2003年9月5日

日本宗教学会 第62回学術大会 於 天理大学

「先鋭的な苦しみ」
 としてのニヒリズム
Nihilism : a Radical Spiritual Pain


龍谷大学研究生 石田智秀 ISHIDA Chishu
*****@*****.ne.jp
http://www004.upp.so-net.ne.jp/chishu/

はじめに

 氣多雅子氏は、現代人が抱えている「不安」はニヒリズムと近い関係にあることを指摘し、そのような不安は「最も先鋭的な苦しみ」・「苦しみ以前的な苦しみ」であると指摘する。そして宗教はそのような「先鋭的な苦しみ」に応えるべきではないか、との提言を行う。(コルモス『現代における宗教の役割』2002年)
 今回の発表では、この指摘をわたしなりに承け、現代に見られる状況の何を「先鋭的な苦しみ」として捉えるべきか、そして、宗教はそれに対してどのように応えることができるのかについて考察する。


「先鋭的な苦しみ」とは

 氣多氏が「先鋭的な苦しみ」という言葉で指し示したのは、日常の中に、漠然と、意識されずに存在している苦しみのことであり、苦しみ以前の苦しみである。

 自己と世界がもはや自明のものではなく、生きるということが現実に根を下ろすことができないで空疎なよそよそしい営みになるという現象が、そこに起こっているように思われます。生きることにリアリティーがない、自分の存在にリアリティーがない、何を言っても空虚である、そういうふうな事柄は、ニヒリズム的現象の兆候であると言ってよいでしょう。ここには、明白に一つの苦しみ、と言うより苦しみ以前の苦しみの有りようがあらわれています。
(『現代における宗教の役割』p.154)


 宗教は常に、時代・社会における最も先鋭的な苦しみに一つの焦点を当てるべきだと思います。宗教においては、最も先鋭的な苦しみが苦しみの典型とみなされるべきであると私は考えます。なぜなら、時代・社会の最も先鋭的な苦しみは、既成の宗教の救済の枠組みからはみ出すのであって、それゆえにいかなる類型化も許さない、ひりひりとしたむき出しの苦しさをたたえているからです。諸宗教はそのようなひりひりしたところに絶えず触れていないと、すぐに硬直化して生き生きした働きを失ってしまうでしょう。
(『現代における宗教の役割』pp.154-155)

 氣多氏は、宗教はそのような苦しみ以前の苦しみを抽出し、それにカタチを与え、それに対する何らかの回答を示すように努めるべきなのではないか、としている。


ニヒリズムとは

 ニヒリズムとは、一般的な辞書には

「真理・価値・超越的なものの実在やその既成の様態をことごとく否定する思想的立場。
(1)一般に無や空を主張する思想態度。仏教・老荘思想をはじめとして古来から多くの形態がみられる。
(2)特にヨーロッパ近代社会やキリスト教文明の根底に対する否認の思想。一九世紀後半のロシアの文学思潮・革命思想、ニーチェの哲学などに顕著。虚無主義。」
(三省堂「大辞林」)

 と説明されている。また、上の(2)にあるごとく、ニヒリズムを語る際に避けては通れないと思われるニーチェの考え方については、より専門的な事典では


「ニーチェによれば、プラトニズムとキリスト教のようなヨーロッパの理想主義もしくは形而上学は、はじめからありもしないものを掲げてきた以上、無の上に打ち立てられている。つまりニヒリズムである。理想主義の末裔の社会主義も同じである。だが、こうしが形而上学とキリスト教はやがて自らが根拠を持たないことを認識する。その意味でヨーロッパの歴史は潜在的なニヒリズムの顕在化の歴史ということになる。彼は「従来の最高価値がその価値を喪失すること」ともニヒリズムを定義し、自ら「ヨーロッパの最初の完全なニヒリスト」と称した。」
(岩波『岩波 哲学・思想事典』)

