| 真宗と生命の技術 |
タイトルの「真宗」は浄土真宗的な立場を広く意味し、文献学的な知識や論考に依ったもののみを意味しはしない。「生命の技術」も射程の広い言葉であるが、今回は特にクローン技術、中でも人為的な体細胞由来ヒトクローン個体技術を扱う(註1)。
到底結びつかないと考える事態さえ可能な「真宗」と「生命の技術」の両者をめぐり、私がこのような研究発表をする理由は、「真宗」の教義学的・教学史的・教理史的、あるいは他の真宗的な立場から、社会現象的で現代的なテーマを射程に収めて実施された研究が少ないと考えるからである。真宗が現代に位置する生きた宗教の一つである以上、現代的なさまざまな問題について考える契機は、真宗の中にあるはずである(註2)。
以上のような思考に基づき、真宗的な立場から、人為的体細胞由来ヒトクローン個体という生命を「製造」しようとする技術について考察を行う。
また、「生まれてくる[きた]人為的体細胞由来ヒトクローン個体とどう接するのか(をどう扱うのか)?」ということに関しては、私は何の問題もないと考えている。その人はクローンであれ何であれ人間に違いないのだから、真宗者・非真宗者の別なく、彼(彼女)に対し、他の人間と同じように接するだろうし、須くそのように接さなくてはならないだろう(実際、その一部と言えるヒトクローン[非人為的に発生した一卵性複数子等]に対してはそのように接している)。
一体、「ヒトクローンは人間か否か?」という問題設定をする人は、自分がクローンとして生まれてきたという事実を告げられた場合、それによって自分が人間でなくなる危険があると本気で考えているのだろうか。理解に苦しむところである。
なお、「だから」と言ってそれを理由に人為的体細胞由来ヒトクローン個体の「製造」(註3)に賛同することと同義と捉えることは、私には不可能である(註4)。
また、真宗的立場からの考察は「3.」からである。「1.」と「2.」では前提の整備を試みる。(また、「3.」も大部分がその前提を整備したに過ぎない。)
科学技術会議生命倫理委員会の「クローン技術による人個体の産生等について」(平成11[1999]年12月21日)には、
「クローン:遺伝子が同一である個体の集団をいう。」とある(註6)。
この部分の「個体」は細胞を意味していると考えられる。よって、クローンには、器官と、生物としての一個体が存在することになる。
つまり、クローンはいろいろな形態での存在が可能である。
◇人為的か・非人為的か。
◇受精卵に由来するか・体細胞に由来するか。
◇個体クローンか・器官クローンか。
以上3種の分類をもとに論理的な可能性を羅列すると以下の8種類となる。
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個体クローンは「★」、「1.」「5.」「7.」のみ。うち、非人為的に誕生し得るクローン個体は一卵性の複数子(「1.」)のみ(註7)。
人工受精卵を人為的に分裂させ着床させて誕生させる複数子(「5.」)もクローン(すでに誕生)。
いわゆる「クローン人間」(すでに存在している一個人の体細胞を何らかの方法で分裂させて更に一個人を得る)は、「7.」のみ。
「クローン」という言葉に機械的に反応し、1.「「クローン」だから、ダメ」として体細胞分裂によるES細胞培養の研究を禁止するのも、2.全く逆方向ながら同様に機械的に反応して「人為的体細胞由来ヒトクローン個体の製造を禁止するのは、非人為的なクローン個体として双子がすでに誕生している以上、無意味だ」とするのも、どちらも非論理的な言辞である。だがこれら「クローン」をめぐる解釈の混乱が、一般の理解を更に困難なものにしていると言えるであろう。
それらがなぜ非論理的であるかと言えば、1.体細胞分裂によるES細胞培養の研究ではヒト個体は生じ得ず、よって同じ「クローン」であると言っても、個体クローンと器官・細胞クローンとの製造は別個に考えなければならないからであり、2.クローン個体であると言っても、従来からある複数子(非人為的な、いわば「自然(≠「自然法爾」の「自然」)」な状態で出生する)と体細胞由来ヒトクローン(非人為的な、いわば非常に「不自然」な状態で出生する)との「製造」過程を同じモノとして扱うことは出来ないからである。
