生命倫理アンケート
データ&記述回答
2000年12月1日現在 回答総数 59 (単位:人)
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グラフ・表
帯グラフ (男女・年齢 問1・3・5 問7〜問13)
記述回答 お願い
問2. アメリカでは「脳死」した人や死体から採取された骨を 粉末にしたものが実際の医療現場で取り引きされています。 その他にも、臓器ではありませんが、 硬膜など人間の器官が世界中(日本を含む)で取引されています。 必要とする人がいるからこそ人間の器官は売買されています。 これについてどう思われますか。率直にお書きください。
問4. 脳低体温療法を用いれば 「脳死」に近接した人が社会復帰することさえ可能である場合があります。 日本が早期から「脳死」臓器移植を容認して 「脳死」に近接した人への治療を放棄していたなら、 脳低体温療法という画期的な技術は 恐らく生まれ得なかっただろうと言われています。 これについてどう思われますか。率直にお書きください。
問6. 安楽死は実際にオランダで医療行為として行われていますが、 現在では、外部からの押しつけによってむりやり安楽死させられている例が 少なからず報告されています。 これについてどう思われますか。率直にお書きください。
生命倫理の諸問題や、このアンケートについて、どうぞご意見をお寄せください。
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回答者のうちわけ
性別
年齢
| 10代 1 |
20代 8 |
30代 26 |
40代 13 |
50代 9 |
60代 1 |
70代〜 1 |
各 選択回答
問1. 臓器は売買されても良いですか。
問3. 遭難などが原因で、食料が底を突き、食料と言えそうなものが人肉しかない場面に立たされた場合、あなたは人肉を食べるでしょうか。
| 食べるだろう 20 |
食べないだろう 20 |
保留する 19 |
問5. あなたは安楽死しても良いと思いますか。
問7. 日本の高齢化はこれからますます深刻になります。医療費や年金の財源などで国庫が逼迫する恐れがありますが、姥捨山のようなものが必要だと思いますか。
問8. クローン人間を作ることに賛成ですか、反対ですか。
問9. (もし実現したと仮定しての話ですが、)あなたはクローン人間にあなたと同等の人格や人権を認めますか、認めませんか。
問10. 自分のクローンを作ってそのクローンから臓器移植を受けようとしている女性がアメリカに存在していますが、あなたは彼女のこの考え方に賛成ですか反対ですか。
問11. 胚性幹細胞(ES細胞)を培養すればさまざまな臓器を作り出すことが可能であるといわれています。ただし、製造される臓器は高額で取り引きされることが予測され、その臓器を移植することは限られた人にしか許されない医療行為となることも予測されます。胚性幹細胞(ES細胞)培養の研究をこのまま続けるべきだと思いますか。
| 続けるべきだ 16 |
続けてはいけない 22 |
保留する 21 |
問12. 一部の企業で完成していたヒトゲノム(ヒト遺伝子)解析事業が、2000年6月に国家間プロジェクトとしても完成しつつあります(6月26日現在で95%で、官民の協力が発表されました)。ヒトゲノムを解析することによってさまざまな病気を直すことが可能になっていくであろうと言われていますが、あなたはヒトゲノム解析事業に賛成ですか、反対ですか。
以上、選択式回答9問
記述回答
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お願い
このようなデータをインターネット上で公開することに反対の意見をお持ちの方もいらっしゃるのではないかとお察しいたしますが、真宗の議論の場がますます興隆し、それによって真宗がますます興隆するためには、このような公開は必要なことなのではないかと思っております。ぜひとも公開にご理解をいただきますよう、お願い申し上げます。また、ご意見などはメールか掲示板にて承りますので、よろしくお願いいたします。
なお、記述回答でお寄せいただいた意見がここに公開されている方で、公開を望まれない方は、その旨をメールにてお知らせいただきますれば非公開とさせていただきます。よろしくお願いいたします。
棚原正智 *****@*****.ne.jp
石田智秀 *****@*****.ne.jp
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◇問2.アメリカでは「脳死」した人や死体から採取された骨を粉末にしたものが実際の医療現場で取り引きされています。その他にも、臓器ではありませんが、硬膜など人間の器官が世界中(日本を含む)で取引されています。必要とする人がいるからこそ人間の器官は売買されています。これについてどう思われますか。率直にお書きください。