 このように紹介されている。
 今回は、ニヒリズムの意味を、ニーチェに代表されるような哲学史的に厳密な定義をもって捉えようとは試みず、上の(1)のごとく、「あらゆるものに積極的な価値を認めないこと」、または「人生は無意味であると考える主張」、とゆるやかに把握し、考察を進めることとしたい。
 なぜなら、現代の社会の中では、氣多氏の指摘のごとく、日常の生のある部分が「空疎なよそよそしい営み」となってしまっている現象が見受けられるように感じられるからであり、そのような日常の中では「あらゆるものに積極的な価値を認めないこと」、または「人生は無意味であると考える主張」という意味でのニヒリズム的な考え方や行動が多くなっていると考えられるからである。


ニヒリズムは、実は「意味」を求めている

 ニヒリズム的な考え方は、「あらゆるものに積極的な価値を認めないこと」、または「人生は無意味であると考える主張」と定義できる。
 逆に言えば、人生の最初からそのように考える人は少ないと考えられることから、はじめは「あらゆるものには積極的な価値や意味があるのだ」と考えたり、または「この人生には何らかの意味があるはずだ」と考えたりして、その意味を求めていた人が、人生のとある時点で挫折を味わったり、比喩的な意味での壁にぶつかったりし、何らかのきっかけによって、そのような「意味」を求める生き方を否定せざるを得なくなり、その結果としてたどりついた主義主張であると推察することが可能であると考えられる。
 つまり、そのようなニヒリズムは、あらゆるものに対して「積極的な意味などない」という「意味」を逆に与え、自身の人生に対しても同様に「意味などない」という「意味」を付与していると考えられる。
 そして、そのような出発点と到達点であるのならば、「意味などない」という「意味」を必死で守ろうとしているのではなく、逆に何らかの方法で打破したがっていると考えられる。

 これについて、宮台真司氏の主張をもとにして考えてみたい。


宗教の考え方 「意味」への解放

 宗教は、一般的な辞書では

(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。
(三省堂「大辞林 第二版」)

 と定義されている。一般的な理解では、宗教はこのようなものとして理解されている。
 ここで注目したいのは(2)である。つまり

「経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系」

 という部分である。
 つまり、何らかの、自分の理解の範疇を超えた、理解不可能な事柄に対して、あえて何らかの意味を与えることが宗教のひとつの重要な役割である、という部分である。

 自分には理解不可能なことを理解しようとすることや、日常に発生した決して受け容れられない事柄を受け容れることは、ともに困難を極める。そのようなとき、人は自分の範疇を超えた何かの意味を考えることから離脱することができないでいる。
 それに対して、宗教はそのひとに理解可能な、その人にとっては合理的と思われる、あるモデルを提示する。宗教にはいろいろなあらわれがあるが、現象として見れば、あらゆる宗教はおしなべてそのような、個人が意味を考えて行き詰まった結果として至った「意味の牢獄」(後述)からの、新たな意味体系への解放であると言える。
 そのような意味で、宗教は、ものごとの理解や人生の理解を「意味」へと解放する、と言うことが出来るだろう。そして、それが宗教の役割であると言うことも可能だろう。


宮台氏の考え方 「意味」からの解放

 これとは逆に、いわば「意味からの解放」とも言うべき態度を貫こうとしている人物として宮台真司氏がいる。
 宮台氏は、自分が「冷めている」がゆえにニヒリストだと誤解されやすいことを承け、そうではない、自分はニヒリストとはまったく違う、と主張し、ニヒリストと自分との相違点について説明する。

「意味を求めてあくせくしてきた人が、「けっ、しょせん意味なんかネエんだよ」と斜に構えてカタルシスを獲得する、これがニヒリストです。(中略)
 意味からの離脱・強度の獲得に成功した「まったり主義者」は、「しょせん……」なんて言いません。口にする言葉があるとするなら「あえて……」でしょう。物語や意味にネガティブな態度をとる点で「まったり主義者」はニヒリストに見えますが、実は全く違います。」
(宮台真司『これが答えだ!』朝日文庫2002年 pp.261-262)

 予備校生の質問に対して答えるという意味合いで書かれた文章であるため、言葉遣いは非常にくだけたキャッチーなものになっており、そして「まったり主義者」という言葉も唐突な印象がぬぐえないが、上記の文章の意味内容としては、


「意味を求め、意味を獲得できなかった人が「しょせん意味なんかない」という意味を獲得するのがニヒリストである。わたしはそのようには生きていない」
「意味がないということを知り、意味がないということにも意味を認めず、ある強度(世界を濃密に体感すること:同p.181)を持ち、そこからあえて踏み出そうとする。わたしはそのような生き方をしている」

