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真宗と経済 ―アンチ・グローバリゼーション― A study of economy and Anti-Globalization: from a view of Shin-Buddhism |
2004年現在、世界的に、すべての人間のすべての活動は、経済的な利益の産出量の多寡によって計測・分類されるようになってきており、また、そのような経済的利潤の物差しはすべてを平等に計測し得ると考えられているようである。
しかし、われわれは経済的な利益のみを追求して生きているわけではないだろうし、経済的な利益をすべての価値の中心において生活しているわけでもないだろう。
たしかに、現在を生きるためには金銭的な備蓄が必要であるから、経済的な利益や裕福さが求められることとなる。しかし、必要以上の金銭的備蓄は不要な場合もあるし、また、金銭的利益という価値を追求しなければけ落とされてしまう社会では効率化や能率化が他の何ものよりも優先されがちであるのは必然であるとはいえ、それによって排除される要素があることも見過ごすわけにはいかないだろう。
つまり、われわれは、今のように、経済的な利益を追求する価値観だけでやっていくわけにはいかないと考えられる。
今回の発表では、それに変わる価値観を仏教や真宗の立場から模索するとともに、現在の経済的活動などを語る場合に頻出する「グローバリゼーション」を整理し、ある型の「グローバリゼーション」には異を唱えたい。
現在、真宗学の立場からは、真宗と現代経済との関係について活発な研究はなされていないし、教団も具体的な動きはみせていない。従来の文献学的な方法で真宗と経済との関係を探ることには限界があるためと(※)、真宗と経済とではあまりにカテゴリが離れて感じられるためからかと思われる。
しかし、経済活動は現在の社会の基盤を成していると言っても過言ではないと思われる。また、布施のほとんどは金銭で行われているし、仏事従事者も金銭を生活のために用いている。また原始仏教徒はほとんど所有物を持たなかったが、現在の寺院は、法的には住職や門信徒の所有物であったりする(経済的な観点からの宗教法人法の改正もあったと記憶している)。そのような状況がある以上、真宗の側に経済的な倫理が用意されてもよいように感じられる。
(※「真宗が、その教義から直接(!)独自の経済思想を生むことはない」阿満利麿『社会をつくる仏教』p.103)
そのような中、真宗や仏教と経済との関連性について行われてきた研究には、理念的な研究と歴史的な研究とがある。
仏教から経済活動に対して提唱しうる理念として取り上げられることが多いものとして、シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』(1973)や、さまざまな経典に出る「少欲知足」の4文字を「必要以上には欲さず、足ることを知ること」等と読むことが挙げられる。
どちらも、際限のない発展を義務づけられて拡大していく経済活動に一定の歯止めをかけるべきではないか、との提唱を含んでいる。
『スモール・イズ・ビューティフル』には、現在の、高度に発展した資本主義の社会では、金銭的あるいは物的な消費量の多寡でその人の「生活水準」や満足度をはかろうとするが、これに対し、(理念的には)仏教は消費を幸福を得るための一手段に過ぎないと理解するので、生活水準や満足度を消費量でははからない、ということが書かれている。
仏教は、逆に、消費とは異なるカテゴリのもの(さとり、涅槃)を第一に大切にしている。
『仏遺教経』には
少欲之人則無諂曲以求人意。亦復不爲諸根所牽。行少欲者心則坦然無所憂畏。觸事有餘常無不足。有少欲者則有涅槃。是名少欲。汝等比丘。若欲脱諸苦惱。當觀知足。知足之法即是富樂安隱之處。知足之人雖臥地上猶爲安樂。不知足者雖處天堂亦不稱意。不知足者雖富而貧。知足之人雖貧而富。不知足者常爲五欲所牽。爲知足者之所憐愍。是名知足。
(『大正新修大蔵経』、12巻・p.1111下)
などとあり、富は必ずしも金銭のみではかられうるものではないことなどが示されている。
理念的研究だけではなく、実際の宗教活動に関連する経済活動との関連性について考察した研究もある。真宗や浄土教に注目した研究には以下のようなものがある。
