「脳死」臓器移植アンケート(詳細版)

データ&記述回答
2000年12月1日現在 回答総数 93 (単位:人)


このページの中でリンクしています。(下線部)


 グラフ・表

帯グラフ
 (男女・年齢  問1〜問13)


 記述回答 お願い

◇ 問2.TVやラジオで流れている公共広告機構(AC)の
「ドナーカード・あなたの意思を携帯してください」
というCMを知っていますか。
 「知っている」方、率直な感想をお聞かせください。


◇ 臓器移植法の、来るべき「改正案」について、ご意見をお聞かせください。

◇ ご意見・ご感想をお書きください。

    ◆ 特に、問4〜問8に対するご意見・ご感想
    ◆ ご意見・ご感想



 

回答者のうちわけ

性別
男性 82 女性 9 不明 2


年齢
20代 18 30代 36 40代 23 50代 11 60代 2 70代〜 2 不明 1




各 選択回答

問1.ドナーカード(臓器提供意思表示カード)は意思表示手段として適切だと思いますか。
適切だと思う 25 適切だとは思わない 42 よく解らない 15 保留する 11


問2.TVやラジオで流れている公共広告機構(AC)の「ドナーカード・あなたの意志を携帯してください」というCMを知っていますか。
知っている 65 知らない 28


問3.あなたは植物状態と「脳死」との違いを説明できますか。二者択一でお願いします。
できる 52 できない 41


問4.「脳死」臓器移植を行う際、「脳死」した人の体にメスを入れると「脳死」した人の体が動いたり、涙を流したり、血圧が上がったりすることがあります。そのため、レシピエントのみならず、ドナーにまで麻酔が施される場合があります(アメリカでは確実に麻酔が施されます)。 それでも移植を受けられる人は移植を受けるべきでしょうか。
受けるべきだ 10 受けない方が良い 46 保留する 37


問5.臓器移植を受けた人は一生免疫抑制剤を用い続けなければ生きてゆけません(遺伝情報が重なる一部の例を除きます)。免疫を抑制すると感染症に罹患する恐れが高くなりますし、免疫で臓器が生着せず、あるいは免疫抑制剤の副作用で臓器不全になり、更に臓器移植が必要になるレシピエントの方もいますし、移植を受けずにいた場合に予想された余命よりも短い一生を終える方もいます。それでも移植を受けられる人は移植を受けるべきでしょうか。
受けるべきだ 9 受けない方が良い 42 保留する 42


問6.臓器不全がある一線を越えて深刻化した患者には臓器移植が考慮されず、そういう方々は死を見つめ、死を待っています。 それでも移植を受けられる人は移植を受けるべきでしょうか。
受けるべきだ 11 受けない方が良い 41 保留する 41


問7.高額な医療費の負担を強いるため、移植医療は平等な医療ではないという意見があります。 それでも移植を受けられる人は移植を受けるべきでしょうか。
受けるべきだ 14 受けない方が良い 41 保留する 38


問8.日本が早期に「脳死」臓器移植を容認して「脳死」に近接した人への治療を放棄していたなら、脳低体温療法という医療技術は生まれ得ませんでした。「脳死」を容認することは、新しい医療や脳生理学、脳臨床学などの発展を妨げることにつながる恐れがあります。 それでも移植を受けられる人は移植を受けるべきでしょうか。
受けるべきだ 10 受けない方が良い 42 保留する 41


問9.「脳死」した人や「心臓死」した人の身体から臓器を移植をして、それによって生き延びようとする欲望(煩悩)は是認されるべきですか。
是認されるべきだ 33 是認されない 29 保留する 31


問10.人間の「生きたい」という欲望(煩悩)は無限に是認されるべきですか。
是認されるべきだ 36 是認されない 26 保留する 31


問11.「脳死」臓器移植に対する社会的コンセンサスの形成は必要ですか。
必要だ 56 必要でない 11 保留する 26


問12.「脳死」した人に更に治療を施すことは無駄ですか。
無駄だ 13 無駄ではない 46 保留する 34



最後の質問です。以下の文章を読んでからお答えください。

 1997年秋の施行から3年目を迎えるため、「臓器の移植に関する法律」(臓器移植法)は、今秋、臓器移植の実状に見合うように改正されることになっています(「臓器の移植に関する法律」附則第二条の規定によります)。
 2000年2月18日に厚生省の研究班のメンバーである町野朔氏によって発表された「改正案」の骨子は、

「(1)脳死になった本人がドナーカードを持っていなくても、家族の承諾があれば移植ができるようにする (2)親の承諾があれば、15歳未満の「脳死」の子どもからも臓器を摘出して移植ができるようにする」 というものでした。

 よくお読みになれば、どういうことなのかお解りになると思います。いささか偏見に満ちた(?)解説をしますと、(1)は、本人による意思表示が撤廃されるということであり、動転し混乱している家族を移植コーディネーターや移植医が説得できれば移植可能になるということです。(2)は、子どもは引き続き意思表示する権利を持たないままですが、子どもの意志に関係なく、子どもからの移植は解禁されるということです。


問13.この来るべき 「改正案」 に関して、あなたはどう考えますか。
(1)○
(2)○
8
1○2× 1 2○1× 2 (1)も(2)も認めるべきではない 57 ※ 5 保留する 20
※ その時の社会の状況を見て、それから判断すべきだ

以上、選択式回答13問




 

記述回答

お願い

 このようなデータをインターネット上で公開することに反対の意見をお持ちの方もいらっしゃるのではないかとお察しいたしますが、真宗の議論の場がますます興隆し、それによって真宗がますます興隆するためには、このような公開は必要なことなのではないかと思っております。ぜひとも公開にご理解をいただきますよう、お願い申し上げます。また、ご意見などはメールか掲示板にて承りますので、よろしくお願いいたします。
 なお、記述回答でお寄せいただいた意見がここに公開されている方で、公開を望まれない方は、その旨をメールにてお知らせいただきますれば非公開とさせていただきます。よろしくお願いいたします。

棚原正智 *****@*****.ne.jp
石田智秀 *****@*****.ne.jp

 

◇問2.TVやラジオで流れている公共広告機構(AC)の「ドナーカード・あなたの意思を携帯してください」というCMを知っていますか。
 「知っている」方、率直な感想をお聞かせください。

