「脳死」臓器移植アンケート(簡略版)

データ&記述回答
2000年12月1日現在 回答総数 104 (単位:人)【%】


このページの中でリンクしています。(下線部)


 グラフ・表

帯グラフ
 (男女・年齢  問1〜問10)

クロス集計表 (問1・問2・問3  問8・問9)


 記述回答 お願い

◇ お聖教の具体的な記述で
「脳死」臓器移植を考える参考になさっているものがありましたら、
具体的にお知らせください。


◇ ご意見・ご感想をお書きください。



 

回答者のうちわけ

【下段は%】


性別
男性 92 女性 11 不明 1
88(%) 11 1



年齢
10代 1 20代 31 30代 35 40代 23 50代 10 60代 2 70代〜 1 不明 1
1 30 34(%) 22 10 2 1 1




各 選択回答

【下段は%】

問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
人の死と考える 20 人の死とは考えない 61 保留する 23
19 59(%) 22



問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。
容認する 29 容認しない 51 保留する 24
28 49(%) 23



問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。
知っている 68 知らない 17 保留する 19
65(%) 16 18
(% の小数点以下は四捨五入しました。)



問4.「脳死」を受けいれないのは非科学的な考え方ですか。
非科学的である 7 そうとは言えない 88 保留する 9
7 85(%) 9
(% の小数点以下は四捨五入しました。)



問5.臓器提供は「布施行」だと思いますか。
思う 11 思わない 78 保留する 15
11 75(%) 14



問6.ご家族やご門徒さまと「脳死」や臓器移植について話したことがありますか。
ある 86 ない 14 保留する 4
83(%) 14 4



問7.あなたはドナー(臓器提供者)やレシピエント(臓器提供を受ける側)になっても良いですか。
よい 26 ならない 52 保留する 26
25 50(%) 25



問8.宗門は「脳死」や臓器移植の問題について公式見解を出すべきだと思いますか。
出すべきだと思う 37 出さない方が良い 43 保留する 24
36 41(%) 23



問9.本願寺当局が「脳死」や臓器移植の問題に関して公式見解を出した場合、真宗の僧侶はそれに従うべきだと思いますか。
従うべきだと思う 12 従う必要はない 67 保留する 25
12 64(%) 24



問10.他人の死を待望し、その肉体の一部を自分の体に生着させる臓器移植は、カニバリズム(人肉食)と同等だと思いますか。
同等である 15 そうではない 67 保留する 22
14 64(%) 21
(% の小数点以下は四捨五入しました。)

以上、選択式回答10問





 

クロス集計


(1)「簡略版」問1・問2・問3のクロス集計

   問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
       ×
   問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。

  問 1  
考える 考えない 保留
問2 容認する 12 8 9 29
容認しない 5 41 5 51
保留 3 12 9 24
  20 61 23 104


   問1.「脳死」を人間の死と考えますか。
       ×
   問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。

  問 1  
考える 考えない 保留
問3 知っている 15 41 12 68
知らない 2 10 5 17
保留 3 10 6 19
  20 61 23 104


   問2.「脳死」した身体からの臓器移植を容認しますか、容認しませんか。
       ×
   問3.「脳死」がどういうものか正確に知っていますか。

  問 2  
容認する 容認しない 保留
問3 知っている 19 37 12 68
知らない 4 8 5 17
保留 6 6 7 19
  29 51 24 104




(2)「簡略版」問8・問9のクロス集計

   問8.宗門は「脳死」や臓器移植の問題について公式見解を出すべきだと思いますか。
       ×
   問9.本願寺当局が「脳死」や臓器移植の問題に関して公式見解を出した場合、
      真宗の僧侶はそれに従うべきだと思いますか。

 
  問 8  
出すべき 出さない方が 保留
問9 従うべき 6 4 2 12
従う必要はない 24 35 8 67
保留 7 4 14 25
  37 43 24 104




 

記述回答

お願い

 このようなデータをインターネット上で公開することに反対の意見をお持ちの方もいらっしゃるのではないかとお察しいたしますが、真宗の議論の場がますます興隆し、それによって真宗がますます興隆するためには、このような公開は必要なことなのではないかと思っております。ぜひとも公開にご理解をいただきますよう、お願い申し上げます。また、ご意見などはメールか掲示板にて承りますので、よろしくお願いいたします。
 なお、記述回答でお寄せいただいた意見がここに公開されている方で、公開を望まれない方は、その旨をメールにてお知らせいただきますれば非公開とさせていただきます。よろしくお願いいたします。

棚原正智 *****@*****.ne.jp
石田智秀 *****@*****.ne.jp
 

◇問.お聖教の具体的な記述で「脳死」臓器移植を考える参考になさっているものがありましたら、具体的にお知らせください。(24)


1.総数 24
 2-1. 警句・述懐的 非具体  6
   具体的 17
    (うち詳細)  11
 2-2-1. 通仏教的   5
 2-2-2. 真宗聖教   15
    (複数回答) 
 2-2-2-1. 「某閉眼…」以外   10
 2-2-2-2. 「某閉眼…」   5
 2-2-2-2-1.   (うち肯定)  2
 2-2-2-2-2.   (うち否定)  3