私は、人為的体細胞由来ヒトクローン個体を出生させようとする人間の「欲求」を野放しにすることは不可能だと考える。「技術があり、欲求がある。やっていけないわけがない」とする考え方にも首肯し得ない。「殺人の技術があり、それをしたいという欲望がある。やっていけないわけがない」とは言えないように、他人(出生子)に影響を与える以上、それをそのまま受容するわけにはいかないのではないかと考える。
また、我々が日々感じる欲求は、科学やそれに基づく技術の開発によっても開発される。それまでは夢であった・夢にも思わなかったものは、技術が開発されて初めて可能となる。具体的には、「脳死」と法的に判定されたの人からの臓器摘出→移植という選択肢が生まれ、それをしたいと思うことが現実的に可能になるのである。ヒトクローン個体を「製造」することに関しても同様である。
「科学」は19世紀に開始されたが、当時は研究者個人の好奇心を充足させ満足させることが最大の動機であり、かつ最終の目標でもあった。つまり、現在のように先端の「技術」と密接に結びつくこともなく、外部にそれを運用する積極的な要望が明確に存在するというものでもなかった。ほぼ芸術と同じ扱いの、個人的な財団や貴族など、出資者の満足のために支援され、自己満足のみを目的として自己閉塞していた、それが「科学」であった。
だが、時を経て、科学的な研究の成果は現実に対して大規模に適用され、応用された。「悪用」(註9)さえされた。
現在の尖端科学における研究の多くは
このような局面で問題となるのは、科学者・専門家個人の心であると考えられる。
科学や、より広い意味での科学に含まれる医療の、それに基づく技術を実際に運用する場面では、絶えず価値判断が行われている。
古き良き科学(村上の言葉に依れば「プロトタイプの科学」)そのものは決して価値判断を行わない。事実を目の前にしてデータを収集し、記述的に、帰納的に事実を述べるにすぎない。
だが技術と結びついた形式で実際に運用される科学(村上の言葉に依れば「ネオタイプの科学」)はそれを用いる人間の価値判断に大きく依存する。「科学者は、いかなる科学研究も、最も基礎的な研究であってさえ、研究者はその研究の結果が社会に対して与え得ると推測されるインパクトを考慮する義務があるのだ。」(註11)
体細胞由来ヒトクローン個体として出生する人間とどのように関わるべきか、という点に関しては、ほぼ前述の通りであり(「註4参照」)、真宗的にも「縁起の生命倫理学──人クローンに関する浄土真宗からの一考察──」(真宗学 第103号 平成13[2001]年1月 龍谷大学 真宗学会)という勝れた論文がある。出生する人間に向ける眼差しに関しては、私はこれらに全面的に賛同する。(註12)
体細胞由来ヒトクローン個体の周辺には、二つの欲望が渦巻く。出生させようとする欲望と、その行為をしたくないと考え、他人に対しても禁止したいと考える「禁止欲」のような欲望である。
もちろんそれらは等しく至って感情的・主観的な素朴な価値観に基づいた欲望であり、それだけでは説得力がない。だからどちらも論理を駆使して自己の欲望を充足させようとするのである。素朴な感情は尊重されるべきだが、「したいからしたいのだ」「させたくないからさせたくないのだ」という言辞はともに何らの説得力を持たない。他から来るのは「同感」「共感」「違和感」「嫌悪感」等の感情だけである。
欲望は、特に他人(含人為的体細胞由来ヒトクローン個体)の存在を目的ではなく自己の欲求を充足する手段として巻き込むような欲望は、可能である限り、それを運用する前に論理的に考察されねばならないと考える。
またその際には個人的な思いを「絶対反対」や「絶対賛成」などの言葉で正当化しようと試みてはならない。それは「真宗の立場からは○○なので全ての人が××しなければならない」と言ってはならないのと同様であると考えられる。論理や考察には及ぶ範囲があるのだから、積極的にそれを踏み越えてはいけない。
また、真宗は人間の行為や欲望を野放しにする契機を本来的に持っていない。それは「善かれ」と思った行為でさえ「聖道の慈悲」と理解する見方を基礎とする点からも明らかである。
