| 「脳死」臓器移植について(1) |
本稿は、2000年4月19日から6月14日までの間に数回行われた、とあるサブゼミで用いたレジュメに加筆し、修正を加えたものである。(なんかすごくエラそう。)
転載・引用・リンクの際には御一報ください。非常に喜びます。ない尻尾もバターになるくらい振ります。
まず、わたし本人の「脳死」臓器移植へのスタンスを判然とさせます。
作成者は上記のような立場にあります。そのためだと思うのですが、「脳死」臓器移植に関する知識は多少あるものの、真宗から見るとどうなるのか、そこにはほとんど踏み込めていません。どうぞご了承ください。
本稿の構成 |
1.「脳死」という概念の誕生 |
2.「脳死」臓器移植の現状 ――臓器移植法―― |
| 3.「脳死」と“脳死” ――現在の日本での「脳死」受容―― ◇根本的な問題点 ◇気付かれていない(と思われる)問題点 | |
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番外.「「脳死」について勉強する」とは | |
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註 | |
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関連リンク(別ウィンドウ) |
アメリカが朝鮮戦争を戦っていた当時、そのアメリカで人工呼吸器(レスピレーター)が誕生した。それに伴い、従来の「三兆候死」(「呼吸停止・心臓停止・瞳孔散大」)(1)では括りきれない新しい死の概念が徐々に発達していくこととなった。
ある人が、麻酔の効果によってではなく疾病や外傷によって自発呼吸をしなくなり、人工呼吸器に接続される。血液への酸素供給が保たれているためしばらくそのままの状態が続くが、やがて心臓の拍動も停止する。……そういう人を解剖したところ、多くの場合は脳が溶けていた。
「溶けている? 器質的に変化しているということは、この脳は脳としての機能を果たさなくなっていた(≒死んでいた?)わけだな? ではこの脳が機能しなくなった(≒死んだ?)のはいつからだろう?」
医者がそれを考え始めた時に“脳死”という概念が生まれた。
当初は、いつ脳が溶け始めた(≒死んだ?)のかは問題にならなかった。なぜなら従来通り「三兆候死」をもって患者の「死」を判定し(呼吸ははなから止まっているし瞳孔も散大しているのだから心臓が動かなくなれば「三兆候死」になる)、その後に患者を解剖し消極的に脳死を判定していたからである。解剖医のある者はかつて脳であったものが指の間から滑り落ちて行くのを見て「この人の脳はこんな状態だったのか。そうすると、最後の方は少し無駄な治療をしていたのかもしれないな」と言い、ちょっぴり無駄を感じる。死者を解剖して解りきった脳死判定をしているのだからその分には何の問題もない。生きている人を「死んでいる」と言って殺す恐れは全くない。
「このような状態になった脳は“死んでいる”と言って差し支えないわけだ。じゃあ、この身体から臓器をもらって移植すれば助かる人がいるのではないか?」
と考え始めた瞬間に、臓器移植を前提とした「脳死」の概念が生まれ、心臓が停止する前に「脳死」を正確に判定するにはどうすれば良いのかが問題になり始めた。その問題を解決し積極的な脳死臓器移植への道を拓くために、法が整備され、「脳死」判定基準の作成が試みられ出した。
現状で論じられる「脳死」は上記のようないきさつで誕生したものであり、必然的に「臓器移植」、とりわけ臓器の「生き」が良くなければ移植しても意味がない心臓・肝臓・肺臓移植(2)とセットである。「脳死」と臓器移植とを分離して語ることは、現時点ではほとんど無意味である。ジョン・ハードウィッグの提唱する「死の義務」(3)を大肯定して語り出すなら意味のあるモノになるとは思う。しかし現時点でのわたしはそれを受容しない。
日本に於ける「脳死」概念は、「臓器移植法」(4)により、「「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることとなる者であって脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたものの身体をいう。」と定められている(第六条 第2項)。
くどいが、「脳死」は臓器移植のために設けられた概念である。