 「とにかくちゃんと意思表示をしようということはCMで理解できる点では評価できると思う。」

 「文化の違う欧米の圧力により、定着を急いでいるだけであろうが、提供しないという意思表示もはっきり言うべきである。」

 「携帯する、しないはその人の勝手、その人が決めればよいこと。」

 「些か情緒的で有ると思う。もっと直截的に訴えるべきと思う。それと、実際問題としても、今一つ日本人の感覚(センチメンタル)な感情に訴えるにはもっと具体的且つ直截的な方法が望ましいと思う。」

 「恣意的な意識操作を感じます。」

 「今はないかも知れないが、「あなたの善意を」と言うのはいかがかと思う。ドナーカードを出さない人は悪い人なのだろうか? 今の本願寺の運動本部に似ている。」

 「政府のコマーシャルのみながれ、反対意見のものがないというのは、すでに強制の部類に入っており、すでにマインドコントロールである。本人の意思を無視して、権力によって人間の身体をどのようにもしうるというものであり、とんでもない人権侵害であり、決して許しては成らない。私は脳死・臓器移植に当初から反対の意志表示をしてきました。しかし、賛成の方からすれば、アンケート調査の設問が、いささか誘導的ではないかと思います。設問における客観性という面はどこで保障されるのか問われるかもしれません。」(ACは実は、複数の企業が共同で運営している非営利団体であり、政府とは無関係です。わたしも当初は誤解していました。詳しくはAC:公共広告機構HP「http://www.inter.co.jp/ac/」へ。石田註)

 「わざとらしい。持ってるのが善だといわんばかりである」

 「視聴者は死が必定であり、自らの身にいつ訪れても不思議でない現実であることの認識がはたしてあるのであろうか? 「死んだらおしまい。あとは、亡きがら、提供しょう! 世の為、人の為」そんなPRに聞こえてならない。また、法が決めれば、脳死は死であり、「する・しない」の部分のみに個人の判断が問われ、「脳死が死なのか?」については聞いてはいない。」

 「正直なところ、土壇場にならないとこういったものの家族署名は当てにならないと思う(本人の意思自体も)。脳死問題も、自分の時と、我が子のときでは考えがかわってしまう。また、脳死問題に関しては、する、しないよりももっと問題になるのはそれが産業化してしまうことのおそれがあるのではないか。世界の南北差は深刻なものです。発展途上国で、臓器を売るための子供が生まれていく可能性が起きてくる事だって考えられます。まるで牧場の牛のように。考えすぎかもしれませんが、人間を麻痺させてしまうかも知れない深刻な問題ですよね。」

 「賛成、反対にしても、何か半強制的なものを感じる。同時に、合法化されたからか、臓器移植が、すべて、肯定されているかのように思う。」

 「さまざまある意見のひとつとして受け止めている。」

 「視聴者に分かりやすく、そして認知度を高めるというコンセプトで作られたと想像するのですが、それにしてもステレオタイプな安易なコマーシャルだと思います。」

 「中立的な表現方法であればよいと思います。」

 「否定するのも私の意思としてあるべきなので、主張はすべき。」

 「世間一般の人々の意思を、「臓器を提供する」ということに誘導するものであると思わざるを得ない。現在「脳死・臓器移植」ということについて問題にされていることなどにはいっさい触れることなく、臓器を提供するかしないかということだけに限って人々の注目を促すものになっている。このようなことを公共の電波を使って行っているということは、非常に問題にされるべきことであると考える。」

 「是非の問題は別にして、もう少し、確実な意思表示方法のシステムを考案した方がいいかもしれません。」

 「病院などで良く見かけますし、ライオンズクラブやロータリークラブ等の任意団体でも加入を勧める運動をされています。しかし・・。これが、実際に移植に適しているかとなると別な問題だと思います。ドナーさんが出来るだけ若く、また長期の疾病による死亡では無いことが望ましいという現実を考えますと、社会運動と現場のずれを感じます。骨髄バンク登録などは、イベントとして加入を勧められる事が多いのですが実際の移植にはかなりのリスクがかかり、移植を受ける側もその成功率の実際を社会があまりにも甘い認識をしているのではないでしょうか。万に一つの思いで移植を待っておられる方に、安易な登録で間際にキャンセルされるというのは、待っておられる方の命に関わっている事を忘れてはならないと思います。お祭り気分で安易に加入する雰囲気が、あまりにも強いのではないかと思います。」

 「コマーシャルのコンセプトは臓器移植推進の方向に偏っていると思います。臓器提供キャンペーンという色が強いCMに見えます。例えば個々人のフリーな判断に任せるというなら、例えば脳死患者から臓器が切り取られ取り出されている様子を流すとか(極論ですが)臓器提供者はこんな様にあわされるという情報も流して、あなたの判断に任せますというようなスタンスをとるべきでしょう。」

 「今一歩地味なイメージです。」

 「脳死になった時に治療の仕方も詳しく書いた書類があればいいのに」

 「持っていることが善であり、もっていないことが社会への積極的な参加がなされていないような感じがする事が、あまり好ましく感じない」

 「提供しないという方の表現が適切でないと思う。」

 「ん?偏ってやしないか?」

 「人それぞれでいいと思う」

 「ドナーカードがあれば確かに助かる方は大勢いらっしゃると思いますが、何だか人の命を合理的に考えているような気がします」

 「臓器提供が是だという印象を与えている。」

 「知っているが、みたことありません。一体いつ頃流しているCMなんでしょうか?」

 「臓器を提供しないと言う項目もあるからドナーカードの意味はあるかと思う。ただ身近な人に持っていることを知らせておくことも必要だと思う。」

 「個人の意思は尊重するが、その人を取り囲む両親、兄弟、友人等の想いを無視していると思う」

 「法律を作ってまで、臓器移植をしようと言うのであるならば、少なくとも、この法案に賛成した政治家、進めようとしている医療機関に関わるもの、弁護士等の人たちが率先して携帯すべきであると考えます。先の選挙の時にでも「私はドナーカードを携帯しています」という人は独りもいなかったと思われます。ここを見ても、もう少し時間をかけて論議する必要なことがはっきりしていると思うのですが・・・。」

 「医者の論理、人の死を待つ論理 金持ちしかできない論理 手術代を支払える人だけが受けられる論理 矛盾を感じませんか?」

 「はちまきをしたおじさんの出ているCMだと思いますが、政府のねらっているメッセージはあきらかに「臓器提供の意思表示をしましょう」というものと感じる。世論操作である。臓器提供を拒否する人も持てばいいとも言えるが、このままでは提供するという意志を示したドナーカードを持たないものが社会的悪者に仕立てられないかという不安がある。」