2-1. 警句・述懐的(非具体) 6

 「お聖教の中から都合の良い部分だけ切り取って使うのは、無意味だと思います。」

 「分かりません。勉強不足です。」

 「わかりません。」

 「特にございません」

 「特にない。(というより、聖教をたてに自論を押し付けるべきでない)」

 「お聖教それ自体すでに真実の教えを導いてくれるもの、真実を受け入れるかどうかです。」


2-2-1. 通仏教的 5

 「中国仏教で、私の知る範囲ですが、荊渓大師湛然(711−782)著・『止観輔行傳弘決』一○卷の中・第七之三(大正藏四六巻・374p・a)に、「一期を寿と為し、連持するを命という。一期に連持して、息風を断ぜず。故に、出入の息を名ずけて寿命と爲す」とあります。そこで私は、完全に最期の息を絶たれたところを、昔から断末摩とも云ってきました。そして弥陀如来は法藏菩薩として五劫思惟されたというが、そうした息をしている寿命にはたらいて、覚りの全てを南无阿彌陀佛の法として成就して廻向し、一息一息の命に活動して呉れてあるものと頂いています。」(お聖教の記述が通仏教的、ということです。石田註)

 「ジャータカの捨身や、賀茂川の魚に与ふべし・・等の文をこういうケースでよく引用されています。しかし、その文意を問うなら、臓器移植を肯定するものとして見るのはあまりにも浅はかな引用ではないでしょうか。」(冒頭が通仏教的、ということです。石田註)

 「仏教は無我にて候」

 「人身受けがたし・・・遠く宿縁を慶べ,自然法爾を考える」(冒頭が通仏教的、ということです。石田註)

 「一切衆生悉有仏性」


2-2-2-1.真宗聖教「某」以外 9

 「『大経』第十八願成就文」

 「歎異抄」

 「人身受けがたし・・・遠く宿縁を慶べ,自然法爾を考える」

 「大経 下巻 釈迦指勧 三毒段」

 「こんなことは聖教から直接答えを出すのは卑怯でしょう。あえていえば「面々のはからいなり(歎異抄)」」

 「第十八願」

 「歎異抄第十三条 仏説観無量寿経」

 「歎異抄第九条」

 「歎異抄第四条」

 「小慈小悲もなきみにて」


2-2-2-2-1.「某」うち肯定 2

 「『改邪鈔』某閉眼せば賀茂河に入れて魚に与ふべし」

 「『某(親鸞)閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし』「改邪鈔(十六章)」」


2-2-2-2-2.「某」うち否定 3

 「「それがし、閉眼せば」は、脳死からの臓器移植を言ったものではないという形で参考にしている。「世をいとうしるし」」

 「ジャータカの捨身や、賀茂川の魚に与ふべし・・等の文をこういうケースでよく引用されています。しかし、その文意を問うなら、臓器移植を肯定するものとして見るのはあまりにも浅はかな引用ではないでしょうか。」

 「「親鸞が死んだら、鴨川の魚に与ふべし」、という文句→「脳死」賛成の人は、これを根拠として、「布施行」としての「脳死」を親鸞さんも説いておるではないか、ということを主張しているわけですね…」



 

◇問.ご意見・ご感想をお書きください。

「自分の子に移植が必要な時など、他人の脳死を望むようになるであろう。このような人間をハイエナのような気持ちにさせること自体が制度化されるべきではない。世界的にみると、ごく一部の富める者しか恩恵のない制度であり、差別の現われでもあると思う。これでは医療とは言えない。人間に価値のあるもの、無い人という区分が生じ、差別につながると思う。」

 「現在の心境をアンケートにそのまま書かせていただきました。しかしながら将来にわたって今の考えのままとも言えない現状です。大変難解な問題です。今後とも真剣に考えさせていただきたいと思います。」

 「お聖教の具体的な記述についてはすぐに出てこないのですが、脳死の判定基準の問題、生死の問題についてみんなで考えなくてはならないのではないでしょうか? その以前に、私は現在の社会は「生きている人の権利」は強く主張しているのですが、「死んだ人の権利」についてどのくらいの人が問題意識があるのか知りたいです。どうも、最近起きている事件全体に「死んだらおしまい」という見解で起きている事件が多いのではないでしょうか? 皆さんは、どのようにお考えですか?」

 「人の命には、どうしようもできない定められたものがあるのではないかと思います。それに逆らうようなことが必要なのか、疑問に思います。また、最近聞いた話ですが、臓器を取り出すときは、やはり麻酔をかけるようですね。本当なんですか?」

 「国民の個々に至るまで「脳死」「臓器移植」問題に関する知識が浸透し、個人がはっきりと自分の意志を表明できるようになるのが理想的です。YES か NO かどちらか一方だけが正しい答えだとは思いません。宗派が統一見解を出したりしても、一種の締め付けのように感じられるだけでしょう。 この問題は仏教徒だけのものではないし、他宗教の人や無宗教の人にとっても、自分自身の問題だと思います。」