従来の「三兆候死」を経て亡くなった人の遺体から臓器を取り出して移植する方法をとれば殺人罪に問われることはまずない。実は「死」を規定する法律はないのだが、心臓が動いている状態の人間を指さして「この人は死んでいる」と本気で言った人はそれまでいなかったし、心臓の動いている状態の人から心臓や肝臓などの臓器を取り出すのは歴とした殺人行為として認識されていた。殺人行為に基づくものであるなら、よほどのことがなければ心臓や肝臓を摘出(→移植)することは不可能である。しかし、医療技術としては心臓移植も肝臓移植もさほど難しいものではない。また、心臓や肝臓を移植すればもっと長く生きられると考えられる患者さんがいるのも事実である。
そこで、従来の「三兆候死」で亡くなった人からの腎臓摘出(→移植)や角膜摘出(→移植)に加え心臓や肝臓の摘出(→移植)にも道を開く一つの方法として、「臓器移植法」が生まれたのである。
法律によって「脳死」は「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたもの」と定義されている(二次的な定義である。実際には「脳死した者の身体」の定義があるだけで「脳死」は一切定義されていない)。
ここに「判定基準は妥当か否か」という非常に大きな問題が生まれる。なぜなら判定基準が妥当でなければ「脳死」は揺らいでしまうからである。また二次的な定義だけで運用されている現行法にはかなり問題があるのではないかとわたしは思う。
判然と言ってしまえば、法的な「脳死」と殆どの日本人が思っている“脳死”とは別モノなのである。
立花隆は「「もう助からない」は死ではない」(5)の中で、次のように述べている。
「竹内基準(6:引用者註)は、作成者の竹内一夫氏自身が何度もいっているように、蘇生限界点(ポイント・オブ・ノーリターン)を越えたかどうかの判定基準でしかない。」
「まだ回復する望みがあるなら、医者は必死で最大限の治療を続けなければならない。
しかし、どう考えてもこの患者は助かる可能性がないという場合、予後は絶対的に絶望であるという場合には、むだな濃厚治療を続けるより、安らかに逝ってもらえる方向に治療方針を切り替え、家族にもそのむねを告げて、心の準備をしてもらう。 この方針の切り替えをどこでやるか、そのポイントを見極めるための判定基準なのである。患者がポイント・オブ・ノーリターンを越えていれば、方針を切り替えるのである。
このような目的で作られた判定基準を、「人の死たる脳死」の判定に用いてもよいというのが臨調答申(7:引用者註)の立場である。だが、そのような結論を導くためには、ポイント・オブ・ノーリターンを過ぎることがすなわち人の死であるという論理づけが必要なはずである。ところが、そのような議論は、臨調答申のどこにも見当たらない。」
「「もう助からない」と「もう死んでいる」とは、絶対的に内容がちがう状態である。両者を混同することは許されない。人がどんな病気で死ぬにしろ、そのぎりぎりのターミナル段階では、医者がこの患者はポイント・オブ・ノーリターンを越えたと判断する時期がある。しかし、そこを過ぎても、患者を死者として扱うことは許されない。死者として扱えるのは、患者が本当に息を引き取ってからである。」
「死にそうだ」と「死んでいる」とは違う、ということである。蘇生限界点を乗り越えてしまった人は徐々に死んでいくものであり二度と生還することはない。しかしそれを死んでいる状態と同一視して良いとはわたしは思わない。そのような状態をも便宜的に「脳死」と呼ぶことにしよう、と決めたのが1997年に施行された「臓器移植法」である。
再び立花隆前掲書を引用する。
「ポイント・オブ・ノーリターンを過ぎたということは、脳死というプロセスの進行開始を意味するものではあっても、脳死の完成を意味するわけではない。ポイント・オブ・ノーリターンを過ぎたというだけで、それを人の死とみなしてしまうということは、ロジカルには、別の病気で瀕死の状態にある患者を死者とみなしてしまうのと同じである。」
「難しいことをごちゃごちゃ考えるのはやめて、脳死の場合は、ポイント・オブ・ノーリターンを過ぎたら死んだとみなしてしまおうというのが、臨調答申の立場である。(中略)いろいろもってまわった表現をしているが、結局、いっていることはこれにつきるのである。」
「臨調答申は、竹内基準だけで十分だという。その根拠はというと、竹内基準を満たした人で、「生き返った」人はいないからだという。
しかし問題なのは、その人が生き返るかどうかではない。その人の胸を開いて心臓を取り出すときに、その人が本当に死んでいるかどうかが問題なのである。「もう助からない」ではなく、「すでに死んでいる」かどうかが問題なのである。「生き返った」人はいなかったということは、その人たちが「もう助からない」レベルに達していたことの証明にはなっても、そのとき「すでに死んでいた」ことの証明にはならない。
死の判定の根本原則は、「すでに死んでいる」人をまちがって「まだ死んでいない」とする過ちは許されるが、「まだ死んでいない」人をまちがって「すでに死んでいる」とする過ちは絶対に許されないということである。竹内基準で十分とした臨調多数派の人々は、自分たちがこの根本原則を踏みあやまらなかったかどうか、もう一度、胸に手を当てて考えてみるべきである。」