「貧困により、脳死でない健康体からの売買が助長されるようになると思う」
「臓器を物として扱うときに、すでに布施行ではなく欲望になってしまっているのではないでしょうか?」
「究極の資本主義ですね。」
「例えば「熊の肝」(くまのい)等はかつての医薬品として重要視されていましたし、首切り役人の役得は首を切った罪人の「肝」(肝臓)を収得する権限を持っていたと聞きます。今日、変に西洋的(キリスト教的)倫理観が横行することに依って、かつては何も問題に成らなかったことが、「駄目」と言われてみたり、また反対に嘗ては「そんなことはしてはいけまえんよ。」と言われたことが堂々と行われている点を重要視したいと思います。嘗ての日本の仏教的・儒教的道徳律が全て正しいとは言いませんが、最近横行している西洋的倫理観に対して「それはおかしいのでは?」と言える姿勢を無くさない様に注意したいと思います。」
「完全なる死体からだと、許される気がする。」
「悪いことは悪いに決まってますが、その医療のおかげで生きられる人が、知り合いにいたら、家族にいたら、他ならぬ私自身であったら、と考えると・・・ 必要悪、としか言いようがありません。しかし、悪であることを忘れずにいなければ、と思います。」
「臓器・器官の売買は生命の軽視につながるであろうからすべきではない。」
「私が死んだら周りの者で好きにすればよい。」
「全くナンセンである。こうした考え方を、容認する事は、消費は美徳とされた、戦後の思想である。結果に於てどうなったか。しかし全てを、否定しているのではない事は、承知してほしい。アメリカ的考えを、どう規制するか。仏教徒は立ち上がらねばならない。」
「売買の程度とルールの問題だと思う。徹底した監視機関を置くべきである。情報開示の原則も確立するべきである。」
「いのちは、無償で活かすことが理想。尺度を経済におかず、愛におく社会にしたい。」
「売買は反対です。」
「強い嫌悪感を覚える。」
「ナンセンスな話です。医学の者にさせてはならないと思う。」
「人間が他の動物と違うのは「考える心」をもっているからである。このように人間の器官(臓器)を売買するような事になると、人間の肉体を「物」として扱い、欲しいものを手に入れる為、又お金を手に入れる為に人間を殺したりし、他の動物と全く変わらなくなる可能性があります。モノで栄えてココロで滅びるといわれる昨今、10代の人が簡単に人を殺める時代、を鑑みて「宗教なき学問は智慧のある悪魔を作る」と言われた先哲の言葉がしみじみと味あわれるのであります。」
「資本主義の世の中、止むを得ないのでしょうか。よい供給方法が、別にあるならば。」
「現実に、「脳死」した人や死体以外からの採取が行われています。遺体に関する意識が東洋と西洋で異なる事もあるかもしれません。欧州の自動車メーカーの中には、引き取り手の無い遺体を衝突実験に使っています。人工中絶した胎児の横流しは遠い国の話ではありません。」
「必要とする人がいるから、提供されることは仕方ないと思う。それにより救われる命があり、必要な経費を負担することができるなら、良いではないかとも思う。全人類が平等ではありえないのだから。とりあえず、助けられる命を助けてあげれば。」
「好ましいことではないでしょうが、それが現在私たちの医療のどのような場合にどのように使われているのかを知った上で、すべきかすべきでないか判断すべきでしょう。具体的な情報が不足しているので判断できません。」
「よくない」
「複雑な気持ちです」
「人間のおぞましさに戦慄いたします」
「人間の臓器だから良いとか、悪いとかという問題でしょうか? また、臓器は問題になって、輸血、角膜などは比較的問題にならないのは何故でしょう?」
「金銭が絡むと、どうしても感情が無視された合理的な取引になります。お金がない人は、あきらめないといけないことになりますので、賛成できません。」
「制度上、新たな差別を生む結果となるが、この流れは止めようがないと思う。」
「一概にはどうこう言えないが、腎臓や、肝臓など売買は明らかに、先進国による発展途上国からの搾取の構造の上で成り立つ売買であると思うので、それは、あるいは、それに相当する売買はあまりいいものとは言えないと思います。」
「臓器売買ときくと後進国の子供たちがお金のためだけに自分の体を提供しているイメージがあり賛成できない。」
「必要とされることと、実際にそれで何かを売買することとは別の論理だと思います。」
「なぜ求めるのか、それがないと得をできないと考える、一部の人の欲望に踊らされているのでは。」
「恐しいことです。」