 「私自身が、あくまで欲望を追求する生き方をすることが、臓器移植という現実を生み出しているのではないか。臓器移植を認めてしまうと、これから先の将来、臓器移植用のクローン人間が造られるたり、自販機で臓器が売られる時代を予感させます。臓器移植に絞って考えると、つい感情が入り見えなくなってしまうが、これを認めると、この先どうなるのかを考えると明らかにまずいことになりそうです。私は、臓器移植を認める方向は間違っていると思う。いや既に、臓器移植をはっきり否定できなくなっている今現在の方向性が既にあやしいと考えてしまう。」

 「真宗教団としては、このことに一定の答えは出す必要はないと思考します。それは、こうした問題は一人一人の自主的研鑚と考え方が有り、それをお互いが認め合うのが、ここを生きる念佛者の素晴らしいところと思いますから。以上 合掌 称名」

 「浄土真宗が生命観について問われているのか、その科学観についてとわれているのか明確にすべきではないでしょうか。宗教と科学がきり結ぶべき危うい関係こそがここでは問題なのですから。オウムがわれわれに問うのはそういうことではないでしょうか。」

 「私自身は、脳死を人の死だと考えますし、ドナーカード(全ての臓器提供に同意します)も所持しています。しかし、人の死というのは、柳田邦男さんが「犠牲」という本の中でおっしゃっているように、家族がある限り「一人称の死」ではなく、「二人称の死」であるというのも理解ができます。私事ですが、現在身内に脳腫瘍で後数週間の命の者がおります。先日、主治医と人工呼吸器をつけるかつけないかという最終判断の話し合いがもたれたのですが、私ども(当事者の連れ合いも含む)は自然死を望みました。しかし、本人の両親は、かたくなにそれを拒絶しました。私たち真宗の僧侶は、「お浄土があるから」とか「仏さんになるのだから」と言いながら、人の死に対して意外と冷たく見えるのかなと気付かされました。親にしてみれば、わが子の命はたとえ人工呼吸器を付けていたとしても、心臓が脈を打ち、触れば暖かければ、脳死状態であったとしてもそれを「人の死」として受容できないのが通常の感性というものなのでしょう。自分自身が現実として身内の死というものに直面して、柳田さんの言葉が強烈な現実感を持って胸に響いてきたのです。この問題は、まだまだ結論は出ないと思います。そう簡単に答」(以下、入力欄の関係で欠。以後入力欄は拡大。石田註)

 「臓器に限らず、眼とか皮膚、血管等日常的に移植が行われています。教団として、反対、賛成の統一見解は出せない環境下にあると思います。貴方の喜びは、私の喜びです。貴方の悲しみは、私の悲しみです。の方式で考えればよいのではないでしょうか。私はそう考えています。究極のお布施と思います。」

 「個体死の問題も大切だと思いますが、仏教では「死」という概念をはじめとしていろいろ事象を捉える一つの観点があると思います。自分の身に引き寄せて、他人の死、自分の死とは何かを考えると、個体死の判定である脳死だけで死と規定してよいものか疑問に思っています。」

 「非常に重い質問であり、いろいろ考えさせられる事が多々ある。布施ということに就いては、原始経典に飢えた虎に自分の躰 を与えたということが載っているが、「三輪清浄」という事を考えた場合、施物、施者、受者の清浄であることが条件である。この場合ドナーが清浄の気持ちを持って提供された場合でも、レシビエントが単なる自我延命のために受け、又医者が役に立たないものから役に立つものに移すのは当り前という観念で、手術した場合には大きな問題がある。人間の「命」というものは、その存在そのものにおおくの意味があるのであり、それを有益性のみで処理するということは、畜生に堕する事になりはしないか。阿弥陀様から戴いている、かけがえのない大切な命を単に「役に立つ、役に立たない」のみで処理してよいのか本当に難しい問題である。人間として侵すべからざる領域にある問題ではないかと思うのである。この問題は単なる個人の問題ではなく、家族が又社会が「自分自身の命の問題」として徹底的に議論を重ね、コンセンサスを得て必ず終えなければならない命の問題として考える必要があるのではないか。その話を通して、昨今命をモノとして扱っている少年達に命の大切さに目覚めさせる警鐘になりはしないかと思うのである。」