わたしは、本来ならば「脳死」の是非について議論する際には「このような基準で考えて本当に良いのか?」という点を問題にすべきだったのではないかと思っている。しかし国会や委員会での議論はこの法律の言う「脳死」と一般人が“脳死”という言葉から誤解して受け取る意味との無邪気な合一を前提としたものであった。
涙が出るくらいおかしい。
わたしは「脳死」という言葉に接したとき完膚無きまでに死んだ脳のことを「脳死」と言うのだと直感的に誤解してしまい、立花隆の『脳死』三部作(8)を読むまで「脳死」が蘇生限界点を超えた生きている脳をも含むという事実を知らずにいた。わたしの思い込みとは裏腹に、「脳死」は、正しくは「脳不全」と言うべき状態に過ぎず、わたしが思っていたような“脳死”(完膚無きまでに死にきった脳)とイコールで結ばれるものではなく、蘇生限界点を超えた、細々と、限界に近付きつつ必死で生きている脳をも含んでしまう概念だったのである。
この事実を知ったとき、わたしは自分の無知を恥じるとともに、語義的な意味だけを考えてその語が表している内容まで知り尽くした気になるのは危険であることに気付いた。
これらも全く別の価値観である。
これら6つの価値観が入り交じって、自分の立場や相手の論者の立場を一切明らかにしないままで進んでいるのが現在展開されている多くの「脳死」論・「脳死」議論なのではないだろうか。齟齬や誤解や行き違いが多くなり、かみ合わない議論が多く行われているのは、これら6つの前提が明らかにされていないためではないかとわたしは考えている。
「脳死」臓器移植をめぐる議論が実りあるものになるためには、自分の考え方や相手の考え方が、これら6つの価値観のどれを採用したものなのかを明らかにすることが必要ではないのだろうか。そしてその上で、自分と他者との関わりについて語る森岡正博氏(森岡正博の生命学ホームページ http://member.nifty.ne.jp/lifestudies/ )の論理や、自己決定権をめぐる小松美彦氏の論理を採用すべきであると、わたしはそう考えている。
今回は「脳死」臓器移植を論ずる際に前提となる知識や論理について考えてみた。
ちなみにわたしは判定基準を拒否する考え方のうち、Aの立場を採用している。そこにはわたしの哲学的・宗教的な価値観が反映されている。その詳細については、次回に譲る。
そういえば修士論文もこんな終わり方をしていたなあ……。大丈夫かなあ。
現在TVで放映されているACのCMで、少女は「今はドナーカードの3に○をしているけど、家族にもっと勉強して解ってもらって、早く1に○が出来るようになりたい」的に語っている。しかし「脳死」問題を勉強すれば誰でも「脳死」臓器移植に賛成しドナーカードの1に○をするようになるとは限らない。
「「脳死」について勉強する」という行為は、現在行われている「脳死」臓器移植を推進する立場にある諸団体の主張や「脳死」臓器移植によって「救われた」とされるレシピエントの感情吐露(≒教科書)を無批判(≠非難)に受容することのみを意味しない。
呼吸が停止すると、身体全体への酸素の供給が絶たれるから死に至る。体中がじわじわ死んでいき、脳もじわじわ死んでいく。運動神経系の脳はすぐ駄目になるが、脳下垂体(ホルモン分泌等を司る)に位置すると考えられる「感覚する脳」(アウトプットはあまりせず殆どインプットのみを受け付ける。ぐるぐる思考することも可能らしい)はかなり長い間生き続けると考えられる。しかし一時間も酸素供給が絶たれれば確実に死ぬ。
心臓が停止すると、血液循環が止まり、よって酸素の供給も止まり、やはり死ぬ。
つまり、呼吸停止や心臓停止は死の結果ではなく原因である。何らかの措置を行っても心臓の拍動や呼吸が回復しないのなら、そのまま死ぬ。
瞳孔は千日回峰行の途中で「断食断水不眠不臥」を一週間くらいやれば散大してしまう。だが行者は死んでいるわけではない。死んだ人は必ず瞳孔散大になるが、瞳孔の散大した人が必ず死んでいるわけではない。瞳孔の散大は死の原因ではなく結果に過ぎない。
死の判定の中で今までいちばん大切だったのは心臓停止だった。
呼吸が止まっても、人工呼吸器につないで無理やり呼吸させれば酸素の供給は絶たれないので死なない。心臓も酸素というエネルギー源を供給され続けるため(ある種のホルモンが血液中に存在する限り)、動き続ける。
しかし、心臓が停止した場合は、どうにも仕様がない。死に至る。
心臓も他の臓器と同様、一応、脳からの指令によって動いている。
でも脳から来る指令は「もうちょっと速く」「もうちょっと遅く」という指令に過ぎない。「拍動せよ」という指令は、脳からは来ていない。