体細胞由来ヒトクローン個体を誕生させようとする人間を後押しするのは、「自分と遺伝子的なつながりを持った人間を得たい」と考え、そのようにしたいと考える欲望と、そのような欲求を充足させたいとする技術者の欲望である。
遺伝子的なつながりをもった人間を得ようとするのは、生物学的に見ても本能であると言える。だが、先天的・後天的な理由によってそれが叶わない場合にそれを技術的に意志するのは本能であると言えるのかどうか。発表者は言えないと考えている。それは技術を利用したいとする欲望であり、本能「的」ではあるが、本能ではないと考えている。
遺伝子的なつながりを持った人間を出生させようとする、クローンと似た技術に、人工授精がある。だが人工授精と体細胞由来ヒトクローン個体との相違点は明らかであり、多大であると考えられる。なぜなら、人工授精は精子と卵子を人工的に掛け合わすものの、そこからの分裂は、精子と卵子の性質によるものである。つまり、人工授精は、「自然」な性質の手助けを人間が少しだけやっているに過ぎない。
対し、体細胞由来ヒトクローン個体を製造する場合、その行為はどこまでも不自然である。体細胞を取り出して放置しても、絶対にヒト個体にはならならい。それをヒト個体にするためには、他の生命の可能性である卵子から卵核を切除したり、他の健康な受精卵から受精卵核を切除したりしなくてはならない。なお、そのような卵の細胞質に体細胞核を移植しても、非人為的には絶対に分裂が開始されないため、電気ショックを与えなければならないのである。これは「不自然」きわまりないと言えるのではないか。
自然か不自然かだけをもって断ずることは出来まい。だがこれは重要な相違点であり、重要な分水嶺であると私には考えられる。
むしろ私は「利己的な遺伝子」にこだわる必要はないし、こだわってはならないのではないかと考えている。遺伝子に組み込まれた自己複製プログラム以外の出生を否定するつもりはないが、真宗的・仏教的には、人間の行為を無限に容認することは不可能であると考える。
もちろん真宗者に「聖道の慈悲」は不可能である。還相回向に基づく善のみが真宗者には可能である。私が上のように考察することさえ、真宗的立場から見れば明らかに「聖道の慈悲」であり、究極的には否定されるものである。だが往生前のわたしは無駄であっても真宗に影響を受けた自分の価値観を携えて精一杯に生きねばならないし、精一杯に考えなければならないだろう。無駄は承知(のつもり)である。
すべての欲望や欲求を本能であると見、それをすべて煩悩だと断ずることも、仏教的見地からは可能であろう。だがそのように言うと、人間のほぼ全ての行為がそのように断ぜられよう。よって、どこで線を引くかが問題となる。発表者としては、それはnatureという意味での「自然(≠自然法爾的な自然)」との絡みで判断されるべきであると考える。その理由は、人間が所謂「自然」の一部であることは事実であり、万物は「縁起の法」の中にあり、一如であるとしても、それでも人間の行為とそれ以外との間には何らかの境界を設定することが可能だと考えるからである。でなければ人間は縁起の法の中でなお自分が意志し行為することの意味を掴めなくなると考えるからである。
以上、科学的な知識に基づく尖端技術を用いる際には、それが存在することがそれを用いる理由になるわけではなく、それを選択しようとする意志や、それを裏付ける価値観が問題になることを述べ、体細胞由来ヒトクローン個体を製造しようとする人間は、自分の欲望が他人に与える影響について些か無頓着なのではないかと指摘した。
ヒトは自分の欲望を冷静に見る契機をどこかに持たなければならないのではないか。
思考することが可能な人間という存在は、縁起の法を自分の体内に採り入れたのなら、自分の欲望とそれに基づく行為が他人(含人為的体細胞由来ヒトクローン個体)にどの程度まで・どの広がりまで・どの深度まで影響を及ぼすのかを真剣に考えなければならない。体細胞由来ヒトクローン個体を「製造」する技術はまだ実用化されていない。今の時期にこそ熟考することが可能である。熟考の際には、自分が出生させようとしている体細胞由来ヒトクローン個体の立場からの思考シミュレーションがまず必要なのではないか。そしてその時には自分とは全く異なる価値観に基づいて生きている・生きる可能性のある人間の存在を考慮しなくてはならない。