「うーん、売買と言う言葉は嫌ですが、必要としている人がいるのであれば仕方ないのではないでしょうか。でも、人の命、存在ってお金で価値が決まるのでしょうか。」
「実際に需要があるためと思いますが、人間の体も機械の部品のように扱うのはどうしても納得いきません。」
「それを必要とする人がいるから臓器の売買が実際に行われている、という現状は理解出来ないこともないが、やはり人間は全体で一つの人格を形成している。人間は部品の組み合わせで出来たロボットではなく、血の通った生身の肉体と喜怒哀楽の感情を持った、それがそろってはじめて「人間」といえる存在である(もちろんこれは非常に単純化・抽象化した意見ではあるが…)。だから、まるで人間をロボットのように見做し、その身体の一部の「部品」を「商品」や「物」のように考え、それを切り売りして「お金」に何でも換算してしまおう。それは「積極的」にやるべきだし、「当たり前のことだ」と考えることに対しては、私は否定的な態度をとらざるをえません。」
「実際に、自分の肉親などがその恩恵を受けて、幸せに人生を送れるという局面にであった時、どう思うのかは今はわからないが、生への過度の執着は無くしたいものです。」
「「資本主義の論理」が許しているのだろうが、どのような経緯で国が認めたか知りたい。」
「お金という弱肉強食のなかで、わたしは買いたくもやりたあくもない。」
「人間の身体を商品にするということはやはりかなりの抵抗を感じます。しかし、それを本当に必要とする人がいるという事実があることなどを考えると、ただ「反対だ!!」というのは通用しないようになってしまったと思います。需要があれば、供給があるという感じて、倫理的にどうであれ、法律的にどうであっても需要がある限りそれは無くならないと思う。それではどうすればいいのか? それは非常に難しい。医療技術が未だ進んでいない時代であれば問題がないが、今私たちがいきる現代は、他人の身体の一部を移植して身体の悪い個所を治すことが出来るという時代である。「出来るけれどもしない」というのは、「出来ない」ということよりもより難しい問題である。さらにこれは医療に関わる問題である以上に、患者やその遺族にも関わってくる問題である。こうなってくると、倫理的にどうかなんて言うことはほとんど意味を成さないようになってしまう。このようなことで、結局、私の意見は、保留ということにならざるを得ません。」
「初めて知った事実ですので、コメントのしようがありません。私自身がどういうものかを聞き知らない限り、安易に考えることは出来ない問題だと思います。」
「人間の体は自動車のパ−ツのように売買されるものではありません。医学の発達がそのために遅れようとも。。。。」
「取引そのものには問題を感じません。しかし、商業として拡大していくことに不安を感じます。」
◇問4.脳低体温療法を用いれば「脳死」に近接した人が社会復帰することさえ可能である場合があります。日本が早期から「脳死」臓器移植を容認して「脳死」に近接した人への治療を放棄していたなら、脳低体温療法という画期的な技術は恐らく生まれ得なかっただろうと言われています。これについてどう思われますか。率直にお書きください。
「どこまでが、医療といえるだろうか? 経済的にも平等に広く行えるものが医療であり、特別な者のみしか恩恵の無いことは医療とは言えない。脳低体温療法がどの程度医療関係者間で一般的かによる」
「安直な物の考えをするとやはりとんでもないことが起こるという警鐘ではないでしょうか?」
「技術はあくまでも技術ですから、光と陰の部分があると思います。」
「仰せの通りと存じます。」
「問題は「臓器移植を容認」すると「脳死に近接した人への治療を放棄」となることだと思います。偏っています。脳死の状態でも完全にだめになるまで治療して欲しい人もいるでしょう、そういう人への治療は放棄されてはいけません。これは臓器移植の是非とは別問題だと思います。臓器移植とは無関係に、患者の意思が尊重されるべきです。」
「脳死を認めることによって生まれたからと言って、脳死を認めると言うことにはならないと思う。」
「「なかっただろう」と言う仮定の質問には答えにくいが、是も先の科学を絶対視する思想である。さりとて絶対否定はしないと言うのが私の真宗者としての考えである。」
「脳死がアメリカにおいてもすべてを切り捨てるもの出ないことは明らかである。脳死ということが、先端技術にとって、困難な条件であるかもしれないが、そのことが、これらの挑戦の障害となるとは考えられない。」
「性急に人のものを当てにするのはあさましい。部品捜しでない、命の可能性を深く求めたい。」
「生きるために多角的な研究は必要だと思います。全ての人が臓器移植賛成ではないのですから。」
「ただ一つの方法を選ぶことへの危惧。」
「無理に医療費用の掛かるようなことは避けるべきである。」
