諸宗教・真宗

社会をつくる仏教 2003/09/13
現代における宗教の役割 2003/03/28
ナショナリズムの克服 2003/03/27
戦争とプロパガンダ 2002/07/14
タリバン 2001/11/25
善悪の彼岸へ 2000/12/14
大川隆法の霊言 2000/11/03
いまどきの神サマ 2000/11/03
人はなぜ宗教を必要とするのか
「救い」の正体。
隣のオウム真理教
仏教からの脳死・臓器移植批判

社会をつくる仏教
エンゲイジド・ブッディズム Engaged Buddism
阿満利麿 人文書院 2003年【bk1】

社会をつくる仏教
「エンゲイジド・ブッディズム」の紹介は、日本ではまだ充分とはいえない。その日本語訳も「社会参加する仏教」「行動する仏教」あるいは「闘う仏教」などさまざまで、定訳はない。本書の「社会をつくる仏教」も試みのひとつである。
(「はじめに」より)

 アジア各地の仏教界で一大趨勢となりつつある「エンゲイジド・ブッディズム(Engaged Buddhism または Engaged Buddism)」について、ここ数年来、阿満氏が考え続け発信し続けてきた講演録や論文の集大成である。現在日本で入手可能なエンゲイジド・ブッディズムの最も好適な入門書であると思われる。

 世界的に著名なティク・ナット・ハン(ベトナム)やダライ・ラマ(チベット)はもとより、日本の過去にも清沢満之・高木顕明・京極逸蔵・今村恵猛といった「エンゲイジド・ブッディズム」な人々のいたことが紹介されている。彼らのどのような営みがエンゲイジド・ブッディズムであったのか? そして現在の我々が彼らの思想や行動に学ぶとすれば、それはどの部分なのか?

 日本の既成仏教の多くは、教義と現実との間に横たわる何らかの齟齬[そご]や乖離[かいり]を自覚し、それを問題視しながら推移している。現代社会の中で何らかの悩みを持って暮らしている人に対してはたらきかけない部分しかない仏教は今後ほろびていくだろう(逆にそのようなものでしかないなら仏教はほろびれば良いのかも知れない)。

 「契約」「婚約」という意味を持つ「エンゲイジ」という言葉を冠していることのみを理由にして「エンゲイジド・ブッディズムは仏教とはなじまない」と本気で語る人も仏教関係者の中には存在する。しかし、「エンゲイジド・ブッディズム」の「エンゲイジ」は一神教的な神と人との一対一の契約関係を意味しているわけではなく、社会と仏教との関係をより濃いものにしていこうという、そのような願いを意味しているのである。言葉の「本来の」意味を云々することに拘泥して、語られている内容の根幹部を見失うのは、現代社会全体にとっても、仏教にとっても、そしてそのような論者にとっても、非常な不幸であるだろう。  仏教が社会に対して媚びる必要はない。だが、仏教を信仰しているという自覚を持つ人は、すべからく、自分という人間が現代を生きる中で何を感じ、何を考え、何を問題視しているのか、何を感じるべきなのか、何を考えるべきなのか、どんな問題を解くべきなのかを問いつづけなくてはならないだろう。

 また、阿満氏が 『日本人はなぜ無宗教なのか』 や 『人はなぜ宗教を必要とするのか』 から継続して述べている、いわゆる「無宗教」と宗教的無自覚との関係性に関する論や、創唱宗教のみが宗教なのではなく、自然発生的で教祖がはっきりとしていない日本の神社神道のような自然宗教も立派な宗教である、という論も、エンゲイジド・ブッディズムとの関係から語られている。こちらも興味深い。

現代における宗教の役割
コルモス 大谷光真 中川秀恭
東京堂出版 2002 【bk1】

現代における宗教の役割

 編集・著者に冠せられている「コルモス(会議)」の正式名称は

   「現代における宗教の役割研究会
    :Conference on Religion and Modern Society」


 で、30年前に発足。その目的は

  1. 諸宗教間の対話と協力の可能性、その意義及び方法を探ること。
  2. 宗教の立場から現代社会の分析と把握をすること。
  3. 諸科学の成果に照して、宗教とは何か、宗教は如何に在るべきかを根本的に問い直すこと。
  4. 現代社会の諸問題で、特に世界平和の問題を検討するなかで、宗教は何を為すべきか、また、為し得るかを問いつめること。

