龍谷大学真宗学第54回大会
2000/11/14

真宗と「脳死」・臓器移植
――アンケート調査を分析して――


本稿は、2000年11月14日、『龍谷大学真宗学第54回大会』での 石田の発表レジュメをHTML化したものである。


大学院 D2 l99d001 石田智秀
mailto : *****@*****.ne.jp
URI : http://kyoto.cool.ne.jp/chishu/

はじめに

(1)謝辞

 アンケートにご協力いただいた一人一人の方々、本当にありがとうございました。


(2)宗教学会での発表との関わり

 石田は本年度の宗教学会(9/13〜15 於 駒沢大学。石田の発表は14日)で「「脳死」臓器移植と真宗」と題する発表を行った。その発表もアンケート調査の中間集計(〜9/5)をふまえてのものであったが、今回の発表内容は宗教学会の発表より若干前進したものとなっている。


(3)前提


(4)教理的研究との関係

 「脳死」臓器移植の問題に対しては、以前より、通仏教的な立場や真宗的な立場の研究者の方々によって様々な方法での接近が試みられている。しかしその多くは教典や教義など原理的な立場からの論考を仏教関係者や真宗関係者、一般社会の間に敷衍しようとするものであり、なおかつ同一の出発点から著しく異なった結論が導き出されている論考も少なくない。また、ある箇所での経論釈の解釈が一致したとしても、他の箇所を参照すれば別の箇所を無視せざるを得ないような状況も生じている(註1)
 それらの事実を踏まえると、現在「医療行為」として実際に行われている「脳死」臓器移植が孕んでいる問題に対する一定水準以上の「回答」にたどり着き、未だ結論を出せずに迷走を続けている現状(現在行われている「脳死」身体からの臓器移植は臓器移植法の成立・施行に伴うものではあるが、なし崩しでの実施を問題の解決と見做すことは不可能であるとわたしは考える)からの質問に宗教や仏教、本願寺派僧侶などが答えるためには、経論釈や教義・教理といった原理的なものを云々する必要性は認めるが、それだけでは状況を打開するに十分ではないのではないだろうか。


(5)アンケートの実施状況

 アンケートは、2000年6月28日から、「坊さんの小箱」(URI:http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara/)というホームページ(以下「HP」)にて、管理人の棚原正智氏と共同で実施している(「脳死」臓器移植アンケート(簡略版)・「脳死」臓器移植アンケート 詳細版・生命倫理アンケート。8月半ばに開設した石田のHP「個人的研究のページ」からも直接リンク)。また、アンケートは三者とも、現在も引き続き実施中である。


(6)実施方法


1.アンケート

(1)「アンケート」について

 アンケートは「対象者に何らかの回答をすることを半ば強制し、しかもあらかじめ設えた選択枝の中から回答を択一させ、争点となる視軸を規定し、そしてアンケートの結果が世論に影響を及ぼしていくという、いたって操作力に優れた一種の武器」(註2)であり、総理府や大新聞など公共性の高い機関の実施する調査にさえそのような事態が起こっていることを否定することは出来ない(註3)。アンケート調査には実施者の意図が必ず入り込むものであり、わたしが共同で実施しているアンケートもこの例外ではあり得ない。


(2)注意点

 上記のような限界があるため、記述的な側面を明らかにするという目的を掲げてはいても、この発表にもある程度は規範的な部分が入り込んでしまうことをお許し願いたい。
 また、この調査は、浄土真宗本願寺派教団当局や龍谷大学当局とは一切無関係に行っている調査である。よってこの結果を二者の総意的なものとして受け取ることは避けていただきたい。また上記で示したように、すべての浄土真宗本願寺派の僧侶に呼びかけて実施した調査ではなく、いわば有志参加のアンケート調査であることにも十分注意されたい。
 また、このアンケートの結果がアンケート対象者を含む母集団全体の共通理解を示しているかのように、あるいは、このアンケート調査によって母集団全体のコンセンサスが成ったかのように捉えるのは避けていただきたい。(もちろん、別紙資料に示された意見の一部を取り出して「真宗の僧侶は……のように言っている」とも言っていただきたくない。正しく「真宗の僧侶の一人は……」と言っていただきたい。)