「家業を報恩行とする真宗の職業倫理は、家業や家職に精励することを勧めた経済倫理なのである。
したがって、真宗の経済倫理の特色は、生産(家業)への精勤を勧め、消費における節約と、奢侈を禁じ、堪忍、正直、高利の禁止、財貨の獲得における貪欲の禁止、などであった。つまるところ、「需要充足経済」(Bedartswirtschaft)の倫理にとどまっている。「小欲、知足にしてい、身の分際を堪へて、花美をなさず、法義にそむかぬ」(※『香樹院語録』225頁)ことが、真宗への一般的態度であったといわれている。こうしたところには、少なくとも、無限の利潤追求を肯定する経済倫理は生まれにくい。しかし、江戸時代の豪商であった真宗門徒のなかには、無限の利潤追求をめざした人たちもあったのではないかという見方もある。少なくとも、明治期以後になると、営利追求の経済活動が浄土教(浄土宗や真宗)によって基礎づけられ、正当化された点が指摘されている(※中村元『日本宗教の近代性』(181頁)には、その例として、安田財閥の創設者安田善次郎が真宗大谷(東本願寺)派の村上専精の精神的指導を受けていることや、宇部興産株式会社の創設者渡辺祐策は浄土宗管長の山下現有の指導をうけ、山下の理想として説いた「強善能富」を理想としたことを示している。)。
(芹川博通『宗教的経済倫理の研究』多賀出版 1987年2月pp.301-302 下線は引用者)
行基と資本主義とを関連させた長部日出雄『仏教と資本主義』などもある。
真宗と経済活動との関連性を探る研究では、蓮如の言動から、理念や実地での考え方の指針などを探そうとするものや、蓮如の影響を受けた近江商人の経済活動に注目、経済活動以上の限界を見るものがある(※)。ここでは近江商人に対するものであったとしても「蓮如教学がもはや役割を終えた」という立場は取らないため、法然、親鸞、蓮如それぞれの経済観を探り、結論としては「中道」の精神を見る宮地廓慧を見る。宮地は蓮如の『御一代記聞書』に注目した。参考とすべき箇所を引用する。
一、蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。 (p.1254)
一、仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。われはわろしとおもふ人なし、これ聖人(親鸞)の御罰なりと、御詞候ふ。他力の御すすめにて候ふ。ゆめゆめわれといふことはあるまじく候ふ。無我といふこと、前住上人(実如)もたびたび仰せられ候ふ。 (p.1257)
一、衣装等にいたるまで、わが物と思ひ踏みたたくることあさましきことなり。ことごとく聖人の御用物にて候ふあひだ、前々住上人はめし物など御足にあたり候へば、御いただき候ふよし承りおよび候ふ。 (pp.1275-1276)
一、ある人申され候ふと[云々]。われは井の水を飲むも、仏法の御用なれば、水の一口も如来・聖人(親鸞)の御用と存じ候ふよし申され候ふ。 (p.1282)
一、世間へつかふことは、仏の物をいたづらにすることよと、おそろしく思ふべし。さりながら仏法の方へはいかほど物を入れてもあかぬ道理なり。また報謝にもなるべしと[云々]。 (p.1305)
一、蓮如上人、御廊下を御とほり候ひて、紙切れのおちて候ひつるを御覧ぜられ、仏法領の物をあだにするかやと仰せられ、両の御手にて御いただき候ふと[云々]。総じて紙の切れなんどのやうなる物をも、仏物と思し召し御用ゐ候へば、あだに御沙汰なく候ふのよし、前住上人(実如)御物語り候ひき。 (p.1332)
一、兼縁、堺にて、蓮如上人御存生のとき、背摺布を買得ありければ、蓮如上人仰せられ候ふ。かやうの物はわが方にもあるものを、無用の買ひごとよと仰せられ候ふ。兼縁、自物にてとりまうしたると答へまうし候ふところに、仰せられ候ふ。それはわが物かと仰せられ候ふ。ことごとく仏物、如来・聖人(親鸞)の御用にもるることはあるまじく候ふ。 (p.1333)
宮地は次のようにのべる。
「経済生活を念仏生活の中に統摂するということは、財物を、本源的には、如来の恩寵として受け取るということであり、それ自身の本来の"意味"と"価値"とにおいて財物を受用しようとすることでもある。」
(宮地 廓慧「浄土教的経済理念」日本佛教學會年報 / 日本佛教學會 第37号 1972年)※「真宗は自覚的に蓮如教学=「ムラの信仰としての真宗」を克服する機会を持たなかったために、近代化の中で資本主義経済に対する原理的批判に向かわなかったのはもちろん、大陸への軍事的・経済的侵略にも全面的に協力する道を選んできた。」
