以前から、真宗の研究や活動の多くの場面で、ターミナルケアが問題にされている。
ターミナルケアとは、「ターミナル」つまり終末期の患者やその家族全体に対する「ケア」のことであり、真宗の場合は、「ビハーラ活動」という名称でおこなわれている。
今回の発表では、真宗の立場からはどのようなターミナルケアが可能なのか、またその可能性はどのような方向に開けていくことが可能なのかについて考察する。
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真宗のターミナルケアは、キリスト教の団体が「ホスピス」という名称で緩和ケア病棟を開始したことから刺激を受け、始められた。当初は「仏教ホスピス」とも言われたが、今は仏教からのターミナルケアは「ビハーラ」という名称で呼ばれている。専門の「ビハーラ棟」のある病院もある。
最近は、「ビハーラは「スピリチュアル・ペイン」と向き合い、その痛みを緩和する方向に進むべきものである以上、ターミナルケアという形式で臨終の一局面に限定されるべきではないのではないか、仏教的世界観から行われる社会福祉活動全体に広がる可能性をもつ活動なのではないか」という方向の議論も行われるようになっている。また、真宗の信仰を前提とする立場から運営されている、大きな仏壇を備えた老人ホームも存在する。
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いま述べたような「ビハーラ」的な活動は、キリスト教のホスピス以前にも、歴史的には日本で行われていた。以下の二つである。
仏教的信仰からおこなわれた社会福祉的な活動としては、奈良時代、730年に光明皇后が皇后官職に設けた「施薬院」があげられる。これはターミナルに限定されていたわけではなく、貧窮者への施薬と治療を全般的に行っていた、仏教への信仰に基づいて行われた社会福祉であったと言える。
ターミナルの時期に限定して焦点をあてて活動していた団体としては、平安時代、比叡山横川首楞厳院で源信が提唱して986年から行われた「二十五三昧会」がよく知られている。この団体は「臨終来迎」での浄土往生を目指す人々が集い、構成員が臨終(ターミナル)を迎えた場合、阿弥陀如来像から五色の「幡」を引くなどして「臨終正念」をサポートする。そして、そのような臨終行儀を経て亡くなった者が無事に浄土往生を果たした場合は、何とかして他の存命メンバの夢枕に立ち、報告することを目指す、という活動であった。
以上、施薬院も、二十五三昧会も、時を経るうちに衰退し、現代まで連綿と続くことはなかったが、真宗のビハーラはこれら二つの理念は受け取っていると言える。
つまり、助けを必要としている人に対してサポートしようとする社会福祉の方向(施薬院)と、ターミナルな局面を皆でわかちあおうとする方向(二十五三昧会)である。
ただし、二十五三昧会が「臨終来迎」を期待したのに対し、真宗はそれをまったく問題にしない。二十五三昧会と真宗の信仰の相違について、真宗に独自な「平生業成」という概念を整理することで、真宗の立場からのターミナルケアの方向性について考察したい。
真宗の信仰の根本にあるのは、阿弥陀如来から信をいただいたそのとき(一念)に浄土へ往生することが決まり、また、往生するとすぐに成仏することも決まる、そのような宗教的真理である。
本願寺派の信仰について整理し、17の「論題」としてまとめた『新編 安心論題綱要』に、「平生業成(へいぜいごうじょう)」という項目がある。(平生:「臨終」の対語。つまり普段のこと。業成:往生に必要な原因が完成すること。)
その「平生業成」という項目の解説には、
「第十八願の法は、臨終にはじめて往生が決定するのではなく、平生聞信のとき決定する」(p.129)
とある。
「第十八願の法」とは、浄土真宗の救いの根本の法であり、他力つまり仏力による往生の法である。
「平生聞信のとき」とは、ふだんの生活の中で阿弥陀如来から信をいただいたときのことである。(真宗に独自の言い回しでは「他力の信心が開けおこった時」と言う場合がある。)
また、真宗の往生である「他力の往生」と浄土真宗の往生ではない「自力の往生」も明確に区別され、