(3)経緯

 アンケートの開始は、石田が棚原氏のHPを訪問したことがきっかけとなった。
 石田はもともと「「脳死」臓器移植に対し真宗はどのようなアプローチをすべきなのか」という研究をしていたが、友人から「坊さんの小箱(棚原氏のHP)に各教団・各研究者の「脳死」臓器移植への視点をまとめた文書がある」との紹介を受けて訪問したことが直接の契機となり、管理人の棚原氏とメールのやりとりが開始された。
 やりとりの中で「脳死」臓器移植について語り合うようになり、当初は二人の「共通見解」的な意見を出すべく努力したのだが、ある程度の一致点は見出せたものの、二人の意見が完全に合致することはなく、むしろ「二人の間でも共通見解は出ない」ということが共通見解となった。そこで「これは一人でも多くの方に聞いた方が良いのかも」という話になり、その時はごく自然な流れで「じゃあアンケート採ってみようか」という話になった。そして事態は、アンケート内容と文面の作成、入力フォーム化(HTML文書化)、公開、宣伝活動へ進むこととなった。
 以後、記述回答入力欄の拡大、デフォルトでのチェックボタンの変更(石田友人のチェック → すべて「保留」状態)、「送信」ボタンの拡大化といったマイナ・チェンジはあったものの、設問や選択肢は一切変更することなく現在も実施し続けている。
 以上のように、アンケートの出発点は個人的な興味の域を出るものではなかった。目的も「一人でも多くの方の意見を聞きたい」という素朴なものであったから、具体的な数字がどのようになるのかについて当初は何の期待もしていなかった(総理府や大新聞の調査結果と同様の結果になるものと考えていた)(註4)。が、豈にはからんや、一般的な調査結果とは全く異なる結果が出るに至った。
 もちろんこの調査には「1.」の(1)や(2)のような限界がある。しかし、私たちが当初から目的としていた「他の本願寺派僧侶の意見を聞く」ということには成功しているのではないかと考えている。
 また、HP上では中間集計を2回公開し、「詳細版」問4〜問8に関して寄せられた意見を承けての釈明文も掲載している(註5)。また、石田が宗教学会(2000/09/14)で発表したレジュメも公開している。


(4)内容

 アンケートの全質問・全回答は別紙資料のとおりである。対象の性別・年齢、選択回答数は帯グラフで、個別の記述回答は文字のままで示した。なお個人を特定できるような記述は極力伏せるとともに、誤字等には最小限の修正を施した。また、今回の発表では「簡略版」についての分析を行った。


(5)補足

 別紙資料を二次使用する際には、上記(1)と(2)とを十分に理解していただき、アンケート実施者名(石田智秀・棚原正智)・各HPのURI(坊さんの小箱 http://www3.justnet.ne.jp/~tanahara・個人的研究のページ http://kyoto.cool.ne.jp/chishu/)を明記すること、ならびに実施者への連絡を必須としていただきたい。なお本レジュメと別紙資料は上記両URIにて近日中に全面公開開始予定である。


2.分析

(1)「簡略版」問1・問2・問3のクロス集計

   問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
   問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。
   問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。


(@)クロス集計を行うことの意義

 宗教学会での発表にはクロス集計とその分析は存在しなかった。だが今回はクロス集計を行っている。それには大きく二つの理由がある。
 ひとつは宗教学会発表時には時間的な制約があったことと石田の能力が不足していたことによる(註6)
 いまひとつは、クロス集計を行うことの分析的意義による。この分析を行うことにより、一人一人の回答者の方が「脳死」臓器移植の問題をどのように把握しているのか、どのような見解を以てどのように対処しているのかの実態が、より鮮やかに浮かび上がるのではと考えられるからである。


(A)問1×問2 コンセンサス形成の不可能

   問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
       ×
   問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。

  問 1  
考える 考えない 保留
問2 容認する 12 7 8 27
容認しない 5 39 5 49
保留 3 10 9 22
  20 56 22 98

 問1で「脳死」を人間の死と考えると答えた方は20人いたが、うち、問2で「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が12人、容認しないと答えた方は5人であった(保留3人)。
 対し、問1で「脳死」を人間の死と考えないと答えた方は56人いたが、うち、「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が7人、容認しないと答えた方は39人であった(保留10人)。