真宗的には、もし宗祖親鸞や歴祖の言葉にあくまで依ると言うのなら、蓮如の「面々のおはからいなり」(註13)という言葉を真摯に受け止めねばらならないだろう。それは、自分を無視点的視点から見つめる契機となり、自分を含めた「人間」の行為を無視点的視点から見つめることにつながっている。たとえ明確な言辞に依るのではなくても、蓮如のこの言葉は真宗者に通底しているのではなかろうか。であるならば、真宗者はその契機を阿弥陀仏と自己との関係性に求めることが可能ではなかろうか。
しかし、わたしは真宗信者以外の人間に対しても、体細胞由来ヒトクローン個体を製造するのを思いとどまって欲しいと考える。だが真宗的な見地からそれらの人間に対して何かを主張しても、それは明らかに範疇錯誤、カテゴリ・エラである。真宗的見地からの疑義が及ぶのは、真宗的範囲のみである、と考える。
以上、真宗的な立場から、人為的体細胞由来ヒトクローン個体という生命を「製造」しようとする技術について考察を行った。
| 註 |
クローン技術、その中でもヒトクローン技術、その中でもヒトクローン個体技術、その中でも人為的ヒトクローン個体技術、その中でも人為的体細胞由来ヒトクローン個体技術を扱う。本論「1.」を参照。
「そもそも真宗と生命工学が結びつくのか?」との意見もある。
言わずもがなで結びつくのではないだろうか。なぜ結びつかないのか。
真宗はじめ宗教は、さまざまな事実に基づいて他者や己の生死に思いを馳せ、あるいは自己を超えるものの存在に思いを馳せることによって、それまでとは異なる新たな世界観を得させる方向へ働くものである。だが個人や集団の世界観が画期的に変わればそれで良いわけではなく、また、世界観が画期的に変わらなければどうにもならないというものでもない。なぜなら、たとえ一人の人間の世界観が画期的に変わっても、その人の周囲にある事実はその前と後と些かの変化もないままであり、世界は変わらずに存在し続けるからだ。
宗教は生きるためのものである。人間が生きる世界にはさまざまな問題がある。それらを解いたり、解こうとしたり、‥‥世界観でもある宗教に、それを考える契機がないわけがないと私は考える。そして宗教である以上、真宗にもその契機はあるだろう。個人的な信心の内実や言葉の意味の問題に厳密になるあまり、現実世界に発生している社会的な問題と乖離してしまうものが真宗なのではないと私は考えている。
そのような論理から、真宗の立場から生命工学を考えるのに問題はないと私は考える。
どのような場合であれ、私は人間が人間を「製造」するという考え方を取るべきではないと考えている。
「製造」は甚だ語弊のある表現だが、技術的にはまったくこの表現の通りであり、かつ誕生させようとする技術者の観点からしてもまったくこの表現の通りであり、かつ私が違和感を覚える表現であるから、この表現を用いている。
科学技術会議生命倫理委員会クローン小委員会も「クローン技術による人個体の産生等に関する基本的考え方」(平成11[1999]年11月17日)で人為的体細胞由来ヒトクローン個体の「製造」を禁止している。また、
「なお、禁止すべきことは人クローン個体を意図的に産生しようとする行為であり、万一禁止に反して人クローン個体が産生された場合には、生まれてきた子供は個人として尊重されることは当然である。」
私自身、「クローン」に関する科学的/技術的知識が決して十全であるとは言えないが、私が把握し得た基本的知識を伝達する。
現時点では、一般のクローン理解は甚だ浅い。
成体の体細胞に由来するヒトクローン個体を実際に「製造」する・した場合に問題になると考えられる誤解は(私の解釈に基づくのであるが)、以下のようなものである。
もっと多くの誤解があると考えられるが、それら誤解はことごとく科学や技術の知識が伴わない場所から先入観と偏見に任せて大雑把に「クローン」を捉えるだけで善しとしたために起こると考えられる。よって、
という段階を踏めば、少なくとも誤解を誤解として認識することが可能となり、「クローン」に関してより広く深く対応することが可能となると考えられる。