「自力による往生は、一生涯の間に積み重ねた行の力による往生であり、浄土に往生できるか否かは臨終に決まる。そのため如来は、臨終正念のために来迎する。」(p.132)
「自力の往生では臨終来迎が期待されるが、他力による往生では臨終来迎を期待する必要がない。平生聞信の一念に浄土往生が決定する」(p.133)
と解かれている。
また、真宗の往生が殊更に「平生業成」であると言われていることから起こりうる誤解を先取りし、
「平生業成とは、平生に本願に遇う人についてのことであり、他力による往生が決まるのは、臨終か平生かということではなく、あくまで他力の信心が得られるかどうかということである」(p.133)
「他力による往生では、本来は臨終か平生かは問題にならないが、臨終に往生の可否が決定する自力往生に対して、他力による往生の特徴を明らかにするために平生が強調され、平生業成と言われるのである。」(p.134)
と解き、臨終のときに他力の往生が定まる場合を否定してはいない。
このように、二十五三昧会と真宗とでは、決定的な相違がある。つまり、自力往生と他力往生の相違、臨終来迎による臨終正念と、平生業成の相違である。
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真宗の立場からのターミナルケアを考察した『家族中心の看取りと葬送』という本がある。「共感」ということを軸にして、この本の指摘するターミナルケアの姿を考察する。
ターミナルケアで最も重視されるコミュニケーションは、「メタ・コミュニケーション」である。メタ・コミュニケーションとは、実際に何かをしていなくとも、ターミナルな状態にある人と周囲の人がともにその場所を共有することである(1.1)。また、その人の話を聞いてその人の物語を共有することも大切である(1.2)。
また、一人では耐えられないことでも、近親者が支え、わかちあい、そのつらさを共感することができれば、薄らぐつらさもある(1.10)。
また、「キューブラー=ロスも述べていますが、本人の方から語り出さなくても、多くの死にゆく人は、自分の死にまつわることを誰かと語り合える機会が訪れるのを、待っているものなのです。」(1.13 石谷みつる)との指摘もある。
ターミナルにおいて、本人と近親者、それぞれの準備と心構えが共有され、共感されることは、ターミナルケアの重要な要素である。
ターミナルケアは、ターミナルな状態にあった人が往生すれば終了するという単純なものではない。看取った近親者は大きな喪失感を携え、悲しみの中にある。そのような家族に対するケアも、大きく言えば、ターミナルケアの中に位置づけられる。
寂しさや悲しさは、一人で抱えていたのでは、周囲は何も共有することができず、結果としてその寂しさがいつまでも癒えない場合がある。このようなときにもメタ・コミュニケーションは有効であるが、しかし、語ることによって癒える悲しさがあるのも事実である。よって、家族が悲しさについて語ることのできる環境を整える必要がある(4.4)。
「悲しみの癒しとは、悲しみを忘れてしまいどこかにふっ飛ばして気をまぎらわせてしまうこと、ではありません。むしろ逆に、悲しみをわが身にしっかり受け止め深化させることといえます」(4.4 加藤博史)
真宗に限らず、仏教はありのままを見つめ、困難であってもそれを受け容れようとする契機となりうる。
「目の前にありながら、わらわれが見えない事実、われわれが目を背けようとする当たり前の真実に仏教は目を向けさせてくれます。事実を変えるのではなく、事実をわれわれがどう受けとめるのか、どう受け入れるのか、そこに仏教は深く関わってきます。」(1.16 磯部裕)
ターミナルな局面を統括的に考えようとするときには、「安楽死」というターミナルも存在していることを考慮しなくてはならないだろう。
安楽死とは、大まかに言えば、助かる見込みのない者がさまざまな(肉体的・精神的・スピリチュアル的)苦痛にさいなまれているとき、いわゆる「延命治療」や「濃厚治療」を停止して死ぬにまかせたり、その苦痛を緩和するための薬品を処方して結果的に死を早めたり、むしろ積極的に毒を処方して死を早めたりすることである。