 「賛成・反対、両方のバージョンがあるのはいいが、本質的な部分での説明・議論がない現在では無意味になってしまっている。」

 「私は財布にドナーカードを持っています。きづいてもらえればいいけれど、持っているって知らなければ、意味無いと思います。何を持って、人の死とするかは、あらゆる観点によって違うと思います。そして、頂いた命をどう生かすか、も人それぞれだと思います。一つの意思表示として、いいと思います。」

 「家族等と率直に話し合われた結論であれば悪い事ではないと思う。」

 「「私は、提供しません。」と言うふうに、反対の意志の表示も求めているけれど、ドナーカードを持たない人は、反対派であると見なしたほうがすっきりする。」

 「もっと慎重にすべきだとおもう。」

 「ミーハーがこのキャンペーンで何人くらいひっかっかるな?」

 「一方的すぎるのではないか?」

 「移植前提でのアプローチが前に出すぎている。」

 「人のいのちを狙うはげたか行為かあな。」

 「作為的な面も感じる」

 「一人でも多くの国民に知ってもらうというこで当然のことだとおもいますが。」

 「「脳死」臓器移植に対する考えを統一しようという意図があって嫌だ。」

 「この社団法人の立場からはネットワークを広げたいと考えるのが当然なので、別段何も考えません。」

 「あまり効果無し。」

 「あなたの意思というよりも、臓器移植が人のためになる良い行いということが前提になっているので、臓器提供を促すCMになっているのであまり好みません。もちろん製作者側にとってはその意図があると思うので、その気になった人がいるということはねらい通りということだと思いますが。」

 「初めて視たときから非常に強い不快感を覚えた。阪神大震災以降、公共広告機構の流すCMにはその内容を問わず、人を見下し、強要や脅迫めいた雰囲気を漂わせるいやらしさを感じていた。この臓器移植のコマーシャルに至っては、臓器移植そのものを否定する考え(私もその一人)がほぼ封殺され、臓器移植が「完全に善」であるかの如く演出がなされている。資源・環境問題などで誰もが否定できないこと(例えば資源を大切にしようとかゴミを減らそう)なら公共広告でいくら流してもかまわないが、意見の分かれる問題について、「論議のたたき台」としてではなく、一方的な意見のみを流すのは、不適切であると思う。放送局には公共広告の放送内容の選択権があると思うが、この臓器移植のキャンペーンについては、当然放送しないでいただきたい(関西ではこの臓器移植のCMが配給された当初、弱小独立UHF局のみでこのCMが流され、在阪局はしばらく放映を見合わせていた様子だった。最近は雪印乳業や三菱自動車の不祥事で公共広告の放送が増えたが「こども読書年」のCMが中心で臓器移植のCMは殆ど増えていない。局内、或いは視聴者の少なからぬ人々があのCMに相当強い不快感を示していると勝手に推測する)。」

 「少し押し付けがましいところがあると思います。ただ、カードの携帯を促すだけではなく、持っている人その人の意見が入ってくると、それを聞いている人は、影響を強く受けると思います。だから、人間が出てきて・・・というCMは、あまり好ましくないと感じました。たとえば、現実離れした、アニメや、キャラクターを用いるほうが良いのでは?」

 「臓器提供を拒否することが「悪」ではないことを、もっとアピールすべき。現状では、臓器提供すべきというイメージが強い。(よく見ると一方的でないという伏線はふってあるのですが。)」



 

◇臓器移植法の、来るべき「改正案」について、ご意見をお聞かせください。

 「自分自身は臓器移植に反対であり、脳死に対しては別問題だと考えている。そのために、この改正案に関しては、より明確な議論を経て後に法案化されるべきものだと考える。」

 「この改正案は、"意思判断"を本人以外の親族等が代理的に行う事を認めるということなのであろうか? これは、法律的(民法?)にも認められないのではなかろうか? "意思判断"については、4月から「成年後見制度」が施行され、本人の権利擁護がこれにはうたわれている。これほど"本人の意思"の取り扱いは、重要視されている。それなのに臓器移植するために本人の意思を無視し臓器を移植するというのは、患者中心の制度であり、人間の尊厳性を軽視する制度になるのではなかろうか。」

 「本人の意思を最も尊重すべきだ。家族も含めて他人がどうこういうべき問題ではない。」

 「何よりも先ず、日本国民全体に対して「脳死」並びに「臓器移植」に関する認識と知識を高めねば成らない。残念ながらあいも変わらず「知らしむべからず、依らしむべし。」との体質が為政者にも国民にも濃厚で有る事が最大の問題事項と考える。」

 「反対します。」

 「15歳未満でも意思表示は可能だと思います、意思表示の権利を認めた上で、本人がドナーになる意思表示をしており親の承認がある場合に認めるべきでしょう。」

 「私もよく分かっていないように、もっともっと議論を重ねるべきである。」

 「本人の意思を無視して、権力によつてどのようにも人間の身体をしうるというものであり、とんでもない人権侵害であり、決して許しては成らない。」

 「そのうち基本的に移植OK。本人が「ノン・ドナーカード」的なものを携帯してれば移植NGということになると思う。」

 「日本には日本の永い文化があります。特に仏教者・真宗者は、「問題を後から追うのでなく、毅然として煩惱の行く末を、明言すべき」と云われる、先の紹介した、泉美治氏の著書95頁の言に賛同致します。

 「仮に我が子が病気になり、我が子の命が委嘱によって救われるとしたら、子供の臓器提供者がおらねばなりません。私はたぶん外国へ渡ってでも、委嘱を受ける為に我が子の命を救おうとするでしょう。」

 「ぞっとする。」

 「本人の意思表示は尊重されるべきだと思うけど、人間ってそのときの状況によって意思は変わるものだと思う。また一人で生きているのではないのでドナーカードを持つときにも良く回りの人と相談すべきだと思う。この改正案は臓器移植をいい事だという前提であると思うのでもっとよく専門家の人(医者だけでなく、これまでに移植を受けた人・提供した人、宗教家等)を交えて論議すべきでは・・・。勿論その場に本派の僧侶も居て欲しいのだけど、宗派の意見が纏まっていないので・・。」