 この集計結果からは、「脳死」が人間の死であると考えつつ臓器移植を容認しない、つまり臓器移植そのものを容認しないと考えられる方が5人いること、また、「脳死」は人間の死ではないと考えるが、その身体からの臓器(摘出 → )移植を容認する方が7人いるという事実が浮かび上がった。
 死体からの臓器移植を容認しない方と、生体からその生体が生き続けるために必要な臓器を摘出することを容認する方とが、一部ではあるが、同じ母集団の中に存在している。同じ本願寺派僧侶の中に鋭く対立する意見が少なからず存在している。
 以上から「本願寺派僧侶は「脳死」に関して……のように考えている」という全称文を導きだすことが困難であるという事実が明らかになるのではないだろうか。また同様に、本願寺派全体でのコンセンサスを模索しても「真宗では、人間を自己に執着する煩悩の者が仏の慈悲と知恵に出会い、廻心懺悔して真の人間になっていく、と教えられている。真宗の人間観に立てば、臓器提供は各自が縁の中で主体的に決断していくべきことなのです」(註7)というものしか得られず、一人一人の思考を捕縛しつくさないでいるためには「コンセンサスの形成は不可能である」というコンセンサスしか得られないという結論も導かれるのではないだろうか。


(B)問3×問1 ならびに 問3×問2 知識と行動

   問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
       ×
   問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。

  問 1  
考える 考えない 保留
問3 知っている 15 38 12 65
知らない 2 9 5 16
保留 3 9 5 17
  20 56 22 98


   問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。
       ×
   問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。

  問 2  
容認する 容認しない 保留
問3 知っている 18 35 12 65
知らない 4 8 4 16
保留 5 6 6 17
  27 49 22 98

 問3で「脳死」がどういうものか正確に知っていると答えた方は65人いたが、うち、問1で「脳死」を人間の死と考えると答えた方が15人、考えないと答えた方が38人であった(保留12人)。また、問2で「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が18人、容認しないと答えた方が35人であった(保留12人)。
 対し、問3で「脳死」がどういうものか正確に知らないと答えた方は16人いたが、うち、問1で「脳死」を人間の死と考えると答えた方が2人、考えないと答えた方は9人であった(保留5人)。また、問2で「脳死」身体からの臓器移植を容認すると答えた方が4人、容認しないと答えた方は8人であった(保留4人)。

 この集計結果からは、「脳死」がどういうものかを正確に知らぬままで「脳死」を人の死であるか否かの意見を表明する方(2+9人)や、「脳死」身体からの臓器移植を容認したり否定したりする方(4+8人)が本願寺派僧侶の一部に存在するという事実が浮かび上がる。
 もちろん正確に知らないものについて先入観を持つことはあるし、正確・十分な知識を持たないものに対して何らかの見解を表明することを求められることもある(このアンケート自体がそういうものである)。しかし、漠然としたイメージや先入観と事実とが異なるものである場合は決して少なくないのであるし、正確な知識を持たないままで問題を云々することは、ある種の無責任状態でもあるのではないだろうか。
 そのような事態は、自覚したのであれば、一人一人で早急に改善すべきではないかと思われる。
 また、正確に知っていると答えた方65人のうち、半数を超える35人の方が「脳死」を人間の死とは考えないでいるという事実が判明したことも、今回のこの調査の特徴であると言える。


(2)「簡略版」問8・問9のクロス集計(別紙資料P3)

   問8.宗門は「脳死」や臓器移植の問題について公式見解を出すべきだと思いますか。
       ×
   問9.本願寺当局が「脳死」や臓器移植の問題に関して公式見解を出した場合、
      真宗の僧侶はそれに従うべきだと思いますか。

 
  問 8  
出すべき 出さない方が 保留
問9 従うべき 6 4 2 12
従う必要はない 22 35 7 64
保留 6 4 12 22
  34 43 21 98