 「私の個人的な考えですが、脳死を個体死とすべきか、脳死の判定がどうあるべきか。また、法律的にどうすべきかについて、仏教(真宗)の見解を引き出すのは、一種の味わいの部分に入ってしまうと思います。なぜなら、もし聖教にその根拠を求めても、解釈をするものの立脚点の違いでしかなく基本的に、近代から現代における医学の展開の中での課題でしかないのですでは、仏教(真宗)は、どうあるべきかについて、脳死の是非にとらわれ議論することに流されるのではなく、当面の癒しの立場に立つのではなく、どちらの立場においても苦悩を持つ私たちの現実的救いを考えるべきかと思います。わたしは、身体は、如来様からの借り物であって、いかなる死に方であろうと、そこには私の所有物はなく、生かしていただけるものがあれば、生かしていただければ幸と思います。また、そこに、布施行だからとの偽善的な意味付けも不要です。脳死の是非は、社会的合意によるものと考えます。その上にたって、法制化すべきだと思います。ただし、まだまだ議論が不十分だとは感じます。また、海外では、脳死による臓器移植の報道がほとんどクローズアップされないのに、日本においては、異常な報道のされ方をします。このことが一時的な話題にならないといいですが、興味本位の報道も多いことに危惧を感じます。みんなで、観念的でなく、具体的に議論してみたいですね。」

 「脳死に関しては、世間一般のことと考えるのと、自分自身あるいは、身の回りの人のこととして考えるのでは、少し違うのではないだろうか。それぞれ、自分の考えでもって臓器提供を承諾、拒否をされているのであろう。それを宗教的に教義的にひとつの考えでくくれるのか疑問です。私が死んだ場合、不要になった臓器をほしいといわれればさしあげてもかまわないであろう。しかし、私の子供の臓器をほしいといわれたとき、はたして承諾できるのか、わからない。また、私が臓器移植をすれば助かるといわれたときには、ことわるであろう。そして私の子供の場合もおそらく移植は望まないであろうが、自信はない。」

 「宗派が統一の見解を出すのは、社会的には必要なのかもしれません。特に海外布教地では「YES」か「NO」かのいずれかが求められています。ただし国内は宗学的にも政治的にも沢山の意見に分かれていることが予想されるので意識を統一するのは非常に困難ではないかと考えます。もし統一見解を出されるなら、それがどれだけご開山の考えに近いか(誰がそれを判断するのでしょうか?)で各僧侶への説得力が違うでしょう。いずれにせよ今のままでは貴方が言われるように各自判断せよ。ということにこれからもなるでしょう。あえて統一するなら、ご門主様が「これからの浄土真宗はこうありましょう。」といわれることが、あれこれ理屈をこねて決めるよりを決まりやすいし、全部とはいかないまでも相当数の僧侶は納得するのではないかと思います。私は在籍していた真宗学ゼミの先生が「NO」と言われていましたし、私自身も意思表示カードに「NO」と明記して持ち歩いています。しかし、私的なことですが父親が腎不全で移殖の対象となっていて少々複雑な気持ちです。真宗学をしているものがこういうのもおかしいですが、真宗学では解決できないのでは? とも思います。言葉では言い表せない次元でのものではないかとも。ご開山がここにこう書かれてあるからとか、ではなくもしおられたらこう言われただろうという次元かな? とも思います。それだけに回答が見つからないのでしょう。」

 「健康でいたい。生き続けたい。生かし続けたい。人間の果てしない欲望に、何処まで答えてゆくのか。多分限がなく続くのでしょう。今日、常的に行われている輸血と、臓器移植は違っているようで、同じ意味合いがあるのではないでしょうか。是非を問うことよりも、この現実に生きる人々の心の救済を考えることが、必要と思います。」

 「臓器移植という事を問うなら生体移植も含め移植後の問題まで含めるべきと思います。あくまでも「脳死」にこだわるなら移植の問題というより、鮮度が落ちない間にどこまで早く分解できるかの問題でしか無いような気が致します。医療現場は、若い活性化している新鮮な臓器を欲しています。「脳死」を人間の死と認めないことを愚かなことだという説もありますが、脳死後にわずか待てば心臓死へつながる事、それは人の死としてごく普通の事だということを知らず、心臓死を待てないのは、世論に流されやすい心理を悪用したさらに非科学的な事だと思います。」

 「以後の凡夫の議論を認めないような結論が聖教から引き出されるのは危険です。なんで私の命のありようのことを、如来でもない宗門が決めてくださるのでしょう。大きなお世話です。仏教の視点からは世間とは異なったこういう見方もできる、という提案は多いにいいことだと思います。しかし、それをさらに踏み越え、当人のその時の意志・判断を置き去りにしたところで「こうすべき」と決定されるのは驕慢以外のものではないと思います。」

 「脳死は予測死・測定死であり部分死と考える。したがって死と見なされる全体死とは考えられない。現在脳死からの移植治療が為されている以上、仕方なし、否定は脳死移植治療者の生存を否定してしまう。現在の状況では提供者より受領者の立場が優先されておるように思える。提供者の思いも純粋に布施行だけとも思えない。レシピエントとその関係者が提供を受けることによってドナーになったならば、それは布施行になるかな。唯小生も心臓死後の角膜・腎臓のドナーカードは所持している。移植自体は否定しない。脳死からのドナー・レシピエントはごめんである。医学界が脳死移植を推進するならば、医学界の賛同者は全てドナーになることを公表すべきである。脳死医療従事者がドナーカートを持っているのなら納得するが。脳死移植医療は非常にデリケートな問題です。脳死移植以外に治療方法の無い病気の場合、脳死移植治療と言う方法が存在する限りそこには、光明と我欲が生まれます。お釈迦様ならどうおっしゃられるでしょうか。案外自然に任せよと言われるのでは。移植され命頂くも縁ならば、待ちくたびれ命つきるも縁、所詮この世に平等なし、平等を求めるところに不平等が生まれる。生まれ方も千差万別なれば死も又色々。死ぬまであがき苦しみ悩みそれが人間でしょう。縁をいかに自分のものとし精一杯生き抜くが人生か。」(メールで回答を寄せていただいた関係で散在していたほぼ全ての記述回答を集めました。石田註)