(阿満利麿『社会をつくる仏教 エンゲイジド・ブッディズム』p.100)
これらの研究は、過去の実際の経済的な活動や所有について、仏教や真宗の理念、世界観から見る見方を通し、信仰の立場から来る経済活動観を見たり、それを現在に敷衍する為の方法を模索するものであり、また、それに接した者の価値観の転換をもゆるやかに誘引しようとするものであると考えられる。
ところで、現在行われている経済活動とはどのようなものであるのか。
まず、現在の経済活動は、比較的狭い範囲の活動もありつつ、世界的に統合された「市場」を舞台とした活動もある。俯瞰すると、経済的な要素が他の分野の要素と複雑・高度に絡み合った世界を、実質的にはアメリカがリードしながら他を主導しているのが現状であると言える。
アメリカは、「近代化」と似た「グローバリゼーション」という現象の中、世界経済を牽引している。
「よく考えると、アメリカという国はたくさんの移民が流入し、すでにマルチカルチュラルな国家であるので、あの中でグローバリゼーションの実験ができているわけです。あそこでマックが売れれば、世界中でマックが売れるというようなことの推測はついているから、グローバリゼーションは、したいとか、しなければいけないとかいう意識がなくても、当然と思えてしまう、そこに傲慢さがあると思うのです。」
(「【ディスカッション】「守るべき伝統文化」とは何か」中の大西直樹(国際基督教大学教授)の発言。p.99
福原義春・樺山紘一編『解はひとつではない グローバリゼーションを超えて』
慶應義塾大学出版会2004年7月10日)
このような経済活動は、人間の本能、あるいは仏教的な概念では煩悩(貪欲)としても示されるように、利益を際限なく追求していくことがその本質となっている。
人間は発生以来、環境を自分に合わせて変えながら、あるいは欲望をすべてかなえようとしながら存在してきたし、また、経済活動をおこなう際の欲望への実質的な歯止めというものも、現在までのところ、欲望がすべて達せられるか、何かに遮られるかするまでは はたらかないように感じられる。
現在の社会は経済活動を抜きにしてはほとんど語ることが出来ない。「勝ち組・負け組」という言葉が流行したが、その勝ち・負けの要素には多くが経済的な利益に基づいて語られているように思えた。そのような社会は利益を追い、数値化できる利益を最優先とする傾向もある。
仏教の理念である「スモール・イズ・ビューティフル」や「少欲知足」をそのうような社会に持ち込んでも、それはその世界の根本に根ざした理念としてはたらき得るというよりは、「たまには立ち止まってそのように考えてみよう、何か異なったものが見えてくるかも知れない」、という、道徳規範的には有効となり得る過去の叡智、という程度に留まるのではないかとの危惧が生じる。
なぜなら、実際の経済活動は、効率的で迅速、最少の投資で最大の利益を得るために、たまに立ち止まって考えている人を積み残して進んでしまうからである。遅れる人は容赦なく置き去りにされる。
仏教は自身の転迷開悟によってすべての執着を離れることを最大の目的としている。経済活動は、より多くの利益追求を目的とし、「最少の費用で最大限の効果」など、欲望の追求が基本である。
キリスト教の場合はプロテスタント運動の中でカルヴァンが「世俗内禁欲」を説いたために経済活動が奨励されたとの研究もある(マックス・ヴェーバー)。真宗の場合も近江商人の繁栄の礎は蓮如によって形成されたとの見方がある(内藤寛爾)。
それらは、経済活動が救いと密接となり、あるいは救いのあらわれている形式と密接となったがために(真宗の場合は「御恩報謝」)、経済活動の指針となり得たと考えられる。であるならば、他の宗教を信じる者には、その指針は、厳密には通じないということにもなろう。しかしそれはそれぞれ目的が異なっているのだからあたりまえであるのかもしれない。(むしろ、西洋のキリスト教の上に形成された資本主義的な経済観が、近江商人などの例もあったが、なぜこれほどすんなり日本に受容されたのか、そこが興味深いのかもしれない。しかし今回はその問題は扱わないこととしたい。)
仏教にはどのような経済倫理があるのか、可能なのかを検討したい。