「この療法について、よくわからないので意見を述べられませんが、それが信頼できる療法ならば、脳死などの規定や社会的合意も変わってくるだろうと考えます。」
「「脳死」臓器移植というものが、医療の「技術」としてしか考えられていなかったからではないでしょうか。移植による延命より、移植自体の学閥を背負った成功へのプライドしか見えませんでした。「脳死」を移植を有利に進めるための詭弁と知りつつ認めるならば、治療の放棄に他なりません。」
「脳死に近い人の治療を懸命にするのも、いいかげんにするのも脳死の判定が、おろそかになるのも人のすること。人の倫理のいいかげんさを救っていくのが宗教ではないのか。」
「この質問は、そもそも臓器移植を考えたこと自体がありうべきでないことだという結論を引き出そうとしているような気がします。確かに、結果的にはそういうこともいえるかもしれませんが、問題はそういう情報が今まで広く提供されていなかったことにあると思います。」
「同感」
「よくわからない」
「わかりません」
「もっと研究開発すべき医療法だと思います。」
「臓器移植法案自体が誰を目的に作られているのか、またその適用について医療の倫理がとわれるでしょう。医療サイドにも脳死患者を患者としてあつかう、死人としてあつかい次を考えると言うように医者人身の基本的な考えにもよるかもしれません。極端に言えば、入院するときに担当医が自分はどちらかかという意思表示がこれからいるようになってくるのでは?」
「医学の発達上、ありうる過程だと思う。」
「脳死は人の死ではない。それを放棄してしまうと、宗教というものが成り立たなくなる。」
「もし本当にそうなら、ゆゆしき事態といわざるを得ない。」
「わからない」
「医者の倫理がどこに根差しているかの問題でしょう。」
「物事の裏表、便利・発展の裏には必ずあるひずみ、それをどう量っていくのかが課題。」
「「脳死」の時点で、その患者の治療は、打ち切られ、その患者の臓器をどう取り出すかに 視点が移るのは、人間としてしかたがない 行動でしょう。だから、「脳死」状態にある患者の 脳低体温療法は、生まれなかったでしょう。」
「医学の進歩で困ることもあります。私はあまり医学の進歩とか技術で生き延びたいとは思わないので、私自身は自然治癒力と痛みの緩和だけでいいと思っています。でも自分の家族とか大切な人であれば「助けてください」と言って、医学の進歩にすがってしまうような気がします。」
「そうかもしれません。」
「今後も移植の前に、当人の命を最優先してもらいたい。」
「いつも脳低体温でいきてるいるのに本当のいのちが復帰するのかな。」(社会復帰する例が少なくありません。石田註)
「もし、脳死移植を前提に考えたのであれば問題であると考えます。病院にて第一に考えるべきことは「目の前の患者の治癒」であると考えます。前提が異なっていると思います。」
「「脳死」を認めるということと、「脳死」に近接した人への治療を放棄することとは基本的に区別されるべき事象です。しかしながら、実際問題としては安易に治療を放棄することに流されないかと、非常に危機感を持ちます。」
◇問6.安楽死は実際にオランダで医療行為として行われていますが、現在では、外部からの押しつけによってむりやり安楽死させられている例が少なからず報告されています。これについてどう思われますか。率直にお書きください。
「殺人との区分が難しい。死する本人とともに、同意した遺族のケアも必要である」
「死ぬ権利を説く方がいらっしゃいますが、生命をもてあそぶことにつながると考えます。」
「本人の意思確認が是非とも必要。」
「これも難しい問題ですね。例えば「楢山節考」等も一種の「棄民」でしょうし、戦後の南米への移民もまた、政府による「棄民」でしょう。人間の命を他者が「どこまで永らえさせるか?」と言う考えも時には必要でしょうが、最大の問題点は、その「当事者の承知」が問われるのでしょうね。その点、意思表示の出来ない者の安楽死には疑問を禁じ得ません。出来得れば「生命維持」の措置を行わず、生き長らえる命は生き延びて頂きたいと思います。一方、社会復帰不可能の生命を単なる「病院の金儲け」の為に永らえさせる事は納得できません。」
「愛するものが、苦しみあえぐ姿を見たくないという家族の気持ちはわかる。」
「「早く死ね」と家族に言わずに、思わずにいたいと思う。しかし、そう思うこともあるんですよね。お恥ずかしい。そして、何よりも家族に「早く死ね」と言われないように、思わせないような生き方がしたい、と思います。」
「自分勝手な振る舞いだとおもいます。」
「もう後何日しか生きられないような身体で、本人の希望で家族が退院させ家で死を迎えさすことは安楽死とは違うのですかね?」(そのような「死」や、意識を表出できなくなった方の「死」を近親者の方が選び取る場合の多くは「尊厳死」と呼ばれています。しかし「安楽死」の範疇に収まるものであり、この設問で問題にしている「安楽死」≒「積極的安楽死」と区別して「消極的安楽死」と呼ばれているようです。石田註。)