 「1も2も認めるべきではないを選びましたが・・・。我が身になって考えてみると・・・。よくわからなくなってきました。」

 「臓器提供は、あくまでも個人の意志表示がなければならないと考えます。日本社会の現状では、まだまだ個人というものが確立されていないのだと思い知らされる話ですね。」

 「無有代者のたいせつな命をなんと心得ていますか。我が身として考えて、納得がいきますか。と申したい。」

 「差し上げたいという人がいて、頂きたいという人がいるのですから、そんなに堅く考えなくともいいと思います。仏はそこまで禁止していないと思います。」

 「ここで問題なのは、この「改正案」に基づいて臓器移植法が改正されると、「臓器を提供しない」という明らかな意志表示がない限り、脳死状態になったら臓器が摘出されてしまう可能性があるということである。一般的に考えて、「ドナーカードを持たない人」は脳死・臓器移植に関する関心や知識を持たない場合がほとんどであろうと思われる。現在でも、ドナーカードを所持していると、緊急時の医療が手抜きになる可能性がある、ということが問題になっていると聞いた。「脳死体」が不足しているために、脳死の疑いの高く、且つ臓器提供の意志表示のある患者(ドナーカーの1に○をしている人)は、早い段階から、蘇生を試みる治療から、臓器を摘出するための処置へと切り替えられてしまうという。それでもドナーカードの1or2に○をした人は、脳死・臓器移植に関する実態を知った上でそれに○をしたかどうかはわからないが、少なくとも一度は自分で「臓器を提供する」という意志を持った人であった。しかし法律が改正され、ドナーカードを持たなくても・・・、ということになると、「臓器を提供しない」という意志表示のない人全てが、「手抜き医療」の危険性にさらされることになるのではないか。そしてそのような人というのは往々にして「脳死・臓器移植」に関する知識を持たない人である。以上のことから、断じてこの「改正案」は法律として可決されるべきではないと思う。」

 「臓器の提供などは、やはり個人の選択による事が大切だと考えます。たとえ、それが意思表示できない状態であったとしても。」

 「移植の成功率の問題なのではないでしょうか。現実には壮年期の方の臓器より青年や幼児の方の臓器の方が移植の「成功率」が高いと言われています。またいろいろな疾病を抱えておられる方より、若い健康な方の臓器が求められています。この改正案は、若い方が事故死された場合を想定しているとしか私には思えません。移植の成功というのは、移植そのものを言うのであり、移植を受けられた方の5年生存率、10年生存率まで見ているものとは全く別次元と思います。」

 「死に対する本人の意思を尊重するべきである。たとえ15歳未満であっても、本人の意思がなければ臓器移植はいけない。」

 「現段階では今後も改正を続けていくということでの妥協案の一つだと思います。ただ、個人の意志で拒否のドナーカード書き込みなり、生前の意志表示があれば、どんな状況でもそれが優先されるべきだと思います。(多分これは法案にも盛り込まれていると思いますが)」

 「本人の意思は重要だと思います。また、このアンケートは要するに、脳死に対して批判的な考えのもとでしているようですが、死んで体は灰に帰すのみ。であれば、臓器がどうなろうと関係無い気がします。問題は脳死の判定基準にあります。そこが確実ならば良いと思います。また、心臓死の場合でも斎場で火葬した場合、何人かに一人の割合で、棺の中でもがいた後があるそうです。どこまでも問題にしていたら完全な死の基準までわからなくなります。脳死がどうとか心臓死がどうとか、関係なく自分にとってどう死を迎えるか、が最大の問題であって、その自分の身体がどうなるかというのは二の次だと思います。あくまで個人の意見ですので、他の人の意見をどうこういう気はありません。」

 「もっと公開された議論はできないものでしょうか。いったん成立すれば遵守しなければならないよく内容の見えない法律が、経緯を知らないうちに成立することは大変危険であると考えます。」

 「なしくずしの権力者の常套手段です。気をつけましょう。」

 「生きる事のみが良いことであるような発想が感じられ、何か不可解な感じがする。」

 「可能だからやる!?????? 出来るからやる!?????? 無理があるなあ・・・・・・」

 「一方は、生きたいと願っていても、臓器移植しないと生きられない人、家族。生きられるはずだったのに、不慮の事故や病気で提供する側に立ってしまった人、家族。正直言って、当事者でない私には、どちらの立場も理解できます。「改正案」に関しては、私個人の意見として申し上げると、今まで生きてこられたのは両親や家族のおかげですので、そのような状況で両親や家族がどのような判断をしようとも、それに従いたいと思います。決して他人任せにしているのではありません。」

 「特に(1)について。フランス並に日本をしようという試みに受け取れるが、日本国民がこの脳死の問題にどうしても目がいくようになるという点では、いいことにも思える。ただその場合、広報をどうするのかということが、大きな問題だろう。だまし討ちみたいになってはいけない。しかし問題にすべきは、まずは死のダブルスタンダードということ。それから、公平性ということ。ダブルスタンダードとは、三徴候死と脳死、この二つともを死と定義していいのか、という問題で、いまだほとんどの日本人に受け入れられていない脳死という死をもって普遍的死としていいのかということで、もし脳死を死とするのなら、それなりに説明が要り、普遍的でなくてならない、ということ。公平性とは、私が私の命が一番大事なように、他の誰もが、自分の命が一番大事であるという、この単純な事実に基づいて、公平であれるかどうか、ということ(先の脳低体温療法はこの単純な事実をベースにしなかったら、恐らく生まれ得ない発想でしょう)で、そこまで日本人は成熟している、あるいは進化しているかどうか(恣意的な命の序列、医者がするにしろ、その社会がするにしろ、それはいけないし、この公平さの大切さ、尊さ、重要さの認識が社会全体として底上げされているかどうか、ということ。私としては日本人はそこまで成熟していないと思う)ということが問われます。もしこれが達成されていない国で、上のような法律が施行されたら、とりあえず、社会的地位の低い人間や、虐げられている人間(勿論、この場合子どもも含まれるでしょう)は、ドキドキしながら車を運転し、道を歩き、生活しなければないでしょう。おそろしい。日本という国が、この点で成熟しているかどうかは議論の余地があるように思えますが、もし成熟した国でないとしたら、上の改正案は改悪としかいいようがないでしょう。」

 「本人の意志が第一だと思う。親の感情として、子供の一部であってもどこかで生きていて、と言う思いを否定できない。そう言う場合に(2)を受け入れることもあるかもしれない。」