だそうです(大村英昭氏の「はしがき」より)

 宗教と関わって研究までしてる人間としてたぶん恥ずべきことのように思いますが、わたし、この「コルモス会議」のこと、この本を【bk1】で買って初めて知りました。内容的にも「あ! ココで言ってたんだ!」みたいなのもありました(P.64:「脳死」に関するご門主さんのラディカルとも思える見解)

 内容は、大谷光真氏(本願寺派門主)と中川秀恭氏(コルモス会長。哲学・神学研究者)それぞれの講演、両氏と養老猛司氏との30周年記念座談会(司会:大村英昭氏)、石井研士氏・ヤン=スィンゲドー氏・星野英紀氏・氣多雅子氏・島薗進氏の30周年記念シンポジウム(司会:大村英昭氏)という多岐に亘る内容で、さまざまな報告や提言、話題の深化に満ちており、たいへん興味深い。

 個人的には、氣多先生が

 宗教は常に、時代・社会における最も先鋭的な苦しみに一つの焦点を当てるべきだと思います。宗教においては、最も先鋭的な苦しみが苦しみの典型とみなされるべきであると私は考えます。なぜなら、時代・社会の最も先鋭的な苦しみは、既成の宗教の救済の枠組みからはみ出すのであって、それゆえにいかなる類型化も許さない、ひりひりとしたむき出しの苦しさをたたえているからです。諸宗教はそのようなひりひりしたところに絶えず触れていないと、すぐに硬直化して生き生きした働きを失ってしまうでしょう。
(pp.154-155)

 とおっしゃって、現在ははっきり意識されず、捉えられてもいない「ニヒリズム」が「最も先鋭的な苦しみ」・「苦しみ以前的な苦しみ」ではないか、と展開しているところで唸るくらい感動しました。いや感動というのかな。とにかくツボだと思ってます。氣多先生の発言箇所は他にもウロコぼろぼろぼろ! という感じでした。すごい。(いやいっぱいあるから落ちきらんのです。もちろんです。)

 また、星野英紀氏による、四国八十八カ所遍路の現状を調査し、「歩き遍路」は必ずしも「宗教」的な欲求から開始されるとは限らないのに、「歩き遍路」を完遂した人の多くが「宗教」的な精神的境地に達するようだ、それは比叡山の「千日回峰行」にも通じると言えるのではないか?(pp.112-) という報告も興味深かったです。ココには何かのヒントがある気がします。

 また、ご門主さん(大谷光真氏)が息子さん(新門さん)の東京方面への大学進学に伴い、一緒に不動産屋さんに行かれたおり、

(前略)家主の条件に「宗教お断り」とありましたので、あわてまして、「うちは寺なんですが」と申しましたら、「いや、お寺は大丈夫です」と言われ、複雑な気持ちで安堵しました。寺は宗教ではないと一般に認められているようです。そこで、私は、日本での一般的な宗教の定義は、「なじみの薄い主義主張をもった教団およびその活動」ということになるのではないかと考えました。ですから、あまり主義主張を言わない教団や儀礼は宗教とは認められないのです。神道もそうでしょう。これは、明治以来の日本の歴史、西洋文化の輸入とからんでいると思います。私どもの本願寺派の先輩も、当初、神道は宗教ではないという解釈を積極的に普及させた過去がありまして、難しいことになっています。
(p.71)

 とおっしゃってるのも興味深かったです。

 わたしは‥‥大学学部時代、宗教と密接な関連を持っていない友だちと宗教について少し話したとき、彼が「神社は宗教じゃない」みたいなことを言ったのを未だに覚えていたりして、それでいろいろ本を読んだりして、「彼は宗教を社会的な現象としてありのままに捉えることを怠り、ゆえにマチガッテイル!」みたいに思っているんですが、‥‥「マチガッテイル!」なんて妙に強気になって言わなくても良いし、むしろ変に強気になってガシガシ切って行かない方が物事を見誤らないで済むのかな、と思いました。