「この問いも、今事実直面している事ではないから、意見は述べ難い。」
「これは、実例から考えるべき。」
「殺人だ。」
「安楽死の権利は認めるべきだと思います。」
「殺人行為です。」
「安楽死は自然な死のまっとうではない。」
「安楽死そのものを肯定することはありませんが、ただ、自分の身近な人が死に直面し、苦痛にあえぐ姿を見ることは、絶えられないことです。人間の尊厳とは何かを考えさせられます。」
「今、父は病と戦っており、安楽死を含め色々と考えさせられます。安楽死の管理は、かなり難しいことと思いますが、必要な時代になったと考えています」
「本人がそれを望むならあっても良いとは思います。末期癌で手の施しようが無い場合、無闇に抗癌剤を投与し無菌室に監禁してしまうくらいなら鎮痛剤・睡眠薬を投与し眠らせて死を待つ現在も実際は変わらない事かもしれません。しかし、医療として人間が人の命を絶つべきではないと思います。西洋と東洋の生死観の相違からか、なぜこんな元気な人が安楽死を望むのか? と思うケースが欧米では多い様に思われます。長期加療による莫大な医療費の負担というのも、否定はできないでしょう。」
「無理やりの安楽死とはどういうことか、殺人とどう違うのかわからない。生きることの苦しみを和らげるのは、医療だけでなく、宗教の役目でもあるのでは。死んでいない状態を 生きている というのか。生きることの意味をかんがえて。」
「安楽死が認められるとしても、本人の意志を第一に尊重すべきでしょう。具体的にどういう例があるのか知らないので判断できません。」
「安楽死も殺人の一種である。」
「困ったことです。」
「自然体でありたい。」
「安楽死も死刑も他人が介入する死である事には変わりはありません。そこにはあくまで正確な本人の意見が存在していないものと見なければならないでしょう。安楽死の場合、苦しさの中で死を求めることがあるでしょう。それは確かに本人の意思なのでしょうか?」
「家族や周りの人が、安楽死させたいと望むなら、それでよいと思います。」
「安楽死を制度上、認めると不可避的に生じることがらだと思う。」
「人の死は自然死のみである。安楽死というのは医療技術の発達によりできたものである。人によっての死は殺人である。ただし、意志表示がある場合はべつである。」
「死というものを本人、家族はしつかりと受け入れなくてはいけないとおもうが、反面末期ガン等で痛みと戦っている姿をみると、はやく楽にしてあげたほうがいいのかなとおもうことがある」
「ヨーロッパで消極的安楽死、積極的安楽死と定義されることに関する議論が、日本の判例でもあったと思います。日本に関しては、まだ社会的な議論となっていないことが心配されますが、本人の意志の尊重やインフォームドコンセントの進むオランダでもこう言うことが起こりうるとすれば、密室医療と没我の日本ではどうなることか。」
「これもやはり欲望の中なのでしょう。でも、できれば苦しみたくないなあ、と思ってしまいます。」
「死ぬ権利の主張を最近 聞きますが、「私達は、いかされている存在である。命は、尊い。」と、考えるとき、「安楽死」であれ自分で命をおわらせることは、宗教者として、おすすめできません。勿論、自分自身も死を選びません。「み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜くきます」とは、たいへんなことなのです。私はどんな状態で死ぬのかまだ判らないけど、どんなに死ぬ間際まで痛くて辛くても「・・・・強く明るく生きぬきたい」と思っています。生まれるときは、自分の思いとか、意志とかはなかったけど、死ぬときは、自分の理想のスタイルで死にたいと思っています。勿論それだけの時間があればの話ですが・・・。」
「安楽死がその人の意思ならば賛成です。」
「絶対にあるべきでない。」
「安楽死すべきでない、というのが自論ですが、実際に自分がそのような状況になったら、その時、自分がどういう決断をするかは予想出来ません。しかし、いずれにせよ、安楽死はそう簡単に実行されるべきものでは絶対なく、まして外部の利害関係により、本人の意思の如何に拘わらず無理矢理強制されることなど、本当に「安楽死」の本来の定義そのものからも外れた本末転倒なものとなってしまっていると思います。そのような意味で、実際に安楽死を行うにしても、本人の意思が確実に確認出来るシステムの構築や、他の道は考えられないか、という医師その他第三者のアドバイスが適切に行われるような体制作りなども同時に行ってゆく、そのような努力が必要だと思います。」
「死への苦しみさえも、生の証として受け止めて、生から死への自然の移行を全うするという、そういう命のあり方がいいですね。理想です。」