世界的には、仏教は、利益を際限なく追求することはしない。むしろ生活共同体をつくり、なるべく経済的な利潤を追求しないですむ方向に進もうとする集団が多いように見受けられる。アジア各国の上座部仏教から派生したエンゲイジド・ブッディズムや開発僧(タイ)(※)など、経済的な開発と対立する環境保全運動や社会的な慈善事業に熱心な集団も多い。
(※開発僧[かいほつそう]:仏教精神に基づき在家の人の内面を開発する僧。社会問題解決などにも多く従事する。)
日本の僧侶や宗教法人としての寺院は、一般の人や一般の法人と同様、経済的な利益を追求する人や法人もいれば、経済的な利益ではない、「物質的満足ではなく精神的満足」を追求している人もいる。伝え聞くばかりではあるが、真宗にもどちらもがあるようである。なおどちらの場合にも共通するのは、経済活動の中に否応なく配置されているということである。
そのような日本仏教であるが、現在、世界経済は巨大な一つの市場として統合されつつあるように見受けられる。いわゆるグローバリゼーションと真宗とはどのような関わりがあると考えられるか。
「グローバリゼーション」には、1.西欧化・近代化、2.覇権秩序、3.市場統合と相互依存という、三つの異なる意味がある。藤原帰一の分類は以下のようになっている。
西欧化や近代化とほぼ同じ意味。「非西欧世界が西欧世界に統合される過程」(p.79)
アメリカを中心とした覇権秩序とその覇権秩序への統合。「第二次大戦後、アメリカ合衆国の理念と利益に従って組織された国際機構と、その機構のもとに編成された世界市場に、それまでは統合されていなかった諸国が統合されて行く過程」(p.80)
「覇権秩序の形成とは、近代に対する伝統の挫折ではなく、それぞれに独自な近代が、覇権と市場に裏打ちされた「近代」に負けて行く過程だった。ここでのグローバル化とは市場統合よりは、その背後の、アメリカのヘゲモニーの発露として理解されることが多いが、それはワシントンの命令による強制というよりは、その覇権に服さない制度形成の挫折として捉えるべきだろう。」(p.81)
世界的な市場統合。
「世界市場の急速な統合と、その市場統合の各国に与える影響であり、もっと広くいえば国境を越えたモノ、人、カネの移動が増大する相互依存状況の進展として捉えられる。」(p.81)
「世界経済のグローバル化と、情報通信技術の革命」(p.81)
「非西欧世界だけでなく西欧世界をも、また小国だけでなく覇権国も含めて、どの国をもおそう変化として捉えられ、誰もが「グローバル化」されるかのように議論されている。」(p.82)
「従来の国境が持った政治的意味は次第に消滅し、世界経済はもとより世界政治でもさらなる統合が進むだろう、つまり相互依存関係の進展という状況の変化が国際秩序の形態も変えていくだろう、という議論」(p.81)
(藤原帰一「グローバリゼーションとは何か」
国分良成・藤原帰一・林振江編『グローバル化した中国はどうなるか』
新書館、2000年9月25日、pp.76-91)
これに対し、平野健一郎は、
「近代アジア・近代日本の文化変容の歴史に照らし合わせてみるという考え方があるのではないかと思います。つまり、今日のグローバリゼーションを、西欧化・近代化の継続としてみるということで、そういう立場に立って、現在のグローバリゼーションに対して、「ノン・グローバリスト」、プラス「アンチ・グローバリスト」的なスタンスで考えてみるということです。」
と述べている。
「【問題提起】近代日本の文化変容から学ぶもの」
(「II グローバリゼーションと新しい価値観」中
「第三セッション 文化の接触と変容から見た近代アジア」中の【問題提起】pp.88-95
福原義春・樺山紘一編『解はひとつではない グローバリゼーションを超えて』
慶應義塾大学出版会2004年7月10日)
近代化とグローバリゼーションを比較するために、近代化の考え方にも二種類あることを、芹川博通『環境・福祉・経済活動と仏教 ――現代を生きるための叡智――』(ミネルヴァ書房 2002年10月)を紹介して示す。
「近代化は西洋近代の生みだした「近代的なもの」への発展過程で、それは近代「西洋化」(westernization)とする「閉された」(closed)近代化論」
「西洋や非西洋にとらわれず、普遍的な価値を含む「近代的なもの」への世界の発展過程とする「開かれた」(open)近代化論」(pp.232-233)