 「ドナーカードで臓器提供の意志表示をさせるなら・・・。提供のする・しないだけではなく自分が臓器提供をしてもらう・してもらわないという意志表示も必要だと思います。なぜならもし臓器提供をしないというふうにドナーカードを持っている未成年者がいたとしてその未成年者が臓器移植をしなければ助からない状況の時どうするのでしょうか? 現時点での法律ではいろいろと問題があると思います。自分は臓器提供しないけど、もらいたいという人もいるはずです。また臓器提供しないから、自分はもらわない人も必ずいます。また臓器提供してもいいけど、自分にはして欲しくない人もいます。ギブ&テイクではないけれど臓器を提供する意志を表示したのだから優先的に欲しい人もいるのです。だから私は現時点でのドナーカードは完全ではないと思います。未成年者というのは親に親権がありますが、生きる権利と死ぬ権利まで親にあるのでしょうか? そこまで法律で決めてしまうのはおかしいのでは・・・」

 「患者のためでなく、人体実験を正当化すための法律と感じる」

 「先の法が成立したからには、引き続き、原理的に反対していくことも必要だし、また、法案成立の上に立った実際的反対議論も必要です。こうした改正案が出てくることは予想できましたし、また、さらなる改正も予想できます。原理的反対だけでは、恐らくこのなし崩し傾向は止めることはできないでしょう。何故、なし崩れていくか、詳細な分析と、それを許さない実際的な線引きの議論が必要であると思います。結果が引き起こすこうした面に関する議論とともに、原理的反対も勿論継続されるべきですが。」

 「何よりも「脳死」ということが、何を求めることから始まっているのか、欲望の達成は次なる欲望を生み出すということへの問いがない前条で、改正も改悪もない。もう一度最初から考えることこそ大切なのだと思っています。」

 「難しい問題だと思います。移植を待っている人にとっては,いいと思いますが、私は私がもらったこの生命ですから、私が決めたいと思う。自分の体の一部が人のためになるのなら移植をしてほしい人もいるだろうし、家族にも「この子の本望でしょうから、してやってください」と言う人がいるだろうし柔軟に出来たほうがいいと思います。」

 「この改正案には慎みがない」

 「「ドナー」本人の「脳死」臓器移植に対する可・不可の意思を問うことなく、周囲の利害関係から「ドナー」の臓器移植の実行について決断が下されてしまうのは非常に危険だと思います。15歳未満の「脳死」の子どもからは親の許可があれば臓器を提供してもよい、というのは、子どもは親の所有物だ、という古い通念がここでも顔を出しており、子どもの権利が叫ばれている今日の世界においては、むしろ世界の動向に逆向する流れとなってしまっているでしょう。」

 「ヤミ移植、臓器密売、など平気で行われている現在、取り締まる方法を先に考えるべきではないか。また、子供については、意思表示の権利を持たせるのが先である。」

 「子供に意思表示の権利が与えられるのであれば、その子供のドナーとなる意志と、親の承諾という、2つの用件がととのった場合、移植を認めてもいいのではないでしょうか。ただ、小学生にもならない小さい子供の場合、どうするのがよいか、答えが見つかりません。」

 「この制度ができとして、「この制度があるが故に、人間が商品化されてしまう」という事態を反対する人は恐れていると思います。果たして、隣人を「人間」、御同行であると思っている方が、また「いる」と断言出来る方が、どれだけいるでしょうか? 遅かれ早かれ、このような制度はできると思います。」

 「移植に関るすべてが善という環境を作りだそうとする意図がありありとしすぎて背筋が寒くなります。」

 「脳死だから死んでるのだ、けれども生きて使える命をクレなんて、聞こえないなあ。」

 「難しい問題です。」

 「法律で判断できないことは、家族任せみたいな法案だと感じた。個人の尊厳が保たれない社会を、法律的にも容認していこうとする方向が腹立たしい。臓器の売買が闇で行われるのが、目に見えている。」

 「一番の問題は「家族」がどう思うかではなく「本人」がどう考えているかであると思う。だから、「本人」の意向がどうかわからないならば、第三者が介入すべきではない。」

 「現在行われている脳死の方からの臓器移植は、本人の意思により家族が納得したものであるが、実際に提供したあとでも遺族の方の「本当に良かったのか」という苦悩は続くといいます。本人の意思があっても苦しむ遺族がいるのに、まして本人の意思に関係なく、混乱している中進められるまま移植を承諾してしまった遺族の後の苦しみは如何ばかりでしょうか。さらに、子供であっても意思はあるはず。子供だからといって大人、強者の勝手にしてしまうのは納得行かないのです。この二つには絶対反対です。」

 「私はどのような理由であれ臓器移植は自然と人体の摂理に反する行為だと思うので、臓器移植そのものについて反対であり、このような個人の意志を無視したような「改正案」については余りの馬鹿馬鹿しさに怒りを通り越して呆れるばかりである。」

 「先日テレビのニュースで、検討委員会が発足されたことを聞きました。いろんな分野の人から意見を聞いて検討されていくのだそうです。偏った意見が通る事の無いよう、注意してこれからも見てゆきたい。」

 「今後、臓器提供者の不足を補うことを視野に入れた改正と考えれますが、臓器提供を拒否する権利を抹殺する悪法と言えます。」



   

◇最後に、ご意見やご感想をお書きください。

◆ 特に、問4〜問8に対するご意見・ご感想


  1. 賛成の方からすれば、アンケート調査の設問が、いささか誘導的ではないかと思います。設問における客観性という面はどこで保障されるのか問われるかもしれません。
     
  2. このアンケートは要するに、脳死に対して批判的な考えのもとでしているようです。
     
  3. このアンケートの形は偏りがあるように思います。脳死、臓器移植には反対の立場からのアンケートのような気がします。
     
  4. 私は脳死・臓器移植に当初から反対の意志表示をしてきました。しかし、賛成の方からすれば、アンケート調査の設問が、いささか誘導的ではないかと思います。設問における客観性という面はどこで保障されるのか問われるかもしれません。
     
  5. このアンケ−トは、脳死を認めるべきではない。という前提で作られてはいませんか。日本も21世紀には、普通の国家になるべきではないでしょうか。あまりにも、極楽トンボの国、日本です。これではいけないと思います。
     
  6. このアンケートの作り方が、ある意味で移植反対への内容誘導に近いものとなっているように感じます。もっと、「なぜ」という部分をしっかりと聞いていくようにしていただくと有り難いです。保留は、意思表示できないのではなく、条件付きまたは、状況判断の問題があるからです。けっして、判断できないのではありません。
     
  7. 臓器移植自体に疑問をもった状態で、問い4〜7の設問は答えにくい。これらの設問は、移植賛成の人に対する問いかけのような気がする。設問・答えの設定を変えてみたら。
     