 また、ご門主さんが新門さんの新居選びに不動産屋さんについていったという図(!)を想像すると妙におかしかったです。東大で開催されたいつぞやの学会に参加したおり、たしか「スピリチュアリティ」関係の発表だったと思うんですが、それを聞くために教室に入ったら、ご門主さん、普通にスーツ着て前向いて座っておられたりしますし。

 ‥‥それが違和感ないんですよね、案外。 (^▽^;)

 差別的なことの肯定はわたしキライなんですが、自分自身が彼や彼の息子と自分との間に殊更に何か「上」方向への壁みたモノを構築してるっぽいのを感じるたびに、あかんなと思います。「上」方向の差別があるということは「下」方向へもそれがあるというのと同義だと思っていますので。しかし実感として壁を作ってしまった・壁が「ある」からと言って、その状況が永遠かと言えばそんなことはないとも思う。なので、身近なこのへんから自分の偏見を打破していけば良いんだろうなという、これもまったくヒントなんだろうなと思っています。(暴走)

 ニーチェ以降の「ニヒリズム」を理解したつもりになっていたわたしですが、中川先生や氣多先生の発言を読む中で、その「ニヒリズム」の実際の現れが現在の現実世界ではどのようになっているのかを、読んでいて冷や汗が出るくらいの密度で実感できたのもすばらしかったです。たぶん、その実感の萌芽は「はしがき」から整えられていたのだと思いますが。

 これも個人的な経験なのですが、 ‥‥宗教的な歴史的事実や事物、概念への造詣が深く、なおかつ自覚的な「無宗教」を生きておられる方と、キリスト教徒・仏教徒を交えた空間で「石田くんみたいに考えてたら、たいていニヒリズムになるんだと思うんだけど ‥‥でも石田くんはそうなってないんだ ‥‥ 面白いな。どういうことなんだろう?」的に言われたのも思い出しました。

 たぶん、ニーチェ以降の「ニヒリズム」は、現代の日本という場所ではあまりに万人(?)に前提的な世界観・価値観となっているのではないだろうか。そしてわたしはソコにいて、いわば薫習されているがゆえに、それを自覚できていなかったのだと思います。

 ニヒリズム的パラダイム ‥‥言ってみれば、奇妙なまでに潜在的な勢いで転換された(転換されてしまった)ことに気づかれてさえいないニヒリズム的パラダイム、の中にいる人間が、その前提となっている「ニヒリズム」を、自分のことを少し突き放して考えるための、とても好適な言葉が、氣多先生の発言の中にはちりばめられている、そんな気がします。

 真宗はじめ宗教的な活動一般と現代社会のさまざまな事象との関係性について考えよう・研究しよう・解決できるモノは解決しようと考えている(はずの)わたしとしては、すごく面白い本でした・です。

ナショナリズムの克服
姜尚中・森巣博 集英社新書 0167C 2002年 【bk1】

ナショナリズムの克服

 日本で行われている「ナショナリズム」の小史をまとめた章や、「民族概念」の解体を行っている章、また二人の著名人の半生と転換点が赤裸々に語られている章もある(姜氏のひととなりがここまで明らかになったのはこの本が初めてだろう)。

右も左も共同性のフィクション性を認めるのなら、再想像を続ける責任と義務があると思うのです。

 現在では右も左も「ナショナリズム」がフィクションに過ぎないことを認めているのだそうだ。ならば‥‥。

 「ナショナリズム」という極めて曖昧な概念を分解すると、さしあたって「国体」と「民族」が重要なタームになる。そして両者をじっくり分析すれば、「ナショナリズム」が、抑圧する多数にとって極めて都合のよい装置であることがわかる。

 通読するまでもなく、「九・一一」以降、急速に捏造の度合いが強まりつつある「文明の対立」その他、世界を単純な二項対立に押し込めて誤解しようとする浅薄な思考を脱却するヒントとなるだろう。もちろん、この国では「文明の対立」の構図を受け容れる側が多数派である。だが多数派であること、それ自体に何の意味があるのだろう。わたしにはわからない。‥‥だからと言って無理にすすめはしないが、個人的には無理にでも少数派でいた方が謙虚に生きられると思う。わたしは多数派よりそっちの方が良い。