「「近代化とは、さまざまの目的のために、人間のエネルギーを、その物的・社会的環境の『合理的』統御を目ざして、組織的・持続的・合目的的にしようとすることを意味する。」」(シュワルツ p.235)
「富永健一は『日本の近代化と社会変動』(一九九〇年)で、「近代化」とは『近代的なもの』への発展過程を意味し、非西洋世界にとっての近代化とは、『西洋近代からの文化伝播に始まる自国の伝統文化のつくりかえの過程』である、ということができる。」(p.237)
「経済的近代化は「産業化」、政治的近代化は「民主化」、社会的近代化は「自由・平等の実現」、文化的近代化は「合理主義の実現」として、捉えられる」(pp.237-238 富永の考え方の紹介)
「戦後日本における経済以外のサブ・システムにおける近代化は、「アメリカ化」によってもたらされたもので(ドイツもイタリアもまた同様なことがいえる)、いわゆる「西洋化」とは区別をする必要があろう。」(p.238 富永の指摘が正鵠を得ているならば、と限定して)
「二〇世紀の後半以降は、西洋が非西洋世界から「近代的なもの」の文化伝播受容する時代が現れてきている」(p.238)
「従来のような「閉された」近代化論の再検討を、余儀なくされてくるであろう。」(p.238)
「江戸時代の社会・経済的基盤が日本近代化の決定的な構成要素であり、近代的企業経営の文化的源流である」(p.242)
総合的にまとめるなら、
「近代化とは、世界が普遍的な「近代的なもの」(the modernity, die Moderne)へと発展する過程をいい、「近代的なもの」のすべてを西洋近代からのみ抽出されたものとは考えず、なかには、西洋近代との平行現象も存在しえたし、また、非西洋社会から興ってくる変化のなかに普遍的価値(universal value)が含まれていることもあり、それが世界へ普遍的変化を呼びおこしていくこともありうる」(pp.242-243 近代化)
「近代化=欧化」では必ずしもないということと同様に、「グローバリゼーション=アメリカ化」では必ずしもない、ということである。「アンチ」として臨むべきは 2. のみである。
「アンチ」を冠すべきは、アメリカがアメリカのために行う経済的な活動に基づくさらなる経済活動や、そのための規則や運営方法を「グローバルスタンダード」と称して拡散することである。藤原帰一の指摘にもあるようにそれはアメリカの本意ではないのかも知れない。しかしアメリカ型はあまりに強いため、他からのグローバリゼーションが経済の面で成功することは極端に確率が低そうである。
そのような状況下でアメリカが開発したアメリカのための経済的活動の理念や規則、方法を「グローバルスタンダード」とするなら、それに変わる価値観やスタンダードの出現は絶対的に押さえ込まれるからアメリカが永遠に勝ち続けることとなるのは自明であろう。勝ち負けですべてを語り尽くすことはできないが、これは「ひがみ」と言うより、金銭的な利益のみですべてをはかろうとすることへの素朴な違和感ととらえるべきであろうかと思う(※)。また、われわれ現代人が経済的な利潤を追求し続けるならば、このアメリカ型をやめるわけにはいかないわけであり、経済と、経済に複雑・高度に密接した他の要素との相乗効果が高まれば、われわれ現代人は経済的発展の為に他のすべてを犠牲にするところまでいけるかもしれない。
このうち、「近代化」の的な意味でのグローバリゼーションについては、歴史的な「変化」である部分がある。(「進歩」かもしれないが、すべてを積極的に良い方に前進しているとは捉えるべきではないかもしれない。)
経済活動は、すべての人間がそれに参画することが義務づけられた、しかし最初の条件が絶対的に平等ではないゲームである。ゲームがゲームであるときは良いが、負けがこむとゲームにならなくなり、経済活動を降りるのみならず、人生そのものからも降りざるを得なくなる、そのようなゲームである。
※立岩真也は以下のように言う。
「国際競争」の圧力はたしかに無視できない。しかしごく原則的に言えば、それは競争に勝つことで対応すべきでなく、競争しなくてすむ方向で解決がはかられるべきなのだ。これをなんとかできるなら、危機は本当に実在しない。
(立岩真也『自由の平等 簡単で別な姿の世界』岩波書店2004年1月p.32 c)