 問8で「出すべき」を選択し、問9で「従うべき」を選択した方は6人であった。そのうち記述回答を示した方は3人であった。
 3人のうちわけは、当局が出した公式見解をそのまま無条件で受容せんとする勢いの意見を示された方が一人、「皆で一人一人考えよう」という公式見解を出すべきであり、それに従うべきだとする意見を示された方が一人、上意下達式の教団構造を問わないままで出される公式見解は本願寺派教団へ僧侶を帰属させるためのものに過ぎないが、しかし、公式見解を出さずに済ませられないほどに「脳死」臓器移植の問題は切迫しているのではないかという苦悩に満ちた意見を示された方が一人であった。また、公式見解は出すべきだが従う必要はないと答えられた方は22人であった。(保留6人)。
 出すべきではないが従うべきと答えられた方は4人、出さない方が良いし従う必要もないと答えられた方は35人であった(保留4人)。
 母集団の一部である回答者の傾向としては、「保留」を勘案しても、当局は公式見解を出すべきでないと考える方が多く、出しても一人一人の僧侶がそれに従わなくてはならないわけではないとする方が圧倒的という結果となった。つまりこの問題は上意下達で簡単に済ませられる問題ではなく、一人一人の僧侶が自分で考えた上で対処すべき問題であるという意見の方が多かった、ということがわかる。(註8)


(3)聖教と「脳死」臓器移植(別紙資料P4・P5)

   問.お聖教の具体的な記述で「脳死」臓器移植を考える参考になさっているものがありましたら、具体的にお知らせください。


 1. 総数   24
 2-1. 警句・述懐的 非具体  6
   具体的 17
    (うち詳細)  11
 2-2-1. 通仏教的   5
 2-2-2. 真宗聖教   15
    (複数回答) 
 2-2-2-1. 「某閉眼…」以外   10
 2-2-2-2. 「某閉眼…」   5
 2-2-2-2-1.   (うち肯定)  2
 2-2-2-2-2.   (うち否定)  3

 この問いに具体的な記述を以て答えた方は24人、更に具体的な箇所を引用された方は17人であった。
 具体的な箇所として最も多くの方の挙げられた箇所は覚如『改邪鈔』の「某閉眼せば賀茂河に入れて魚に与ふべし」であったが、ここを引いた5人のうち、問2で「脳死」身体からの臓器移植を「容認する」を選択した方が2人、「容認しない」を選択した方は3人であった。やはり経論釈を拠り処にして態度表明を考えるのには限界があるのではないだろうか。また、「はじめに」(4)的な、「聖教をたてに自論を押し付けるべきでない」といった警句的な意見を表明される方も少なくなかった。(註9)


(4)その他、記述回答の分析(別紙資料P6〜P12)


     問.ご意見・ご感想をお書きください。

 意見は非常に多岐に亘っている。記述回答に見られた見解を数で示す(複数に言及した意見あり)。

例によって幅取りです コンセンサスに言及する意見 ************** (14)
生命・生死・科学・人間に関する意見 *************
「布施行」か否かに言及する意見 *********
そういう状況にならないとわからない *******
欲望や煩悩に言及する意見 *******
とまどいを示す意見 *****
死の人称問題を見る意見 ****
現状に対する疑義を表明する意見 ***
救いに関する意見 ***
差別的であるとする意見 **
実際の体験をもとにした意見 **
制度化がもたらすものを危惧する意見 *
往生を考察する意見 *
人間の能力に関する意見 *
議論の必要性に言及する意見 *
その他の意見 *******

 うち、真宗独自の教義や仏教的な見地を根拠にした場所や、その周辺から語られた意見は以下である。

 下線を付した意見にそれが顕著であるように、「このアンケートに回答した本願寺派僧侶の方は…」という限定付きではあるものの、現代を生きる本願寺派僧侶が、科学など、現代を形作るものの影響から皆無では生きられない状況になっているという事実が浮き彫りになったと言えるのではないだろうか。(註10)


