術を実際に実現しようとする人間の心の問題など、さまざまな問題が内包されていることを明示した。
 極端に言えばそれらを羅列し、いくばくかの真宗的な立場からの考察を試み始めた、と言える内容になってしまったが、「真宗的見地からの疑義が及ぶのは、真宗的範囲のみである」と結論づけ、そこから一歩も前に進まなかった日本宗教学会での私の発表からは少し前進し、真宗的な立場からであっても、他の信仰や信条を持つ人に対して提言し、その人の考えを聞き、対話をして相対化する以上の、ある程度以上の深度での関わりを持つことが可能ではないか、という一応の結論を得ることが出来たと考える。また、生命の技術を見据える倫理や宗教的立場からの問題提起や考察は、ヒトクローン個体の問題に絞って考えることが不可能であるほどに入り組み始めているという現状をふまえ、今後もさまざまな情報を蒐集し、これらの問題について積極的に考察、時に行動して行きたいと考えている。

 真宗の獲信に関する考察、人間の欲望と煩悩に関する考察、ヒトクローン個体を産生する技術への考察、技術と欲望に関する考察、その他の考察、本発表の全ての部分に対するご指摘とご指導を切に願う。


 ‥‥このような発表を行いました。反応は、ちょっと薄かったです。持って帰って人に読んでもらったら
 「あなた自身の中に確固とした「真宗観」みたいなのがないから、だから「1.」の「(1)」の前提みたいなのが出てくるんでしょう。」
 って言われました。ぐっさ。
 「真宗」はもちろん、「信仰」をもう少し詰めて考えていかなければならないな、と思ってます。レジュメは今の僕が考えてもびっくりするくらい本当あっという間に書き上げたんです。だからその分、自分の求めてるモノが表れてるかもしれません。

 とは言え、あんまり良いレジュメとは言えないなー。サブカルっぽいけど、それ未満なシロモノです。

 もしよろしければ、ご意見ください。

 (あっれー。なんでネスケだと<a name>にまで下線が入るのだろ。)