「安楽死は、ケースにより難しい問題だとおもいます。」
「ヒューマニズムとして、許せない。」
「そんなことしらん。」
「患者の立場からは認めますが、外部からの押し付けとなると問題です。安楽死は本来「殺人」の一部であることを忘れてはならないからです。だから、法整備の問題が出てくるのですから・・・」
「他人によって、恵まれた命を奪い取られるこの行為は容認できない。」
「まず、本当に安楽なる死があるかどうか疑問です。まわりからそう見えるだけかもしれません。また、本人の相当の希望があってはじめて「安楽死」が検討されるべきでしょう。しかしながら、どんなかたちにせよ「安楽死」が容認されていけば、機械的に「安楽死」させれる事象が増えることが懸念されます。」
◇生命倫理の諸問題や、このアンケートについて、どうぞご意見をお寄せください。
「このアンケートについて。まず宗門内でということでしょうが、この結果を持っても統一的な答えは出ないであろう。もっと議論が必要でしょうね。(^O^)」
「布施行とは、欲得抜きの純粋な行であり、今般の臓器問題や脳死問題等を考える時、発言はいかにも純粋に聞こえますが、実際は、欲得ばかりが見えてきます。人類自体がもっと自分を見つめて、生命の尊厳をもっと考えないと、将来とんでもない事態になりそうで恐ろしいです。」
「これから、もっとも考えていかなければいけない分野なのでこういうアンケートもしくは議論を展開していくことは大事な事だとおもう。」
「矢張りもっとも大切なことは「仏教の慈悲の立場」に立っての「生命倫理」の確立の必要性を痛感する。現在の生命倫理は「人間の生命を優先する」「キリスト教的生命倫理」で有るように思えて成らない。もっと仏教者は声を大にして自己の意見を述べるべきと思う。」
「普通に生まれてきても、クローンで生まれてきても、人間であることに代わりはありません。人権はあります。本人は生まれ方を選んできたんじゃないですから、臓器を取るから死ねなんて言われたんじゃ、たまったもんじゃありません。利害の生じない研究なんてないのかもしれませんが、ヒトという種の純粋な探求心のようなものを封じてしまうことはできないのではないでしょうか。「ヒトという種」を個々に見ていけば、消極的な個人も積極的な個人もいて、全体的には徐々に進んでゆくということだと思うのです。」
「改めて自分自身考える機会ができて感謝しています。」
「クローン人間を作っても絶対に自分のクローンにはならない。クローン人間にも宿業があり縁によっては変化する。医学の発達は人間を窮地に追い込むでしょう。人間が医学を使うのではなく、医学に人間が使われていくでしょう。お金に執着する人間はお金にこころ奪われお金に使われるように。私の事かな。絶対に人間は死にます。この問題は変わりませんよね。」
「技術の進歩よりも、今まだわからない何かを、尊重する忍耐力が必要だろう。見えない仏を、人の内に育てたい。考えさせてくれた御同朋の熱意に感謝する。真剣に考える人が増えてほしいと願う。」
「最先端の研究は続けるべきと思います。使うか、使わないかは別問題として。人間は悪ですから、道徳を越えた倫理教育をして、バランスを保っていかなければならない、と思います。」
「医療のためにひとの死を物にしてはならない。」
「人生というものはやり直しの利かない、一回きりの人生だから楽しくもあり、悲しみもあり、慶びもあり、生きていることの価値はあるのである。それを二回でも三回でもやり直しが出来る人生が、本当の人生といえるのだろうか。命のみを永らえる人生が本当に楽しいのだろうか。雲鸞大師が菩提流支三蔵に遭われて、本当の人生に目覚められた事を、我がこととして味わう必要があるのではないだろうか。2000年は「心の時代」といわれて久しいが今私達が子孫に遺してやる必要があるのは、お念仏のみ教えを、又お陰さま、有り難うと心から言える人生ではないだろうかと思うのであります。改めてこのようなことを考える事が出来るご縁をいただき有り難う御座いました。」
「資本主義の世の中、止むを得ないのでしょうか。よい供給方法が、別にあるならば。今、父は病と戦っており、安楽死を含め色々と考えさせられます。安楽死の管理は、かなり難しいことと思いますが、必要な時代になったと考えています。今後、医療は複雑になり、人間としての倫理観を問われることが増え、さてさて、大変なことで。いずれ、自分・家族に迫ってくるその時、何かを選択するのでしょう。当事者にならないと分からない事が多々あると思います。」