 ナショナリズムは「宗教」の一種だよなと感情の水準で確信しましたのでココに分類しました。問題があると思われる場合は冷静な理由を添えてご指摘ください。

戦争とプロパガンダ
戦争とプロパガンダ2
E.W.サイード みすず書房 2002
1:中野真紀子・早尾貴紀訳 【bk1】
2:中野真紀子訳 【bk1】

戦争とプロパガンダ 戦争とプロパガンダ2
1:中野真紀子・早尾貴紀訳 【bk1】2:中野真紀子訳 【bk1】

 アメリカに暮らすアラブ(人)である著者が、「9・11」以降のアメリカを中心とする現在の世界を、イスラエルとパレスチナとの対立問題を中心にすえた立場から読み解いている。

 Web上に公開されたサイードの記事を翻訳・収録した本である。アハメド・ラシッドや田中宇の『タリバン』(講談社【bk1】 &光文社新書【bk1】)と同様、世間にはあまり広く知られていない/しかし一部の識者の間ではもはや「常識」にすぎないであろう事実が数多く紹介されている。

 読むと、おそらく、自分が今まで「常識」だと思っていたことや、「世界のスタンダード」だと思っていたものがかなり激しく揺さぶられ、それらを再編成せざるを得なくなることと思う(苦痛を感じるかもしれない)。そういう意味では危険だが、ルポルタージュというのは本来こういうふうな危険を伴っているべきなのかもしれない。

 正直、これほどのイスラエル批判を読んだことがない私は非常にびっくりしてしまった。また、それが理性的な立場からは反論が不可能な批判であり、つまり‥‥事実であることを知って二度びっくりした。日本がアメリカ寄りであることは以前から知っていた。しかし、アメリカ寄りであることはイコールでイスラエル寄りであるということになってしまうというのは、今回の指摘で初めて知った。自分の無知を恥じたい。

 アラブ(人)であることからパレスチナ側であり、かつ、アメリカ市民であることから否応なくイスラエル側でもある著者が、イスラエルをめぐる「報復」や「自爆テロ」に対して冷静な視線を送り、イスラエル・アメリカ側からのみ報道される「真実」が「事実」と大きく異なっているという、‥‥非常に冷静で精緻な事実分析を実行してくれている。そして分析に終始するのではなく、その事実を知った我々がこの問題(イスラエル)に対して一体どのように接していけば良いのか、それを提言してくれてもいる。

 また、サイードがこの本の部分部分によって明らかに意識的に使い分けている「われわれ」という言葉が担っているのは「アラブ」なのか? 「アメリカ」なのか? それとも「イスラエル以外」なのだろうか? など、「われわれ」の意味するものを深く考え始めることによっても、読者の世界理解はどんどん深まっていくと思う。

 サミュエル・ハンチントンなどが提唱し、現在のアメリカ合衆国やその傘下の国々で圧倒的なスタンダードとなってしまった「世界は二項対立だ! 宗教対立だ! 民族対立だ! 文明の衝突だ!」という(?)単純至極な世界観が醜悪なまでの大間違いであることを指摘し、我々現代人が国際社会を把握しようとするときに何気なく用いている「世界」や「文明」や「民族」や「宗教」などの言葉が表している概念の内実を問い、その定義が非常に曖昧であり、はっきり言って主観の作用でどうにでもなってしまうことを明らかにしてくれてもいる。

 「われわれ」が「自明だ」と考えていたほどには、世界に実際に存在する他の世界観や価値観は全然自明ではないのだ。たとえば、イスラエルとパレスチナの対立は宗教対立が根幹にあるものだとしても、政治的な事実や軍事的な事実を無視して宗教対立だけで一刀両断にできる性質のものであるのかどうか。パレスチナからイスラエルに対する「自爆テロ」は本当に「テロ」と呼ぶべきなのか、どうなのか。