 ということであると理解可能だろう。また、彼は同書の別箇所で「無意味でも強度があれば生きられる!(同:p.181)」として、ほぼ同じ意味のことを語っている。

 また、「意味」ということについて、宮台氏は、

「意味からの離脱さえ意味を通じてしかありえないという近代社会の「意味の牢獄」」(同pp.261-262)

 と述べ、「意味」から自由になる生き方を提唱し、自分自身そのような生き方を生きているようである。
 その結果として、彼は「援助交際」その他、社会常識を規範として考えれば否定されるべきことを肯定する独自の論説を行い、さまざまに物議をかもすことになっている。
 発表者は決して宮台氏のすべての主義主張に賛同しているわけではない。たとえば「援助交際」に関して言えば、彼の主張や理解には到底賛同できない。
 しかし、限定的に、この部分、「意味」ということと「強度」ということに特化して理解すれば、彼は決して的はずれではなく、逆に非常に的を射たことを主張しているように感じられている。


「先鋭的な苦しみ」としてのニヒリズムからの解放

宗教の立場から

 宗教の立場から「先鋭的な苦しみ」を克服しようとするならば、それは閉塞した思考を、宗教に特有の、新たな意味の方向へと、解放することであると考えられる。
 それはつまり、その人が悩んでいる悩みや、その人が「意味などない」と考えたあらゆる事柄に対する、その人が思っても見なかった新しい「意味」を提示し、その人の思考をそのような方法で、そのような方向へと解放することである。
 それは恐らく、宗教の立場を深く理解し、そこからすべての現代社会に特有の問題群を読み解こうとすることによっても可能であるだろう。逆に、現代社会に特有の問題を一つ一つ調べ、そこから宗教の方向へ思考を進めることも、その方法になるだろう。


宮台氏の立場から

 逆に、すべての事柄に殊更に意味を見いださず、「強度」をもって生きていこうとする宮台氏の生き方からも、解放は可能であると考えられる。
 その解放は「意味からの解放」である。「人生はそこそこ楽しい。でも無意味だ」という考え方から、「人生は無意味だ。でもそこそこ楽しいし、楽しめる」(諸富祥彦編著『〈宮台真司〉をぶっとばせ!』1999年p.15)という考え方への解放であるだろう。
 しかし意味から解放された宮台氏的な生き方は、逆にいえば、「意味からの解放」という「意味」を、言い換えれば、「意味から解放された終わりなき日常を強度をもって生きる」という「意味」を担ってしまっているのではないだろうか。それは宗教的な活動にきわめて近い何かなのではないだろうか
 これは宮台氏の言う「意味の牢獄」なのかもしれない。


結論

 以上、「先鋭的な苦しみ」としてのニヒリズムに対して、宗教の立場からどのような方法で回答を示すことができるかを考察した。  また、宗教とは対極的な方法で「先鋭的な苦しみ」としてのニヒリズムからの解放を試みていると考えられる宮台真司氏の主張についても考察し、意味からの離脱を提唱しているはずの宮台氏の主張も、やはり何らかの「意味」を担ってしまっているのではないか、という指摘を行うことが出来た。

 「先鋭的な苦しみ」としてのニヒリズムをとらえ、そにに対して回答する方法は、宗教的な立場からは、その人が至ることの出来なかったような、新たな意味を提言する、ということであると結論して、今回の発表を終わる。


参考文献

コルモス・大谷光真・中川秀恭 編
 『現代における宗教の役割』 東京堂出版 2002年 【bk1】

宮台真司著
 『終わりなき日常を生きろ』 (筑摩書房 1995)ちくま文庫 1998年 【bk1】

宮台真司著
 『これが答えだ! 新世紀を生きるための108問108答』 朝日文庫 2002年 【bk1】

諸富祥彦編著 トランスパーソナルな仲間たち著
 『〈宮台真司〉をぶっとばせ! "終わらない日常"批判』 コスモス・ライブラリー 1999年 【bk1】

岩波書店
 『岩波 哲学・思想事典』 1998年 【bk1】


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