 「初めまして。アンケートに回答してみました。難しい問題なので、「私は」という視点でしか語れません(T_T)。臓器移植という選択は残してもいいと思います。私はいりませんが。(問8で「出すべきだ」を選択したが:石田註)但し、科学が欲望を増大しているとことを危惧するという形で。臓器移植という選択は個人の問題で、それを駄目だとかいいとか頭ごなしにいうものではないと思います。(問9で「従うべきだと思う」を選択したが:石田註)但し上のような形であれば。」(メールで回答を寄せていただいた関係で散在していたほぼ全ての記述回答を集めました。石田註)

 「浄土真宗の役割は、命を量ることではなく、命の尊さを喜ぶところにあると思います。つまり、生きているか死んでいるかを判断したり、人間はどうなったら人間でなくなるかを決めたり、どういう人間は殺しても罪にならないかを考えたりすることは、専門外じゃないでしょうか? 宗派の見解で、人の生き死にを決めるようなことは、してはならないと思います。」

 「ドナーにはなってもよいがレシピエントにはなりたくない」

 「仏教は我の否定により成立する。我がいのち、我が臓器の思いが我執むきだしではないか。布施の考えも、そんな完全な布施行が凡夫たる我々にできうるだろうか。自己否定の論理が脳死推進論者から見えないのも無気味である。いただきもののいのち、いただきものの人生を限り有るものとして受け入れていきたいと思う。」

 「人間がいのちを扱う恐怖を感じる。煩悩まみれの私がいのちを簡単に論じることが出来ようか。21世紀に向かって、いのちの問題は避けては通れない。宗門挙げていのちの問題をまさにみ教えに、学ぶべきでしょう。時間は決してあるわけではない。遺伝子、移植、人間は何をしようとしているのか、釈尊が、宗祖の嘆きが聞こえないか。

 「ある勉強会で、お医者さんを講師にお呼びして、脳死のことについて、考えたことがあります。それを終えての、私なりの結論は、脳死は、死ではないということです。というのは、動物のからだというのは、何億という数の細胞でできています。それらが、集まっていろんな臓器、器官を作っています。その臓器、器官には、それぞれに、心臓停止後何時間動いているかというタイムラグがあります。脳もその中の1つです。あくまで、臓器、器官の一つです。「いのち」「わたし」はどこにあるのでしょう? 胸の中? 頭の中? 脳の中? もし脳の中と答えることができたら、脳死を認めます。しかし、私には、できません。今から10年ほど前に、うちの、園児が、保育園から帰った後、家の近くの公園で、ぶらんこから落ちて、救急車で運ばれましたが、脳死状態になりました。病室に行くと、わずか5歳の小さな女の子の口にパイプをガムテープのようなもので固定され、その先には、人工呼吸器があります。「プシュー、プシュー」まるで、風船を膨らますような感情のないポンプの音のなか、その子は、3日間、生きていました。体温も正常、顔色も良く、脈拍も、血圧もすべて正常でした。いまにも、ほほえみそうないまにも、手を握りかえしそうなその子を前にしたとき、いくら脳死とはいえ、この子は生きている。死んでなんかいない、そう確信しました。泣きながら母親に、「まだ、私のこと解ってくれてるでしょうか」ときかれたとき、「解っているに決まってる!」「思いきり、抱っこしてあげて!」「思いっきり、ほお擦りしてあげて!」と叫びました。臓器、器官の中の一つが働かなくなったのです。目がつぶれたら見えなくなるのと同じ鼓膜が破れれば聞こえなくなるのと同じ脳がだめになったのだから考えられないだけなのです。(もちろん本来は、脳幹までだめになれば、身体すべてが、だめになるので、人工呼吸器ができたからこそこういった状態になるのであるが・・・つまり昔だったら、既に死んでいる状態ではあるが・・・)命というものは、どの臓器、器官がだめになったら終わり、と言うものではないのです。なぜなら、「いのち」「わたし」イコール脳ではないから、「いのち」「わたし」イコール心臓でもないから、心臓が止まっても動いている臓器、器官があるということは確実にいえることは、すべての細胞が死んだ時には、すでに命が終わっているということ。これだけは確実です。だから、人間のはからいというか、時間的、目盛りとでも言うか、検査して、なになにの症状が出たから、これは死です。ということのできないときに命の終わりがあるのでしょう。いずれにしろ、脳死になった愛しい人を見ていないからこそ脳死は、死だといえるのです。合掌」