ここでは誤解の一つひとつを吟味しないが、本考察中「1−1.技術的知識の前提」の、更に前提となる技術的知識をごく簡単に整理すれば、現在の日本では、ヒト細胞を用いたクローン研究では、受精卵を用いた研究のみが許されており、なお、それはES細胞の培養等、ヒト個体を発生させない条件下での研究に限定されている。将来的には体細胞をES細胞化する道も模索されているが、まだ実施されていない。(個人的には、研究や実際の運用をES細胞の培養や器官クローンに限定し、ヒト個体を発生させないのであれば、体細胞に由来するクローン技術を運用しても良いのではないか、と考えている。だが「いかなる科学研究も、最も基礎的な研究(もちろん筆者の区分に従えば「プロトタイプの科学」)であってさえ、研究者はその研究の結果が社会に対して与え得ると推測されるインパクトを考慮する義務がある」(村上陽一郎『文化としての科学/技術』(双書科学/技術のゆくえ)岩波書店)ものであるから、そう簡単に割り切れるものではないのだが。
◆体細胞に由来するヒトクローン個体の「製造」方法
体細胞に由来するヒトクローン個体を「製造」する場合は、
◇女性から「卵子」を提供してもらう
(あるいは誰かから「受精卵」を提供してもらう)
◇誰かから体細胞を提供してもらう
そして、
◇体細胞から「核」を取り出す
◇「卵子(または受精卵)」から「核」を取り除く
→「体細胞」から取り出した「核」を、「核」を取り除いた「卵子(または受精卵)」に入れる
→ その細胞に特殊な電気的刺激を与える → 細胞分裂が始まるのを確認する
→ 産んでくれる女性の子宮に着床させ、待つ → 生まれる、こともある。
論理的には以上の段階を経る。
ただし、ヒツジを見ても、体細胞由来クローン個体の成功率は激烈に低い。‥‥牛は多い。
「クローン技術を応用すれば女性が出産しなくてもよくなる」的なSFじみた作品に触れることもあるが、現在の技術では人工胎盤も人工子宮も不可能であるため、そのようなことはない。「巨大な試験管の中で培養されるヒト成体」という画像はSFではない。ファンタジーかコメディである。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/shisaku/clo00215.htm(現在は文部科学省のHPに所収)
医学的・生物学的に「複数子」と言うかどうかは不明。
村上陽一郎『文化としての科学/技術』(双書 科学/技術のゆくえ)岩波書店 2001年4月5日 特に第二章「科学研究の様態の変化」
(アメリカの)「多くの物理学者は、核兵器を問題視したとしても(そうでないアメリカ人が今でもアメリカには多数いることは、広島関係の展示が拒まれた例のスミソニアン事件でもはっきりしている)、自分たちには責任がない、という態度をとっている。自分たちは、自分たちの好奇心から、原子核研究をやってきた、その結果の一部を軍部が「悪用」したとしても、「悪用」したのは科学者の仲間ではなくて、飽くまで軍部である、だから原子核研究そのものに、核兵器に対する道義的責任がある、などというのは、誤りである。これが、そうした態度の背後にある考え方だろう。」前掲書
前掲書参照 特に第五章「科学/技術と生活空間」
前掲書 第三章
ただ、この論文を承けるならば、「縁起の生命倫理学」はヒューマニズム(人間至上主義・人間中心主義)なのかどうか、という考察もしなければならないだろう。我々が日常的に家畜を食しているという事実をどう捉えるのか。 ヒューマニズムであるのなら、ないのなら、その行為にさえ論理の構築が必要となり、先端技術が日常的に行い、我々一般人が積極的・消極的の違いこそあれ結果的に容認しているような、母親の胎内にある受精卵をヒトと認めつつ、人工授精された受精卵の一部をヒトと認め一部をヒトと認めない、あるいはヒトと認めつつその可能性を圧殺する(ES細胞の培養を行うとその受精卵はヒト個体になれない)という事実を仏教的にどう扱えばいいのか、という問題にもなると考えられる。 だがこれは私にも科せられた共通の問題であると考えている。機会を改めて考察・論考したい。
『蓮如上人御一代記聞書』