「臓器移植が限られた人しにしか許されない・・という記述がありますが、保険の適用されない医療行為はすべてそうです。生命倫理といいながら、医療の中でしか私たちは命を語ることができないのでしょうか。現在の医療ではどうにもならない病気になり、あらゆる治療をほどこしても無駄で、無菌室の中でただ死を待つ方々はたくさんおられます。その方々も立派に最期まで生きておられます。死が確定したくらいで人の命の尊厳は失われるのでしょうか。遺伝子解析で病気を要因から直す事と、他人の臓器を付けてみる実験とは次元が違うように思います。未だに生命倫理といいながら、死なないから生きている程度で終わっているのは悲しいことであり、現代社会が捨ててしまったもの、でもあるように思います。」
「質問が単純化されすぎていて答えられないものが多いと思います。こういう前提なら賛成とか、現状では認めるが、もっと良い方法を考えていくべきというような場合はすべて保留にせざるをえません。また、質問者の価値判断が反映された質問が多い気がします。公共広告機構の臓器提供CMとは逆の意味で、ある答えを引き出そうというような意図が見えます。バイオ技術のメリットもデメリットも並記した上での質問にした方が公平なアンケート結果が得られるのではないでしょうか?。「煙草は百害あって一理無しですが、喫煙を認めますか?」というより、「煙草は身体的には百害会って一理なしです。しかし、一方その精神的なリラックス効果を評価する人もいます。あなたは喫煙があっても良いと思いますか、あるべきでないと思いますか?」の方がフラットなアンケートではないでしょうか。」
「不勉強でよく解らない事が多くてすみません。ただあまりにも唖然とさせられる事が現実となりつつあり。びっくりする方が先に立って冷静な判断ができません。」
「いろいろ議論はあると思いますが、なにより自然には無いことに何故人間だけが理屈をつけるのでしょうか。違和感を拭えないところです。」
「名前、メールアドレスの必要性がわからない」送信ミス等によって重複回答が出るかも知れないため、それを出来るだけ発見しようと考えておりました。石田註
「大変難しかったです。」
「これからますます、宗教とのせめぎあいになっていくでしょう。宗門としても,世間に媚びることのないよう、のぞみます。最後の砦としての期待です。」
「病死の解決は人間、特に医療に携わる人にとっては大きな目標でありましょう。最先端技術の進歩はそれらの可能性を大きくし私達に「元気になる」という目標をあたえてくれます。その反面、その誰もがむかえる死に対してのフォローが無く、その部分を担当するべき私達の現状に則した対応が必要となってくるでしょう。「いかに生き、いかに死んでいくか。」基本はご開山の時代も今も同じです。周りの変化が激しすぎて、ついついその基本のところが見失いがちになるのではないでしょうか? ご開山が言われていることは古臭い、昔の人だけに通じるものではありません。反対に今のこんな世だからこそ私達にひびくものがあるのではないでしょうか?そのことを確かに自分の中にもって対応していきたいと私は思っています。「三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦」曇鸞大師は菩提流支三蔵に遇われて、不老長寿の仙経を捨てられて浄土教に目覚められたのではなかったでしょうか?今の医療技術の進歩は不老長寿に挑戦するかの如くに思われてなりません。それが人間の基本的な欲求なのかも知れませんね。」
「科学や技術が発達することで、世の中は便利にはなりますが、自然の倫理に反していると思います。私は得度を受けてから、死ぬことは怖いことではないということに気づきました。確かに、死んでしまったら何も出来ないし、寂しいし、困る人もいるとは思いますが、誰でも通る道です。どのような状況でも、避けることなく受け入れていきたいと思います。」
「現行の制度に疑問を持ってのアンケートとは推察するが、質問の内容が広くなり、論点がボケてくるのではないかと思う。例えば設問にはないが、「義手や義足を完全に機械、あるいは無機物で作ることに賛成か反対か」「脳機能の一部を機械に代替していく技術に賛成か反対か」などもっと論点をボカしてしまう設問もあってもおかしくない内容だと思う。」
「生命倫理や諸問題についていろいろ考えはあるが、私が従うのは阿弥陀如来だけである。真如法性界から迷いの世界に来て下さった阿弥陀如来の真実に私は従うだけである。それが真宗僧侶の心得だと考えている。人間の生命を人間の力によってどうこうするのには反対である。」