 「臓器移植そのものに明確に答えられる基準は存在しません。極端に反対したり(殺人だとか)全面的に賛成したり(布施行だとか)は出来ません。立場によってはどのようにでも教典を読むことが出来ますし、その部分だけで止まっていては意味がないことです。実際にNHKのドキュメンタリーなどで見る移植先進国アメリカでは、ドナーの家族とレシピエントが双方の合意の元でと言う条件付きですが、対面すると言うところまで来ています。残された家族と、移植を受けた側の複雑な感情を乗り越えていく例が紹介されていました。「どうせ無駄になる臓器で人が助かるなら結構じゃないか。」と考える人よりも「誰かを殺して私は生き残った・・・。」そのように罪悪感に駆られて不安定になるのが当事者としては多いのではないでしょうか。ドナー側にも逆のことで同じ悩みが起こると考えられます。あと、よく言われる臓器移植は誰でもが受けられる医療ではない(経済的に)という意見がありますが、平等な医療なんてものは世界に存在しないんではないかとふっと思うことがあります。」

 「人間が人間の死を定めることは不遜なことで許されることではないと思う。

 「トーマス・ハリスの最新刊を読むと、肉体の生、拷問等の欧州的歴史について考えさせられます(ロボトミー等についても)。脳死臓器移植に関しては、浅学ですがお聖教からのアプローチしていくとYESとならざるを得ないのではないでしょうか? 私は理科系出身ですが、数学・物理の奥深い理解に関しては、日本語では考えられないものがあります。臓器移植に関しては、欧米的な見解はおいといて、独自の主張を現代の日本語ではっきりと示していくことが必要ではないでしょうか?」

 「問5について。布施行というと、恐らく仏教となら、崇高な行為、ひいては良い行為と受けとめ、いずれにしろプラスイメージの行為であることは間違いない。それはそれでいいのだが、それを他人の行為に対する善悪の判断材料にするのは、仏教から大きく逸れるように思う。だから、もし布施行・いいこと→臓器移植賛成・みんなでやろう、となってはおかしい。そもそも、自分も含め、他人を想定した議論になる、すなわち社会的問題である脳死臓器移植の問題は、仏教とは直接なじまない問題のような気がします。布施行とはそもそも悟りを求める(解脱を得ようとする)者の徳目のこと、あるいは悟りの一状態のこと(悟りの現れ)だと思うが、それを求めて、止まない仏教徒の立場と、違う宗教を信じる者(異なる信念体系を有する者)、無宗教の者、単に宗教に関心のない人。宗教について分類するだけでも、少なくともこのように分類できるとおもうが、このような人達が混在する社会にあって、「解脱を得る」とか「悟りを得る」というのは、社会的基準にまずなり得ない。まずこういう意味で、なじまない、といえます。もうひとつは、悟りを求める人というのは、これはあくまでも自発的意味において、悟りを求めていなければ、(社会的に善とされているから、とか、社会的にこうしなければいけないとされているとかではないということ)悟りを求めているとは言えない。これを言い換えると、仏教徒とは自発的に悟りを求めなければ、仏教徒ではないことになる(江戸時代の人別帳に何々寺の檀家と書かれているから、仏教徒であるとは言えないということ)。実際どうかというではなく、理念的にはこうである。そしてこの悟りを求めるという自発性において仏の教えは初めて響いてくるものであると考えられる(だから、仏の言葉は命令ではなく、指示と言える)。よって外から規定していく倫理(社会的な意味で、よって教団内ということではない)とは、似て非なるものといわざるを得ない。こういう意味でなじまない、といえます。だからと言って、このようなことを一生懸命に議論し、行動している仏教徒はいけないなどとは、思いません。尊敬に値します、少なくとも私としては。」

 「教団内で脳死を人の死と認めない多くの人は脳死を正しく理解してないように思います。2000年近く前の経論に死は「寿・熱・識が体を離れること」とあることから熱のある脳死状態を死としない意見がありますが、これは人工呼吸器は勿論、医学もほとんどなかった時代のものをそのまま用いることは無理なことと思います。」

 「色々な論理・思想が入り交じる非常に難解な問題だと思う。例え全世界の人が各々意思表示をしても、多数決で決められる問題でもない。人工的な臓器が開発されても、ある意味では同じかもしれない。」

 「「他人の死を他者が」決定する事が可能なのか? ただ、無反応を死と同一視しても良いものか?考えて見る必要が有ろう・・・」

 「脳死、臓器提供に関しては以前より家族でよく話し合っておりました。私個人の意見としましては、私達は死んだらお浄土で仏にならせていただくのですから、今の身体は単なる入れ物でしかないと考えています。ですので、身体が機能していたとしても、脳が死んでいるということは、すでに浄土に生まれていると考えてよいのではないでしょうか。ただ、頭ではそう思っていても、感情的に納得できないところも正直あります。ですので、ドナーになってもよいかどうかについては、保留させていただきました。

 「臓器移植の問題で仏教者のしなくてはならない課題は、誰がこのことで傷ついたり悩んだりしているのか、その人に対して、どういう形で手を差し伸べることができるのか、それを実践する中でお聖教を聞かせていただくべきです。」