 これほど冷静なのにこれほど熱い本も珍しいと思う。非常に変わっている。国際関係の「ウラ」ではなく日本のメディアがあまり伝えてくれない「事実」同士の相互関係を知るための好著である。熱烈推奨。

タリバン TALIBAN
イスラム原理主義の戦士たち
アハメド・ラシッド著 坂井定雄・伊藤力司訳
講談社 2000 【bk1】

アハメド・ラシッド

 かれらは平和な時代、侵略者との戦争や内戦のない自分の国を見たことがないのだ。(P71)

 かれらには過去の記憶も将来の計画もなく、現在だけがすべてだった。文字通りの戦争孤児で、根もなく、休息もなく、仕事もなく、貧困だけがあるのだが、その自覚はない。彼らは戦争が好き。なぜなら、それだけに、自分が役に立てるからだ。(P71)

 子どもたちは幾世代にもわたって根無し草のように育ち、戦う以外に自己確認する能力もなければ存在理由もない。大人たちは悪夢と残虐性に苦しみ、戦争と軍閥の権力しか知らない。(P379)

 本屋さんにたくさん並んでるから9月の事件の後に出た本なんだろうと勝手に思ってたら、違うのね。去年の10月に出てる。しかも取材日数は‥‥‥実に21年。(ゴゴゴゴゴゴゴ‥‥)
 著者のアハメド・ラシッド氏はパキスタン出身のジャーナリストでアフガニスタン情勢の第一人者。

  • イスラム≠タリバン
  • タリバンはどのような経緯で誕生したのか、どういう理念を持つのか
  • 彼らが台頭する以前のアフガニスタンはどういう状況だったのか
    (旧ソ連のアフガン侵攻や、その後の立て続けの内戦。冒頭の引用は若い兵士についてだけど、「平和」を経験した人がアフガニスタンには極端に少ない。)
  • アフガニスタンはシルクロードの要衝で東西文化の交差点であった
  • 北部同盟とタリバンの仲介は日本にしかできなかったであろう

 圧政も、女性差別も、締め付けも、非論理性も、排他性も、TVなどで放映されている以上のようです。男性もかなり虐げられているということも知りました。女性以上に、かもしれない。

 また、タリバンがいただく奇妙な、どのイスラム教団のそれとも違うイスラム(「厳格」と言うより「むやみに厳しい」と言うべき?規範)は、その幹部構成員の大部分が出身である特殊な土地の民間信仰のようなモノ(パシュトゥンワーリ)とイスラム原理主義が「ごちゃっ」と一緒になったものなんだそうです。

 そういう特殊な信仰と、兵の意識を高めるために女性や男性を締め付ける法律。法律に厳格に実行される処刑。締め付けられる、タリバン以外のアフガニスタン。

 外国に販売される麻薬。どんどん行われている密輸。

 頭が痛くなってきます。どうすればいいのだろう。問題の根っこは地球の裏側を突き抜けてはるかイスカンダルあたりまで行ってるんじゃないだろか。

「大人のみなさん、今回のテロについて子どもになんて説明しますか?」

 みたいな番組があって、見てました。いちばん驚いたのは、アメリカの肩を持ちすぎるくらいに持ちすぎる考え方がひどくすんなり受け入れられてるらしい、ってことでした。子どもの方が「えぇっ、それって子どものケンカみたいじゃん!」みたく、すごく的を射たことを言ってるように思えるシーンも。
 論理的には無根拠ですが、印象として

  1. 経済
  2. 軍事
  3. マスコミ

 この三つを牛耳ろうとして頑張ってるのが現代の世界各国かな、というふうに思います。それでいくと、今はほとんどアメリカの一人勝ちだと思う。

 国内での大規模連続テロ発生という点ですべての制空権を管轄下に置けてたわけじゃないわけよ、アメリカ。それは「2.軍事」ですね。だけどその後でタリバンを攻撃し、新型爆弾も投下し、やはり1.2.3.すべてにおいてアメリカが一歩も二歩もリード。日本のマスコミもアメリカサイドの出す限られた情報に飛びつき、ほとんどそれに追随し、うのみにせん勢いです。