「上のような問題はとにかく命の価値をどこにみるかということが問われているように思います。高齢化社会の到来で、今後老人をどう扱っていくのかということで、姥捨山は必要かどうか、というのは前近代にあった発想で、近代では消えてなくなった、あるいは超えられた問題です(あまり意味がない設問なのでは?)。クローン人間をつくる云々というのは、恐らく純粋に科学的な発想から来ているのでしょうが、クローン技術だけではなく、どのような形で人間ができようが、人間は人間に相違ないのであって、私と同じような人格を持つ別人であることだけは間違いないでしょう。それからすると、アメリカの女性の例(フセイン・イラク大統領も同じことを計画していると報道されました)は異常なことのように思えます。ただ恐いなーと思うのは、クローン技術の人間への応用が容認されたとしたら、アメリカにおける黒人奴隷のようなことになるんじゃないかな(人格を認めていないという点で。臓器を取り出すという発想はものとしてしかみていないのでもっと恐ろしいが)ということです。牛や豚や羊の場合、目的ははっきりしていて上質の肉を採るとかにポイントがあるでしょう。すると人間の場合は???? 恐らく己と他人は平等の命、そんなにかわらない人格であるという根底の認識からは、クローン技術はあっても、わざわざ人間をつくったりはしないし、また現にクローン人間がいたとしても、一個の人格をもった人間として扱うのではないでしょうか。最後に、ヒトゲノムですが、クリントンが言ったように、21世紀の最も重要な地図となることは間違いないと思います。しかしこの地図をよからぬことに使う者も出てくるでしょう。この地図を売って金儲けをたくらむ者も出てくるでしょう。人類の宝と位置づけ、難病の治療などに応用する者もいるでしょう。そして、これが国家間の利害関係の上でトラブルになるとこともあり得るでしょう。いろいろ問題がこれから出てくるでしょう。でも、このヒトゲノムの解読は人類の重要な知識の一つであることは間違いがないでしょう(解読の進め方、知的所有権、プライバシー保護の問題などを言い出すと、別問題になり、生命倫理の問題とはかけ離れると思います。ヒトゲノムの解読自体は問題は全然ないと思いますが、それにまつわる周辺はかなり問題含みでしょう。そんな気がします)。」
「最後のヒトゲノムの問題ですが、やはり昔の優生学を彷彿とさせます。どこまでその技術の転用を監視するシステムが作れることやら。今ひとつの問題は、核技術と同様、自然の最低単位以下をいじくる技術ですので、いままで自然界に全く存在しなかったものが生まれるという気持ち悪さ、よって経験値の絶対的な不足から来る予想の立てようの無さ、を感じます。視覚的に確認できるスーパー顕微鏡なんかが開発され、解析に残った最後の一つの遺伝子を見たら、神様がアッカンべーでもしていたということになれば面白いでしょうに。あるいは、孫悟空がここが地の果てと立ちションでもしていないかな。」
「まだまだ考えなくてはいけないことが山積みされています。私の思う意見と反対の方もいらっしゃいます。それを否定するだけではなく、認めながらも問題提起をし続けたいと思います。」
「「生命倫理」とは、人間社会のみが必要とされることです。「命は、生まれ死んでいく」という事実を避けることは、絶対にできないのです。「生き続けたい」と、思うのは、人間としての基本的欲望であり本能だから、否定はしないけれど、そのために他のものを傷つけたり、奪ったりしてはいけない。人間は、何をしでかすかわからない動物だから倫理が必要なのです。命の大切さを考えるとき、「どう生きつづけるか」より「どう死んでいくのか」と、考えると、今の自分がどうすべきかが見えてくると思う。」
「少々、誘導尋問があるかと。真宗の立場でいえば、判断べき項目でない点が多いように思います。倫理とは本来、宗教とは相反する概念であり、もちろん世俗の論理=商行為とも反します。高齢化問題でも、経済力に乏しい老人には大問題でしょう。しかし、今消費生活を謳歌している世代が将来どれだけの子孫を残しているでしょうか? 暴言になりますが、子孫を残さなかった(どのような事情があるにせよ)人達に、今の老人達の生活レヴェルを期待させてはならない、と思っています。」
「三通りアンケートにこたえましたが、人の命を狙わなくいきたい。それでなくとも自他ともに傷つけすぎ、殺しあっているのだから。」
「ES細胞やヒトゲノムに関して、研究という観点でいえば、行うこともまた可なりであると思う。というよりもヒトの探求心は元々法律や倫理などでは規制することは不可能であると思うからである。しかし生命とは何かと言うことを考えるときに、「死」とは何ぞや? ということを考えることが必要であると私は思う。」
「まず、「倫理」の問題があります。これがわかりません。「倫理」とは何なのでしょう? 何をもって「倫理」なのでしょうか? 近年の「倫理」はあまりに漠然としてるように思われます。 各個別の問題には自分なりの答えがあるのですが、生命倫理からとなると、自分の意見はなくなります。」
「アンテナを大きく広げ、今後何が行われようとされているのかを注意する必要があると思います。「生」を追求する心は止めようが無いでしょうが、生命を尊厳在る「いのち」として見つめる眼は、決して失っては(忘却)してはならないと考えます。若干アンケート内容が広すぎる気がするのですが・・・」
以上