 「今は、与える事になっても、もらわないと思っていますが、さて、本心から言い切れるか自信がありません。」

 「今の状況では容認せざるを得ないだろう。すべての科学技術について、科学者たちにはもっと慎重になって欲しい。(脳死がどういうものか正確に)知っているつもりだが、92年の答申の内容は暗唱できない。(「脳死」を受け容れないのは非科学的だと思うが:石田註)非科学的が悪いという意味ではない。(宗門が公式見解を出すことについては:石田註)今の宗門では、基幹運動等でもわかるように公式見解以外の考え方を認めようとしない体質からいって、NO! 」

 「脳死が「布施行」やカニバリズム(人肉食)と同等かどうか、ということは、それまでの議論の中で提出された意見の一部なのでしょうが、大乗菩薩道(の精神)やある未開文化の習俗と現代の「脳死」問題を同一視し(あるいは同じようなものだと見做し)、それによって「脳死」を肯定なり否定するというのは、譬えとしては一瞬、分かりやすさ、というものもあるのですが、しかしその「本質」の部分を考えてみると、どう考えてもそれを同一視して見るのはおかしいと思います。やはりそこには賛成するにせよ反対するにせよ、何か過度に「脳死」の一部の側面のみを誇張してアジろうとする、恣意的意思が介在しているのではないでしょうか。」

 「この問題は当事者でないが為、どの立場に依るかによって、回答を異にします。三択アンケートで答えが出るような問題ではないと考えます。「僧侶」という括りでありますので、その立場で考えるとしましても、以下二つのスタンスの間に揺れがあります。1.仏教的思想を前提として考える。2.葬式に立ち会うことを生業としている者として考える。前者に依れば「延命は迷い」といったことにもなろうかと思います。ただ、後者の実感として「ブラックジャック先生がいてくれれば」という切実な思いがあります。これを抜きにした仏様然とした机上の原理原則に、私は魅力を感じません。しかしながらブラックジャックはモグリであり、ドクター・キリコとの葛藤があり、苦悩に沈んでいます。いかなる意見であろうと、ナショナル・コンセンサスを指向するのは勿論のこと、宗門が統一見解を出すことには反対です。

 「本願寺派としての公式見解は、いずれ出す必要がある。ただし、今の段階では時期尚早なのではないかと考えています。医療技術の「発達」に、我々はまだ、十分に対応できず、とまどっているのが現状なのではないでしょうか。そのような状態で、宗門の見解が出されても、混乱に拍車がかかるだけのように思います。」

 「臓器移植には多額の費用を要します。商行為無くしてな成り立ちませんし、いずれ臓器が商品化されると思います。大谷派は臓器移植に反対する声明を出しましたが、本山がこのような断言をいたしますと、後々それに拘束される恐れがあると思います。仏教からみれば、死とは何か、仏教からみた臓器移植(商行為として)についてどの様に判断するのか、十分に応答できる準備はしておきたいと思っています。」

 「現在このことを考えるとき非常に揺れている自分に気付きます。それも門徒とは話しているときは特に感じます。目の前にやがて臓器移植を希望されるであろうと推測できる人が数人いるからです。私は移植に対して否定します。しかし選択をされる方には止めはしません。それが家族であってもです。(此れについてはもっと話し合う必要があります)」

 「「脳」が死ぬ、ということは、つまり、脳が司る「心」が死ぬことと同義と考える。しかし、その(脳死の)時、肌は温かい。脈だってある。その状態で、「この人は死んだ」と言えるのかどうか。私は、人とは、人という心があるゆえの人であると思う。「脈がある」、「体温を保っている」というのは、人以外の生物でも言えること(人以外の生物が、人以下であるという意味ではない)。『脳死』とは、生物学的には生きている状態。それが、いずれ死ぬ状態にあっても、今生きているのだから、それは、生きている。しかし、「それ」は、「その人」ではない。生物学的には生きているが、人であるかといえば、そうではない、といえるのではなかろうか。とはいうものの、私は当事者でも、その近くの者でもない。もし、私がこの立場に立つことになったのなら、上に書いたことを実践できるのか、自信が無い。苦楽を共にした者(家族、恋人など)がこうなってしまったら、私は多分「脳死=人」の死とは認めないだろう。私は現在、龍谷大学文学部○○学科に在籍している。以前は○○大学で生命工学を学び、研究していた。生命工学で、命は数値でしかない。1or0(「1」は、命あり。「0」は、その逆。)である。数値(西洋思想)から見る命の考え方と、心(東洋思想)から見る命の考え方。私の中では、この2つの考え方の葛藤を感じています。」