  8. このページの設問については意図的にある回答を誘導する形式をとられていますのですべてに保留させていただきました。
     
  9. 「脳死」臓器移植アンケート(詳細版)の質問の内容が、いかにも「脳死」反対という立場から、「脳死」臓器移植のマイナス面をいたずらに強調し、いたずらに回答者の「脳死」臓器移植に対する不安感・不快感を煽るような内容になっていたのが気になりました。このような「脳死」臓器移植に対する意見をアンケートとして集め、集計したいのならば、なるべくこのように主観を交えた質問内容とするのではなく、中立・公平の立場から質問を組み立てた方が良いでしょう。ある意味、誘導尋問に近いものがあり、たとえこれにより、「脳死」臓器移植に対して「NO」の意見が多くなったとしても、それは浄土真宗本願寺派僧侶の率直な意見をそのまま反映させたもの、とはならないのではないでしょうか。
     
  10. この詳細版は、意図的なものが有ると感じた。全てにnoという答えが敷かれているようだった。中でもQ4〜8ぐらいが特にそう思った。
     
  11. 問4〜8はちょっと誘導くさい気がします。でも、私と同じ意見の方がいらっしゃったことは非常にうれしく、また心強く思いました。
     
  12. 回答の選択肢が「受けるべき」となっているのは、抵抗を覚えます。「・・すべき」問題ではないと思います。最後は本人の選びと考えます。

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◆ ご意見・ご感想

 「一般的に世間では臓器移植を受けた人は、それで元通り元気になれるという錯覚がある。一生免疫抑制剤を用い続けなければ生きていけないこと。またその副作用に苦しむことをもっと周知した上で、国民の意見を求めるべきである。現状ではばら色な事の何が行けないてきな広報が多いように思う。」

 「私が脳死になったら意志表示出来ないのだから周の人に任せる事になります。脳死状態でもっと生きたい気持ちがあってもドナーカードを持っていれば臓器移植されるし、その反対もあります。これらの問題は是も非もないと思います。ただ、このような法律は警察の問題があるからでしょう。」

 「「臓器移植=善」という風潮の中進行していると思う。今一度「臓器移植」が何たるか検討が必要ではなかろうか? 臓器移植が、不要な臓器の再生・有効利用であってはならないと思う。「死」を見つめる事から始めなければならないと思う。」

 「脳死を認めて臓器提供したい人はすればいいし、その臓器を利用したい人は利用してもいいと思います。ただし、私は自分の死は靜に迎えたいと思うので臓器提供する気はないし、また子供の臓器を提供しようとは思わない。」

 「意思表示は個人が決めるべきだと思います。移植を受けたいと思う人に「あなたは間違っている」という気はありません。回答に保留が多いのはそのせいです。ドナーの立場、受ける側の立場、医師の立場、それぞれ全く違います。移植を待つ立場の人にドナー側や医療の問題を突きつけるかたちの酷な設問には、「受けるべき」と酷な回答をしました。とにかく生きていきたい、というのは本能であり煩悩だと思います。法律上問題はなくても煩悩は煩悩です、他人の脳死を待ってでも行きたいと思うのは煩悩でしょう。それは移植を受けた人が他人から指摘されなくても、内面に深く自覚すべきだと思います。しかし、他者の命を頂いて生きているのは移植を受けた人だけではありません、みんなが動物や植物の命を頂いて生きているのです。社会的コンセンサスの件ですが、どちらか一方に偏ると、少数派は偏見を持ってみられたり、差別されるようになったりしないかと不安です。ドナーにならない意思表示をして非科学的とかけち呼ばわりされたり、移植を受けて人殺しのように言われたり、アメリカではどうか分かりませんが日本なら有りそうな気がします。」

 「浄土真宗の僧侶としての重責を改めて感じさせられました。」

 「けど諸外国では臓器移植は行われているわけで、日本で禁止してても金にものをいわせて、外国で移植を受ける人は増える一方な気もします」

 「大体人の命を、自由に操作しようとする事自体が、傲慢な科学の特色なのではないでしょうか。さりとて、科学を絶対否定しょうとするのでは有りません。いかにして、人間理性でコントロール出来るかという問題だと思っています。尚、今こそ宗教と科学との接点を日本人としてしっかり考えようと、私達から世間に呼びかけることの大切さを、強調いたしておきます。

 「臓器提供者側の生死の判断に法の定めが無ければ、受ける側に選べる権利は生まれません。法の定めがあっても、提供者の意志は尊重されなければなりません。私はこの問題に限らず、規制は緩和されるべきだと思っています。ただ、規制を緩和するにおいても、そこまでの過程で皆がその問題を真剣に考え、議論しなければ、よい結果は生まれないと思っています。」

 「本来、私は、臓器移植については、反対です。しかし、自分の身内、親友の中で、そのような状態におかれたものが現れた場合、同じように反対が主張できるかどうかわからないところに、この問題の難しさがある。」

 「人の魂の未熟さにもかかわらず、成り行き任せでこの社会は暴走しすぎている。経済力で不幸を避けることには無理がある。技術に頼るより、内面の力と自由を開発するべきだ。」

 「私たち宗教家としては、「死んだらおしまい」という考えから考え直してゆかねばならないのではと考えます。

 「日本社会の現状では、まだまだ臓器移植というシステムは確立されないだろうと感じています。なぜなら、日本独特のウェットな精神風土が根強いからでしょう。アメリカのTVドラマ「ER」をご覧になったことがあるでしょうか。ドラマの中で、わりと普通のこととして脳死やそれにもとずく臓器移植の話が出てきます。感心させられるのは、ドナーの家族やレシピエントに対してのカウンセリングが充実していることです。それも日本のように素人に毛が生えただけのようなカウンセラーではなく、精神医療の現場のプロがアフターケアをしているのです。日本に一番欠けているのは、この精神的なアフターケアではないでしょうか。また、この問題を複雑にしているのは、ドナーとレシピエントという全く異なる視点を何の配慮もなく同じ土俵の上で論議しているからでしょう。ドナーの側は、死んでいくのですから、少なくとも私は自分の臓器に何の未練もありません。ただし、残される家族に対しては完全な医学的説明と精神的なフォローを要求しますが。一方レシピエントの側は、ややもすると「そこまでして生きていたいのか」とか「高額な医療費は新たな不平等を生むのでは」といった社会的な批判を受けます。しかし、それは当事者の視点ではなく、あくまでも第三者の視点です。人間は本来生に執着する生き物です。いや、人間だけではなく生きとし生けるものは皆そうでしょう。それを否定する権利は誰にもないのではないかと思います。そこまでして生きたいのならそれはそれで認められてもいいのではないかと思います。それもいくつかある選択肢のひとつです。選択肢はたくさんあった方が良いと私は考えます。この問題の論議には、いい意味でのドライな割り切りのようなものが必要ではないでしょうか。それと完全に中立性を保つ移植ネットワークの確立です。現状では、このところがブラックボックスで信用できません。アメリカのよ」(以下、入力欄の関係で欠。以後、入力欄を拡大。石田註)