 (よい意味で)明確な当事者になり切れてなくて、それもあって、うちらにはきわめて限られた事実の情報しか入って来ない。自分の頭で考えて事実を鳥瞰するのは難しい。
 と、思いました。

★アフガニスタンの隣国、トルクメニスタンは石油と天然ガスを産出する。これを北方・ロシアに運ぶパイプラインは存在するが、南方・南アジアやインド、アラビア海、あるいは中国方面に運ぶパイプラインは存在しない。もしそれを作ることができれば、パイプラインを管理する会社やパイプラインが通る国は莫大な利益を得ることが出来る。

★で、そのパイプラインはどこを通るのか。

★「アフガニスタンを通した方が良い」と考えた二つの石油関連会の双方が、当時情勢の不透明だったアフガニスタンで非常に勢力の強かったタリバンと結びつこうと工作をした。二つのうちの一つはアメリカの石油会社で、アメリカ政府に積極的に働きかけた。結果、アメリカ政府はタリバンを無条件に支持するようになった。だがアメリカやパキスタンからの間接・直接の援助と期待に反し、タリバンはアフガニスタンでの覇権を握るに至らなかった。内戦下でパイプラインを敷設することは不可能である。

★しかも大統領選などを経て、アメリカ政府は女性差別的な政策をとるタリバンを支持することができなくなった。よってアメリカ政府は、今度はタリバンを無条件に否認するようになった。

★パキスタン政府やイラン政府の対タリバン政策は一貫している(否認と承認)。だがアメリカ政府の対タリバン政策や対アフガニスタン政策は一貫せず、対症療法的で「一回限りの偶発的対応」ばかりである。

★パキスタンはタリバンを支持し、タリバンを飼っていた。だがタリバンを強くしすぎた。またパキスタン政府の対タリバン政策のために用意された作戦要員がタリバンの影響を受けタリバン化するなど、パキスタンのパシュトゥン人がタリバンから「イスラム的性格を強めたパシュトゥン民族主義」の影響を強く受けるようになった。

★パキスタンとアフガニスタンの「国境は事実上消滅した。」パキスタンはタリバン化しつつあった。

★また、タリバンはパキスタン国境での密貿易を容認し、そこからの資金を運営に充てている。パキスタン経済は旧ソ連のアフガン侵攻から崩壊していたらしいが、タリバンによってもやはり崩壊させられている。まじめに働くよりも密輸をした方が遙かにもうかるからだ。

★アフガニスタンの内戦各勢力を支持した外国政府は、あたりまえのことなのかもしれないが、アフガニスタンの平和や政治的安定を第一目標としてそれらを支持したわけではない。自国の利益や議会のロビー勢力の利益のために支持しただけである(アメリカは特にそれが顕著である)。

★旧ソ連の侵攻によってぼろぼろになったアフガニスタンのための長期的視野に立った政策など皆無であった。

★必要なのは、アフガニスタンを安定させるための、長期的視野に立った外交戦略である。

「アフガニスタンの歴史や実状をふまえずにいると完全にアメリカ系の報道がやってるアフガニスタン論に感化され、公平な見方が全然できなくなってしまう、やられちまうゾ!」
 ってことのようです。

 訳者の坂井定雄氏は管理人の大学の教授でした。2001年の3月頃にアハメド・ラシッド氏が大学に来て講演をされたらしいのですが、その理由の一つだと思います。「日本版へのまえがき」でも猛烈な謝辞が贈られていますし。

善悪の彼岸へ
宮内勝典 集英社 2000 【bk1】

善悪の彼岸へ

 作家である著者が、自らの宗教への関心を題材にしつつ、地下鉄サリン事件当時のオウム真理教(現アーレフ)に対して敢行した取材や、その当時の教団が教本としていた『ヴァジラヤーナコース 教学システム教本』への深い読解をもとにして、あの教団はなぜ生まれてしまったのか、あの教団はなぜ一連の事件を起こしてしまったのかなどの困難な問題について考察している。

 教団が抱えている問題点の一つは、個人的な「神秘体験」を重視することの馬鹿らしさ、である。つまりある程度のヨガの達人であれば「神秘体験」は非常に容易であるのに、それを過度に重視して世界の真理の対感と同義と考えてしまう。そして、その世界観を垂れ流す。