一定の価値の世界的拡散を望むのが宗教の本質的な性格である。仏教は仏になることを求める。それは真宗も同様であるし、真宗は真宗的な価値観が世界大に広まることを、つねにどこかで求めている(念仏の声を世界に子や孫に)。
真宗の教えは素晴らしいが、それほど素晴らしいと思わない人もあるし、真宗など知らない人もいる。真宗は、真宗の価値観からは「唯一の真実」の教義そのものを意味する語でもあるが、経済活動の中の一要素としての存在としての名称でもある。その意味での真宗は、自身が必ずしも唯一絶対的な真実として世界大に覇権的に広がるべきであるとは考えていない。ゆるやかに言うなら「面々のおはからい」、きわどく言えば「縁なき衆生は度し難き」である。
現在の真宗は、宗教であり、教えの広がること、つまり、3番めの意味でのグローバリゼーションを目ざしている。恐らく敢えて選択する場合には、経済活動の面でもそのようなグローバリゼーションを目ざすことになると考えられる。
異なる複数の価値観があり、異なる複数の方法がある場合、そのどれか一つが覇権的に世界大に広がってしまえば、その覇権争いの問題についてはそれで丸くおさまる。だがそれでよしとするグローバリゼーションは選択しないという意味で、真宗はアンチグローバリゼーションである。
経済の面におけるアメリカ化もそうだが、利益の追求は人間の性質から考えて必然であり、恐らく人類は旧人の昔から「少欲知足」とは少し異なる価値観で、より快適な環境を求めて活動している。
だが、欲望に任せたそのような従来の活動を続けていては限界がきてしまう。だからこそ「少欲知足」という言葉に今までの我々はハッとするのであろう。
この言葉がリアリティを持っている間に、何とかしなければならないのではないだろうか。
最後に、この言葉を引用して発表を終わる。
「グローバル化は運命ではない。われわれに何らかの政治的選択と行動が可能であり、またそれが必要であるとするならば、このグローバル化の矛盾した現実を認識するところから、さしあたり始めるほかない。」
原田太津男「複合的グローバル化 ――競争国家とリスク社会の成立」
峯陽一・畑中幸子編『憎悪から和解へ 地域紛争を考える』
京都大学学術出版会、2000年9月25日 pp.341-395(p.382)
宮坂宥勝『財と労働の価値〈仏教の経済観〉』株式会社佼成出版社1969年10月(『人生と仏教 7』)
佐伯啓思『「欲望」と資本主義』講談社現代新書1993年6月
佐伯啓思『人間は進歩して来たのか』PHP新書274 2003年10月
佐伯啓思『20世紀とは何だったのか』PHP新書301 2004年6月
森岡正博『無痛文明論』トランスビュー2003年10月
芹川博通『環境・福祉・経済倫理と仏教 ――現代を生きるための叡知――』ミネルヴァ書房2002年10月
立岩真也『自由の平等 簡単で別な姿の世界』岩波書店2004年1月
橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』筑摩書房2001年6月
阿満利麿『社会をつくる仏教 エンゲイジド・ブッディズム』人文書院2003年5月
福原義春・樺山紘一編『解はひとつではない グローバリゼーションを超えて』慶應義塾大学出版会2004年7月
真宗聖典編纂委員会『浄土真宗聖典 註釈版』本願寺出版社1988年1月
宮地 廓慧「仏教的経済理念」龍谷大學佛教學會『佛教學研究』第29号 1971年
宮地 廓慧「浄土教的経済理念」日本佛教學會『日本佛教學會年報』 第37号 1972年
芹川博通『宗教的経済倫理の研究』多賀出版 1987年2月
網野善彦「真宗の社会的基盤をめぐって ――宗教と経済の関係について」浄土真宗教学研究所、本願寺資料研究所編『蓮如講座』第一巻 1996年12月 pp.47-65
武井昭「シューマッハー仏教経済学の論理とその構造」高崎経済大学論集 第43巻 第1号 2000年 pp.1-16
原田太津男「複合的グローバル化 ――競争国家とリスク社会の成立」峯陽一・畑中幸子編『憎悪から和解へ 地域紛争を考える』京都大学学術出版会、2000年9月pp.341-395
藤原帰一「グローバリゼーションとは何か」国分良成・藤原帰一・林振江編『グローバル化した中国はどうなるか』新書館、2000年9月、pp.76-91
城福雅伸「仏教と経済倫理・企業倫理」『印度学仏教学研究』第52巻2号 2004年3月