 「命をどう考えるか。非常にむつかしい課題ですね。主観と客観的な立場との葛藤、そこには情というものが介在し自分の息子がこのような立場になった時、親の気持ちとしてこのアンケート通りの態度を取れるか自信がありません。これも如来様がおみとおしなのですね。」

 「ありがとうございました。アンケートに答えながら、脳死・臓器移植について考えを深めるきっかけをいただきました。私も、現代と真宗を考える者の一人です。」

 「いただいた「いのち」。完全燃焼して終わるべきです。引き継いでもらおうとは思わない。」

 「門信徒は 法に照らして「臓器移植はどうなのか」と聞いているのに、本山は曖昧な表現で回答していない。なんのための仏法なのか疑いたくなるし、担当者は逃げている。「自然法爾」の言葉を知らないのか? 進んだ医療は身体を切り開いたりする、痛みを伴う治療では無いわけで、遺伝子治療が開発される、悪く言えば、将来外科医は失業するわけで、その予防として高い治療費を取って生きる道を作っているようにも思える。本山も、NOと早くその法を示さないと、かって戦争に突入して、黙って傍観していて、今になって顰蹙を受けているのと同じようなことが将来おこることを、銘記すべきである。宗会議員はなにをしているのか、宗務総長はなにをしているのか。……長くなるので、この辺でやめます。」

 「この詳細版アンケートの質問は、どう答えたらいいのか難しいものが多かったように思います。例えば問6の質問は、「臓器移植の可能性が100%断たれた人もいる。」ということと「移植の可能な人が臓器移植を受ける」ということの関連性が今一よくわかりません。不公平・不平等ということを問題にしておられるのだとは思いますが、「臓器移植の可能性が100%断たれた人もいる」ことがそのまま「その他の人も臓器移植を受けない方がいい」ということには繋がらないのではないかと思います。もちろん「それでも臓器移植を受けるべきだ」ということにも繋がらないと思います。(質問に対する僕の解釈が間違っていたらごめんなさい。)そんなこんなで「保留」が結構多くなってしまいました。」

 「是可否で答えにくい質問が多い。」

 「生き延びようとする欲望(煩悩)という記述が見られますが、自己保存の意識(無意識下においても)を煩悩と捉えるかどうかはまた別の問題ではないでしょうか。脳死移植の場合、世間で問われ始めてもう20年近く経つと思いますが未だに、移植手術そのものの成功しか問われず、それを受けられた方のその後の人生は全く無視されて語られているのではないでしょうか。脳死というのは、ある意味で医療技術が作り出した特殊な状態であり、実際には2〜3週間で組織の自然衰退により心臓死に至ります。なぜこのわずかな間が待てないのか、なぜわざわざ「脳死」という事に関して倫理規定まで求められるのか、このことが問題なのではないでしょうか。移植を受けてでも生きたいと思われる方の望みまで否定するつもりはありません。またそれを叶える医療技術があるのならそれはすばらしいことです。しかし、それすらかなわず、生きる望みを奪われる人々も多いことを忘れてはいけないのではないでしょうか。」

 「脳死を具体的に認めるかどうかという議論も大切ですし、それが仏教の上からどう考えられるかという意見も大事だと思います。しかし、同時にもっと根本的な問題は、人間の技術が死を受動的に受け入れる(いわば運命として)段階から、ある範囲内にしても「選ぶ」段階に入ってしまったということがしっかりと自覚されるべきでしょう。おそらく、ここで脳死を死と認めないという方向になったとしても、脳死をとるか、心臓死をとるかという選択がなかった以前にはもう戻れないと思います。人間が「死」ということをある程度恣意的に決められるようになったということは、この技術を手にする以前の人間と、以後の人間とは、「死すべき人間」という宗教の大きな契機の意味が変わってしまったと思います。その影響が出るのはおそらく十年以上先でしょうが、宗教者はそれを自覚し、表現する心構えが必要でしょう。「意志で選べる自然死のあり方」というのは釈尊の説かれた「生老病死」の死の中におさまるのか、それともそこから踏み出してしまうのか。これから考えていかねば、単に「人間が臓器移植をしてまでも長生を望むべきかどうか」を論じても根本的な問題は見えてこないと思います。」

 「臓器を提供される側が、誰か死なないかなと思いながら暮らしていくのは果たして幸せなのでしょうか? 自分が受ける側にたつとあんまり臓器移植されて生き延びても他人の不幸の上で成り立っているから、あまり嬉しく感じません。しかし世の中の考えには、自分の子が臓器を提供したら誰かの中で私の子が誰か知らないが生き続けていると言う考えで脳死を認める考えもあり、一概に否定することもできないと思います。」

 「私は、真宗僧侶として一線に立って活動しております。個人的意見を感情なしにお話することはできないことであると考えます。「人の死」については「死の縁無量」と言うことしか私はご案内できません。「脳死」の問題が「臓器移植」と共に形付けられるのなら、「死んでも役に立つ人」「死んでも役に立たない人」などの偏見を生みかねないのではないでしょうか。大抵のアンケートは、賛否どちらかに集約して利用されがちです。このアンケートの結果が全体を集約しているといった内容にはならないことを願います。」

 「NHKスペシャルの「世紀を超えて」で放送された臓器移植の特集、改めて考えさせられました。臓器移植は個人の考えが最も優先されるべきことであって、一方的な見解の押しつけはすべきではないと思います。」

 「私の問題としたいところは、脳死が人の死である、いや、ないということではなくて、社会全体が今でいう思慮深い、できた人間が一般の人となるような社会が実現したなら、脳死の問題は公平に解決されると思います(脳死を人の死とした場合も、そうじゃない場合も)。しかしこれが実現していない社会では、上に書いたように進んだ技術も、大層な法律も、危険きわまりないものでしかないように思えます。ここを指摘するのが大事かなと、ふと思いました。」

 「脳死も含めて、もっと死と言うものを考えなくてはいけないと思う。必ず死ぬものであるから、どのような死を迎えるか、と言うことは大切なことである。あまりにもその点が抜けている。そのような状態での脳死や、臓器移植はどうなんであろうか。医学の進歩に振り回されているのではないだろうか。」