森鴎外の『高瀬舟』で語られる内容も、薬品の処方ではなく刃物を使ってはいるが、安楽死的な死であるとは言えるだろう。
安楽死は、現在の日本では殺人罪や自殺幇助にあたり、犯罪である。しかしオランダでは厳密な手続きに則った安楽死は2000年11月に合法とされ、今では「年間死者数の2-3%に当たる2千-3千人が安楽死している。」(三井美奈『安楽死のできる国』新潮新書 2003年7月 p.5)
しかし、水面下ではどの国でも安楽死は行われている、との指摘もある(三井 p.54コック首相の1999年の国会での発言)。
また、オランダでは「肉体的苦痛」は安楽死の必要条件ではない。
なお、安楽死の制度化には「(1)だれもが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度(2)腐敗がなく信頼度の高い医療(3)個人主義の徹底(4)教育の普及」(三井 p.60 安楽死容認派の医師ヘルベルト・コーヘン氏)という四つの条件がそろっていなければならないとされる。
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(1)日本のように医療費が比較的安いこと(対GDP比で世界19位※1)が最初の必要条件である。しかし「寝たきりになっても医療費の心配をせずに、だれもが安心して暮らせる制度が必要だ。」(三井 p.62)との指摘もある。たしかに、そうでないと安楽死は容易に現代の「姥捨」になってしまうだろう。日本では医療制度改革の路線が不透明であるため、この条件は満たしているとは言えない。
(2)日本の医療は世界的水準から見て非常に高度だが(WHOのリポートによれば世界第一位※2)、医療関係者は大変な激務をこなしているため、ミスは皆無ではない。また、ミスをあげつらう報道もなされているため、医療ミスに関する誤解も多く、信頼は十分とは言えない。つまりこの条件も日本は満たしていない。
(3)まったく満たしていない。
‥‥死と自己決定や個人主義をめぐる日本の状況は特殊であると説明されることも少なくないが、その特殊な状況は、克服されるべきもの、としての側面だけを持っているとは考えない方が良いのではないだろうか。一体、死は自己閉塞するものなのだろうか。死は個人のものではなく、「共鳴する」(※3)性質を持っているのではないだろうか。
逆に、これは個人主義ではなく、「共感」の中で答えが出ていくことなのかもしれない。
(4)するとすれば、まだまだこれからである。
以上、オランダで行われている安楽死に関する情報を参照し、日本で安楽死がおこなわれる場合には何が必要かを考察した。
ついで、真宗の立場から、近親者の安楽死というものを見た場合はどう理解されうるのかについて考察する。
※1 鈴木厚『日本の医療に未来はあるか』ちくま新書 p.36
※2 鈴木 p.12
※3 小松美彦『死は共鳴する』勁草書房 1996年
以上のように、安楽死が日本では不可能であることが浮き彫りとなった。しかし、実際に家族を看取った経験を持つ方の手記を読むと、ことはさように単純にわりきれるものではない、ということも見えてくる。
「共感」でも引いた『家族中心の看取りと葬送』の第二章には、龍渓章雄氏がお父上を看取られたときの様子や、氏の心の葛藤が記されている。
「「なんで死なせてくれんのや」「もういい、はよう往かせてくれ」……何度聞かされた言葉であったろうか。」(2.2)
「「もういい、はよう往かせてくれ」ということの意味は、自分がなすべきことはなし終えた。どうせ回復しないことはわかっているのだから、いつまでも気休めのような無駄な治療などせずに、早く自然な状態で死なせてほしい、お浄土に往かせてほしいと、そういうことでありました。それが父の最後の願いであったように思われます。」(2.3)
「私たち家族が、その通り道、あとは肉体の死を待つだけという自然な通り道を邪魔し、防いでいたのではないだろうか。管を刺して、余計な延命治療を施すことによって、逆に本人の意志とは異なる人工的な死を父親に無理強いしてしまったのではないだろうか。」(2.3)
「死を看取るということは、言いかえれば、その人の全人格としての「いのち」を看取るということではないでしょうか。」(2.5)