心臓は、どういう機構でそうなっているのかは未だによく解っていないらしいのだが、実は心臓そのものだけで拍動している。心臓は、エネルギー供給が止まるか、心臓そのものが駄目になるかしないと止まらない、希有な臓器である。心臓だけを切り取って持ち上げても、心臓の中にエネルギーが残っている間は拍動が持続する(すぐに止まるが)。心臓がなぜ拍動するのかはあまり解っていない。解っているのは、どうやら拍動には限界数があり、拍動数は心臓が出来た瞬間に決定しているらしい、ということくらいであるらしい。
だから、「脳死」体以外の、心臓死を迎えた遺体などから心臓を摘出してレシピエントに移植しても全く無意味である。もう動かないのだから。
心臓ほどの自律性を持たない肝臓も、本当に「生き」が良くなければ駄目であるらしい。肝臓も心臓同様、その新鮮さが移植後の生着率に大きく関連している。
肺臓移植が困難なのは、「脳死」状態に近接した人に人工呼吸器を接続する際、気道確保のためにカテーテルを挿入するのだが、この時に多くの場合は気管を傷つけ、移植に適さない状態にしてしまうからである。緊急救命医療の現場では搬送されてきた患者を救うのに懸命であり、どのような手段を用いても良いから気道を確保しようと努める。その瞬間には、「この患者が「脳死」と判定されて臓器移植のドナーとなる際、今のような挿入をしては肺が使えなくなるかもしれない」などということは現実問題として考慮されにくいのではないか。それを考えて気道確保するという行為は、むしろその患者の「脳死」を前提していることにほかならず、消極的な緊急救命医療だと言うことができるのではないか。
……かなり想像が入っています。違っていたらごめんなさい。正確に言えるのは、「カテーテル挿入は多くの場合肺や気管を傷つける」、ということまでです。
かなり以前、アメリカのコロラド州知事リチャード・ラムが同様のことを言ったらしいが、そのときは相手にされなかった、いや、笑われたらしい。しかしごく最近になって同国の生命倫理学者ジョン・ハードウィッグが提唱しだしたこの概念や論理は、非常に好意的に受容され始めているそうである。
ラムとハードウィッグとの違いは、前者が社会政策としての「死の義務」が必要であると訴えたのに対し、後者は個人の考え方としての「死の義務」の必要性を提唱しているという点である。“他人がどう考えどう行動するのかは他人に任せるが、わたしはわたしがそうすべきだと考えることをする”(自己決定権)、ということのようである。
しかし重要なのは、自分の行為は、他人の行為が自分に対し何らかの影響力を発揮しているのと同様、必ず他人に対して何らかの影響力を発揮するものだ、ということではないだろうか。
「脳死」臓器移植や「安楽死」・「尊厳死」などと「自己決定権」との関連については、小松美彦「「自己決定権」の道ゆき―「死の義務」の登場(上)(下)―生命倫理学の転成のために―」(岩波書店『思想』2000年2月号(908)、2000年3月号(909))が詳しい。
平成9年7月16日 法律第104号
「Transplant Communication 臓器移植の情報サイト」http://www.medi-net.or.jp/tcnet/の
http://www.medi-net.or.jp/tcnet/DATA/law.htmlに行けば条文が入手可能。梅原猛『「脳死」と臓器移植』(朝日文庫化 2000年)にも全文が掲載されている。
「臓器移植法」の目的は、第一条によると、
「臓器の移植についての基本的理念を定めるとともに、臓器の機能に障害がある者に対し臓器の機能の回復又は付与を目的として行なわれる臓器の移植術(以下単に「移植術」という。)に使用されるための臓器を死体から摘出すること、臓器売買等を禁止すること等につき必要な事項を規定することにより、移植医療の適正な実施に資すること」である。
立花隆『脳死臨調批判』1992(文庫化1994)所収。「脳死」三部作(8)の一つ。
2000年現在行われている「脳死」判定基準の母胎となった判定基準。立花隆氏ばかりでなく脳生理学の専門家などからも問題点が多々指摘されたが、殆ど何も変わらず、現行の「脳死」判定基準としてそのまま適用されている。
……スミマセン。どこにあるのか今ちょっと解らなくなってます。
1990年2月に設置された「臨時脳死及び臓器移植調査会」が1992年1月22日に出した「脳死及び臓器移植に関する重要事項について(答申)」のこと。(5)の立花隆『脳死臨調批判』や梅原猛『「脳死」と臓器移植』(朝日文庫化 2000年)に全文が掲載されている。
『脳死』中央公論社1986(文庫化は1988)
『脳死再論』中央公論社1988(〃1991)
『脳死臨調批判』中央公論社1992(〃1994)