 「移植コーディネーターは死に神だ・・・人の死を待っている死に神だ・・・。人の死は人間の考えでははかることのできないもの・・・。それを論議すること事態間違っている。そもそも親鸞聖人の浄土真宗というものは真実の教えである。この世は迷いの世界であり、真実の見えない世界であると親鸞聖人は仰せられた。煩悩という人間の持っている欲。それは、みんな持っているものであるので、生きたいという欲望はしかたのないものである。しかし、我々の浄土真宗は、もう助からないという人に対して真実というものを用いて浄土というものを提示しているではないか? 死というものを認めていく世界、自分の死が近づいて来てもそれを受け入れる事のできるのが阿弥陀如来の真実というものに出逢ったひとではないか? 真実はただ一つ、真実を教えてくれる阿弥陀如来に従うだけである。人の生き死には人によって左右されるものではない。」

 「人は生まれた時から「自分の命」への執着を持つ。自分の命を生かすために、他の命を利用し続けている。そのことを煩悩といい迷いと指摘されている。そのことに深い自覚を持てと、私たちはアミダから働かれている。人の死を待ちのぞんででも、己の生に利用しようという姿は、私自身は到底自分に認められない。よって私は自己の生をも人に提供することもしない。」

 「「人は、生きている限り必ず死ぬ」ということは、どうしょうもない事実です。死に直面したとき、ほとんどの人は、「まだ 死にたくない。」と思い、家族は、「もっと 生きつづけて欲しい」と願うでしょう。このことも、事実です。 生きつづけたい・生きつづけて欲しいという願いが、臓器移植という形で、一時的に叶えられたとしても、また、必ず別れていく時を 迎えるのです。いかされているこの命を、どう生ききるか?が、「生死いずるみち」でしよう。「どう生き延びるか」ではなく「どう生ききるか」を僧侶として、伝えられるようご門徒と接していきたいと思っています。」

 「難しい」

 「「それでも、臓器移植を受けるべきでしょうか?」と言う質問には答えられません。受けたい人は、どうしても受けたいんでしょう。(ちなみに私はいまのところ、受けたくありません。)他を犠牲にしてでも生き残るぞと言う道を選んだ、あるいは、この子を助けたい、そのためにはなんでもする。こういう状況に自分がおかれたらと思うと何もいえません。生きたいという欲望、是認されるをえらびました。私自身が、欲望のすべてを認められているからこそ、今ここに存在させてもらっていると思うからです。自分が欲望まみれのくせに、あなたの欲望を捨てなさいとはいえません。臓器移植の問題は、要するに他を殺して自分は生き残るのは善いか悪いか、それを国が定めるのはどうなんだということでしょう? わたしは、芥川竜之介の羅生門に国家が関わったようなものだとおもっています。人間の永遠のテーマに、たかが国家レベルの法律なんかで結論は出してほしくない、というのが、今の私の本音です。」

 「厚生省の推測では、100年後、今の日本人は半数になっているそうです。昭和時代に大人であった世代が生み出した世代は、未来に子孫を残さない。「消費者」として経済社会から認知されている故に、愛情も責任感も希薄な世代。イエ制度も崩壊した今、この世代に「情」を期待しても無理だと思います。行き着くところまでいくか、消費社会が崩壊しないと、真宗はその役割を果たす場さえ失ったままだと思います。」

 「この問題は本当に難しい問題だと思います。当事者にしか分からないところもあるでしょうし。しかし、私も一人の人間として、僧侶として生涯を通して常に考えていかなければならないことです。」

 「「是認されるべきか」と聞かれると答えにくいのですが、、、僕は煩悩の完全な否定はできないと思うのです。誰しも、長く健康で生きていたいという思いはあるし、それを一概に無限に是認という言葉で片づけれるのか疑問です。誰かが言ってたのですが、一休禅師も死ぬ間際にも、「私は死にたくない」といって死んだそうです。簡単に無限に是認と言えないと思います。親鸞は僕にとって、ある種それを容認しながらも、そうではないといってるようなとこが魅力的です。その完全容認の上の、部分否定がある所から他力となっていくのでしょうか。」

 「どんなに医学が発展しようとも、人間の体を単なるパ−ツとして扱うのは適当ではない。心と体は本来わけることのできないものです。現在の脳死移植はこの点が欠如しています。又、脳死の判定の基準が医者に委ねられており、この点でも手術を行いたいと思う欲望のみが優先し、手術が成功したときに得られる功名のために、ドナ−の人権が無視される危険があります。それに裕福な人たちや、社会的名声を得た人たちがこの恩恵を受けやすいのではないでしょうか。」

 「保留が多くてごめんなさい。自分の中ではっきり考えがまとまっていないのです。今の私自身のことならば、脳死の人からの臓器移植は反対、もらいたく無いし、残された親が苦しむのはいやなので、脳死の場合の臓器提供は拒否しています。しかし、もし私に子供がいたら、ほかの子供の死を願っても臓器がほしいと願うでしょう。また、子供を残して死ねないと思ったら、私自身も臓器移植を願うと思うのです。やはりその人の立場にならないとわからない。生たいという欲望は簡単に否定できないです。」

 「これは、本当に私中心の愚かな意見になってしまうのですが、このアンケートに答えさせていただいたときに、何を思って解答したかというと、自分だったらどうか、という点と、自分の子供だったらどうするだろうとか・・・。そんなことを考えながら解答していました。私自身の事なら、臓器移植は賛成だし、私もドナーになる意思は少しはあります。でも、自分の子供が、又は親が、と思うと、必ずしも臓器移植を応援することはできません。また、矛盾した意見にまりますが、自分の子供が、臓器移植を受けなければならなくなったとき、きっと私はそれをすると思います。そのことによって私の子供が助かるなら・・・。また、私の中にはこんな意見もあります。私の子供や、親がこういう事態になったとき、これはご縁やなと受け止めさせていただくこともできるかもしれないなと。支離滅裂な文章でごめんなさい。」

 「「生」に対する我々の欲求は、今後も押さえきることは出来ないと思います。振り返って自身に問うてみても、決して臓器移植を受ける方を非難することはできません。しかし、同じように、臓器提供・臓器移植を拒否する権利を抹消すべきではないと考えます。当然、拒否された方を非難することは許されない行為と考えます。私は現在、非常に逡巡していますが、さまざまな場所でもっと話し合う必要は感じます。」


以上



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