お父上のいのちを看取ったことを思いながらこの章を執筆された龍渓氏は、先ほど引用した「悲しみをわが身にしっかり受け止め深化させること」を今まさにおこなっているように感じられる。
わたしがこの章を読み、感動し、考え込んでしまった事実は、先ほど述べた「家族への共感」に少しは通底できているのだろうか。
それはさておき、この切実な文章を読むと、真宗の立場からは、安楽死は決して全否定はされないのではないかと考えられる。
「皆の迷惑になるから死にたい」という「姥捨て」に通ずる理由での安楽死は認められないだろう。
しかし当人に「もう十分生きた」という思いがあり、肉体的・精神的・スピリチュアリティな苦痛があり、そしてそれを近親者が共感できているのならば、否定される場合ばかりではないだろう。
なぜなら、真宗の救済は平生業成で実現しているため、臨終の瞬間や理由、場所、状況などは一切関係ないからである。関係ないものである以上、否定も肯定もされないのではないだろうか。
その場合には、より「共感」や「深化」の度合いの大きくなる方向へ行くべきであろう。
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わたし個人の理想を語れば、ターミナルを迎えた時には、ゆっくりと、精神的な危機的状況にならずに受け止められるような状態となっていたい。しかし、このように考えて語った理想も、真宗の平生業成とは無関係である。
経験的には、自分の心は自分の思い通りにならない。よって、わたしの理想とは相違し、わたしはわたしのターミナルをゆったりと受け止められないかもしれない。
事実、望んで受けた告知で癌と知らされ、それによってふさぎこみ、診断された半年の「余命」を待たず、一カ月で往生されたお坊さんもいるそうである(藤原直仁「10 真実の告知のために家族がすべきこと」龍谷大学短期大学部 社会福祉科編『家族中心の看取りと葬送』第一章「家族中心の終末期ケア」所収 p.76)。
だが阿弥陀如来から信をたまわっているならば、その人の心がどのようなのありようであってもそれとは関係なく、平生業成なのである。どのようなことを考えても、どのような死に際であっても全然かまわない。
真宗には、殊更の臨終来迎はない。ターミナルな瞬間に、その人の脳が機能不全に陥ってお念仏がまったく出てこないとしても、平生の念仏が往生のあてにならないのと同様、それは往生とは何の関係もない。
真宗のターミナルケアでは、「共感」が重要であろう。その患者のターミナルは近親者に共感され、近親者が共感したその人のターミナルはそのまた近親者へと共感される。
真宗では、人が亡くなるときの「臨終行儀」はない。その理由は、真宗では、日常生活を送る中で阿弥陀如来への信仰に至らしめられ、「南無阿弥陀仏」という念仏をとなえれば、そのときに往生成仏は定まるからである。臨終にこだわる必要がないのである。
また、真宗の往生は平生業成と言われるように、ターミナルだけが問題ではない。ターミナルまで含めた全体としての平生が問題なのである。
ターミナルケアは、平生全体を視野に入れる方向へと開かれていくべきであると考えられる。
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三井美奈
『安楽死のできる国』新潮新書 2003年7月 【bk1】
鈴木厚
『日本の医療に未来はあるか ―間違いだらけの医療制度改革』 ちくま新書 2003年4月 【bk1】
龍谷大学短期大学部 社会福祉科編
『家族中心の看取りと葬送』 晃洋書房 2002年4月 【bk1】
森岡正博
『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優生思想』 勁草書房 2001年11月 【bk1】
小松美彦
『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』 勁草書房 1996年6月 【bk1】
勧学寮(浄土真宗本願寺派)編
『新編 安心論題綱要』 本願寺出版社 1982年5月初版 2002年10月第二版第一刷 【本願寺出版社】