 「この問題については、興味があるものの絶対こうだという意見が見つかりません。ただ、今の段階(脳死の判定、法的な整備の不備がある状態)での容認には疑問を感じます。仏教では上に書いたような所から、いのちの平等を説いていると思います。ドナー(死んではないとするなら)もレシピエントも平等のいのちと見るから、その間での臓器提供の容認はあり得ないと思うのです。これは大前提で、ここからがわかりません。その答えはQ1の「脳死」を人の死と考えるかどうか? だといえます。これを判定する物差しはあるのでしょうが、今の法律では問題があるような気がします。カード一枚で、、、いいの? といった疑問です。

 「やはり難しい問題です。どれだけ考えても答えは出ません。現在世間で問題になっている「脳死」は"法律上"の問題ですね。これの決定権は「国会」にあるので、投票以外に口を出すことは事実上不可能のように考えます。これは、これで従うしかありません。これを宗教上で考えるならば、個人各人に寄るしかないのではないでしょうか? 宗教を信じるは個人の思うところがあるからこそですね。その信念に基づき考えるしかないのではないでしょうか? 現在脳死でも、医療技術の進歩とともに将来治る可能性も否定は出来ません。そのことも考えるならば、治療と称して人の生命を消すことも気が引けます。「脳死移植で治る人」、「脳死になってしまった人」、両者とも病院にとっては「患者」であることに変わりはないのですから・・・ やはり難しい問題です。」

 「臓器移植を布施行と思うかと言う質問がありましたが、結局私たちには布施行はできるものではないと思います。死は教団の問題であると同時に極めて個人的な問題です。己の死にどう向き合っていくのかを考えた時に、私は使える臓器があるのなら是非とも使って欲しいと考えます。しかし、母の死と考えた時に果たして臓器移植に賛成ができるかというと難しい問題です。」

 「僕は臓器移植に反対の立場です。僕としては、教団として合意を形成し、運動として臓器移植法案には反対すべきだと考えております。その根拠は、臓器移植法案の取り扱いそのものは、人権問題と関わっていると考えるからです。臓器移植の為に救急救命措置がおろそかにされたり、子どもの意志を無視する形で、移植が実施されることになれば、人権蹂躙が法的な根拠によってなされてゆく事になります。本願寺教団は、部落差別について糾弾を受け、同朋運動を推進している教団です。「自分の娘が部落の人間と結婚すると言ってきたらどうするか分からない。」という差別意識の構造と臓器移植を推進してゆこうと考えるときの構造は、決して無関係ではないと考えます。結局、聖典の言葉を論拠にした運動は、上意下達の構造をぬけきることが出来ないのではないでしょうか。そこには、教団のコンセンサスをまとめるなんて無理という発想しかないでしょう。上意下達式の構造を改革する視点は、個人個人が意見をバラバラに述べればよいと言うことではないと思います。それは、上下を入れかえたにすぎない。上意下達式の構造そのものを相対化することの出来る論理が真宗ではなかったかと最近考えております。その意味で、教団のコンセンサスをまとめる方向で臓器移植を考えることは、教団の体質そのものを問題にし、僧侶の体質そのものが問われる重要な方向性を有しているのではないかと思います。それは、同朋運動と軸を同じくする事でもあると思います。公式見解を出すことが、上意下達式の教団構造を問うことなくなされるのであれば、それは、帰属を脅迫的に迫るものにしかすぎません。しかし、公式見解を出さなくてもいいというほど臓器移植問題は、のんびりしているものではないと思うのですが・・・・。

 「これはアンケートですか? アンケートかテストか良くわかりません。アンケートとしてお願いしているのなら、この設問は答える人(協力者)に失礼になるかもしれません。ご一考下さいませ。」

 「倫理という言葉自体幅が広いもので、考え方には個人差があるもの。死に対しても宗教などで考え方はまちまちだと思う。臓器移植は個人間、または家族やその個人にゆかりのある人物の同意が得られればよいのではないか。脳死を死と認めるかどうかは別問題で、移植手術と別にして考えることはできないのだろうか。たとえば、脳死と判断したら息をしていても火葬するのだろうか。臓器提供を申し出ている人物がいるのに断る理由はあるのだろうか。決まりごとなど作らずに個人間でその都度取り決めればいいのではないか。」

 「脳死について、よく家族と話したりしてます。私が脳死になった場合、角膜以外なら提供したいと思っています。目が無いようには見せない、と以前テレビで見たのですが、自分の死に顔を想像すると、やっぱり目だけは提供できないな…と思いました。もし、家族が脳死になって、カードに署名していたとしても、私は反対します。自分の臓器は提供できるのですが、家族の臓器提供は絶対に嫌です!!脳死を人の死と考えられないからだと思います。私が脳死になっても、全然わからないことなので、どうでもいいや!って気がしますけど、家族が脳死になった場合は、脳死は人の死、というふうには考えられません。以前、五木寛之さんの『大河の一滴』という本を読んだことがあるのですが、五木さんは『脳死は人の死ではない』とおっしゃっていたような気がします。脳死になっても、まだ臓器は動いているからだそうです。逆に、脳外科医の岩田なんとかさんという人の『医者がガンになって気付いたこと』!?では『脳死は人の死』と書いてました。私は五木派です。書きたいことがまとまっていなくて、本当に申し訳ありません。


以上



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