3.小結

 「はじめに(3)前提」で宣言した、本発表が「いま現在の本願寺派僧侶は「脳死」臓器移植とどのように関係しているのか」という記述的な側面の一部をここで示す。
 浄土真宗本願寺派は永遠不変・普遍の真実を教義にいただいている。教義としての「真宗」は何時如何なる場所に於いても「超歴史的な真実」であり、真実の救いは歴史の影響を受けるものではあり得ず、歴史から超越している。だが教祖親鸞は歴史的な存在であったし、教団も歴史の中に存在している。また、教団の構成員たる僧侶や門徒も歴史的な存在である。つまり、現実の真宗教団は現代という時代から遊離した状態で存在しているわけではない。また、信仰的実存の決断は「永遠の今」に於いて行われるが、その決断は「今この瞬間」を生きるからこそ実存的な「わたし」によって行われるものである。つまり、僧侶や門徒が獲得する「真宗」の信心の内容は「超歴史的」性格を持つが、信心という信仰を行う主体としての「わたし」は、実は歴史的な性格を持たずにはいられない存在である。
 現代という現実の内部に存在する僧侶や門徒がそのように歴史的な存在である以上、それらは現代という時代の影響を受けずにはいられないし、実際に僧侶は現代の影響下にあり、科学や技術という現代的なものの影響を色濃く受けているという事実が今回のアンケート調査の結果によっても改めて示されることとなった。恐らく、現代に生きている以上、この例外はあり得ないのではないだろうか。
 本願寺派僧侶は本願寺派僧侶としての価値観を持ち、同時に個人的で実存的な存在としての価値観を持っている。よって、僧侶はそれらの価値観と著しく異なる科学や技術などを全面的に「是」として受容する態度を取ることは出来ない。だが、それらの影響から完全に離脱した状況ではあり得ない状態で「脳死」臓器移植と関係していることも確実である。
 「このアンケートに回答した本願寺派僧侶の方は…」という限定付きではあるものの、現代という現実を今まさに生きている本願寺派僧侶が、現代の困難な現実と向かい合おうと努力し、向かい合っているという事実が、今回の調査で明らかとなったと言えるのではないだろうか。

<本編了>



註1

 通仏教的には「眼施」やジャータカの「捨身飼虎」、真宗では覚如『改邪鈔』の「某閉眼せば賀茂河に入れて魚に与ふべし」の解釈においてそれが顕著である。

 仏教的見地から

  容認する例:
  容認しない例:

真宗的見地から

  容認する一例:
   大峯顯「『いのち』の質をどう考えるか―仏教の立場から―」『脳死・尊厳死』(『仏教』別冊4)所収 法蔵館1990

  容認しない一例:
   小川一乗『仏教からの脳死・臓器移植批判』法蔵館1995

 また、「暖(煖)」を重視すれば「脳死」臓器移植は容認不可となるが、「眼施」や『改邪鈔』など他の箇所を重視して「脳死」臓器移植を容認する論者は「暖」に言及しない(しても解釈を異にする)。


註2

 小松美彦『死は共鳴する 脳死・臓器移植の深みへ』勁草書房 1996(P146)

註3

 総理府が実施した「脳死」臓器移植などに関するアンケート調査の結果はインターネット上で見ることができる。

  第一回(1998) http://www.sorifu.go.jp/survey/zouki-isyoku.html
  第二回(2000) http://www.sorifu.go.jp/survey/zouki/index.html
 朝日新聞実施の世論調査については註4を参照のこと。


註4

 朝日新聞の世論調査:「脳死」を人間の死と 認める、認めない

不認
53%38%1996年 9月(臓器移植法制定前)
53%38%1998年10月(臓器移植法制定一年後)
51%37%1999年 3月(第一例目の「脳死」臓器移植実施直後)
52%30%1999年 5月(第二例目の「脳死」臓器移植実施直後)

 なお、朝日新聞の世論調査はこの後「本人の意思表示がない場合でも家族の承諾があれば「脳死」を判定し臓器摘出しても良いとする考え方に賛成ですか反対ですか」という内容のものに変わった(1999年10月)。設問者の立場が「脳死」臓器移植を「是」とする立場に変わったと考えられなくもない。


註5

 「詳細版」問4から問8までの設問は、前半にあまり知られていない事実を置き、後半には畳みかけるような問いを置いており、誘導尋問的に「受けない方がよい」を選択させることを目的としているように読めてしまうものである。これに拒否反応を示す回答者は少なくなかった。記述回答 意見・感想(別ウインドウ)  「反省」(別ウインドウ)


前半:


後半:「それでも移植を受けられる人は移植を受けるべきでしょうか。」

 設問作成者が意図したのは、これらの設問の選択肢を選ぶことによって回答者の「脳死」臓器移植に対する賛成・反対の立場がより判然と浮かび上がり、回答者は自らの立場をより明確に自覚していただけるのではないか、そしてその自覚に基づき、最後の「ご意見、ご感想をお書きください」という記述欄に自分の意見をより詳細に書いていただけるのではないか、ということであった。
 しかし実際には作成者のその意図は甘すぎたようである。なぜなら、反対の立場に立つ方の大部分はもちろん、態度を保留している方や賛成の立場に立つ方の中にも、このアンケートそのものへの不信感をあらわにし、そのため「保留」を選択、記述回答にも詳細な意見を表明していただけないケースが現れてしまったように思われるからである。アンケート調査はもともと武器であるが、しかしそれでも、中立的な設問と選択肢を作るということに、わたしはもっともっともっと慎重になるべきであった。
 しかし、にも拘わらず、そのような回答者からも非常に真摯な意見は少なからず寄せられている。


註6

 Microsoft Excel の使用法を把握していなかった。コピ&ペーストすれば済むだけの集計表を直接作ることができないため現在の把握も十分とは言えないが、しかし必要な数字を出す方法までは把握できた。


註7

 京都新聞2000/11/04 第4面特集記事

  本見出:15歳未満でも提供可能 臓器移植法見直し
  大見出:慎重論多い各宗教団体
  中見出:「本人の承諾なし」に懸念


註8

 これは石田の私見であるが、ひとたび公式見解が出されれば、それがどのような内容のものであれ、一人一人の僧侶は何らかのかたちでそれに縛られる結果となるのではないだろうか。また公式見解と一致しない意見は当局という主流に反するものである以上、多かれ少なかれどこかに何らかの形で「異端」的な色彩を帯びざるを得ず、それによって、明確な公式見解が出されていない現在のように自由闊達な意見の表明は不可能となるのではないだろうか。
 石田は、公式見解は「単に参照すべき見解」としては存在し得ず、僧侶の一人一人に何らかの影響を与えずにはおかないと考える。だから、当局はやはり公式見解を出さずにいるべきではないかと考える。
 なお、石田は『ともに歩む』42号「脳死と臓器移植」(浄土真宗本願寺派・基幹運動本部事務局編集、本願寺出版社発行)1999は、公式見解とは言えないと考えている。


註9

 石田は、『改邪鈔』の当該箇所は、覚如が葬儀の心得を述べるにあたって引用した親鸞の言葉であるから、そこには当然の事ながら覚如の意図が入り込んでいると考える。また、親鸞がこの言葉をどのような場面、どのような分脈で語ったのかは、覚如のこの引用を見る限りでは全く不明瞭であると言わざるを得ない。よって、そもそも、賛成であれ反対であれ、「脳死」や臓器移植を論じる場面で『改邪鈔』の当該箇所を引くのには無理があるのではないかと考える。
 「脳死」臓器移植に対する賛同や反対の意思表明をされている方が経論釈を引用する場合には、著しい特徴があると考えられる。それは、自説を裏付けるための引用、という特徴である。
 たとえば石田は論理的な理由から「脳死」臓器移植を容認していないつもりであるが、その基底には「脳死」臓器移植に対する素朴な違和感があり、それ故、私の論理が崩壊しそうになるたびに今までとは異なる論理を見つけようとする。素朴な感情を裏支えするために論理を持ち出すのである。これはこの問題に対して賛成・反対の主張を明確に打ち出している論者にはある程度以上に共通する傾向だと考えられるし、これは経論釈を引いて自説を補完するということにもあてはまると考えられる。
 このようにして経論釈が引用される場合、経論釈は「拠り処」としてではなく、「利用すべきもの」として認識されていると考えられる。


註10

 なぜなら、下線部第一文の読点以前「私達は死んだらお浄土で仏にならせていただくのですから」は真宗的な見地から書かれているが、読点以降と第二文「今の身体は単なる入れ物でしかないと考えています。ですので、身体が機能していたとしても、脳が死んでいるということは、すでに浄土に生まれていると考えてよいのではないでしょうか」はどちらかと言うと科学的な価値観から書かれているからである。心身二元論も、人間のアイデンティティの座が脳であるとする見解も、ともに科学的な見解である。
 また、何を以て脳の機能停止を確定づけるのか、何を以て脳の機能停止を死と呼びうるのか、などの論証も要請されるが、それらの論証も、同様に、真宗の範疇から著しく踏み出す議論になるであろう。

<註了>