 教団の根本教義である「タントラヴァジラヤーナ」(独立金剛乗)が仏教からどのように生まれたのか(彼らのオリジナルではない)、どのような点が危険であるのか、どのような点が茶番であるのかについても深い考察がある。

 そして、信者を取り囲むごく普通だった環境が半ば強制的にグルと信者との個人的な関係に追い込まれ、グルへの依存が進みいつの間にか抜けられなくなるという、カルトに特徴的な事実も当然のように浮かび上がる。

 本書は、教団の教祖が逮捕されて五年以上を経て世に問われたわけであるが、時期をずらしたのは故意である。これには著者の「あの教団やあの事件は一過性のものではない。今こそ考え、謎を解くべきだ」という強い意志が込められている。

 あの教団を「非仏教」や「非宗教」、「茶番劇」として切り捨てるのは容易である。しかし、冗談としてではなく本気であの教団に帰依した人間がかくも多いのが現実である。つまり、切り捨てるだけではあの教団の本質は勿論それを生んだこの世界の在り方も何も変わらないし、何も解決されることはない。我々はあの問題に対してどう行動し、そしてどう生きれば良いのだろうか。

 オウムの事件や、それと社会との関わり、新新宗教、そして「自分は、人間は、どこから来てどこへ行くのか?」を知りたがっている方には非常にお薦めである。

大川隆法の霊言
神理百問百答
米本和広・島田裕巳 JICC出版局
(宝島社?) 1992

大川隆法の霊言

 出版されて間もなく「幸福の科学」から名誉毀損で起訴されたためであろうか(損害賠償として1億円を請求。しかし、のち訴えは取り下げられた)、重刷されていない。読みたい人は古本屋で仕入れるがよろし。

 著者の米本和広が大川隆法の著作を84冊読んだところ、頭の中に突然大川隆法その人が現れた。そこで米本は以前から大川の著作を読む中で気になりつづけていたことや疑問点をその大川に聞いて答えて貰った。それを百問百答にまとめたのが本書である。一般人の平易な質問に答えてくれているので、矛盾点や誤解している点などが非常に解りやすいかたちで白日の下に晒される結果となっている。

 冒頭には1992年時点での「幸福の科学」の教義、主宰・大川隆法(わたしは信者でないので「大川隆法主宰先生」とは呼びません)の人となりや年譜などが非常にコンパクトにまとめられている。これも解りやすくてためになる。

いまどきの神サマ
別冊宝島編集部 編 宝島社2000
(初出は1990年 別冊宝島144) 【bk1】

いまどきの神サマ

 この本の焦点は「カルト」に限定されていない。

 オウム・幸福の科学・イエス之御霊教会教団・阿含宗・神慈秀明会・統一教会・真光・創価学会などの紹介があり、オウムは「実にこじんまりとした集団」と評されたりしていて、時代を感じる。洗脳のプロセスについてもいろいろ詳しく書いてあるし、新新宗教にはまって出てきたけども社会復帰できないで困っている人の実例報告もある。「ソウルメイト」系の話もいっぱい出てくる。

 わたしが個人的に戸惑ったのは、というか謎が解けてしまってびっくりしたのが、平井和正に関する記述に触れたときであった。そうなんよ。中学生の頃に『幻魔大戦』全20巻を読もうとしたんだけど、途中で完全についていけなくなったわたしはわたしの読解力を疑ったものだった。でも読解力の問題ではなく、作品の世界観がわたしのそれとあまりに異なっていたから、それで読めなくなっただけなんだろうな、今ならそう思います。

 まあ、そんな感じの本です。げっぷが出るほど濃いぃ内容の本です。

人はなぜ宗教を必要とするのか
阿満利麿 ちくま新書222 筑摩書房 【bk1】

人はなぜ宗教を必要とするのか

 著者が書中で述べているように、本書は『日本人はなぜ無宗教なのか』の姉妹書であり、帯に書いてあるように、「無宗教」から信仰へと踏み出す道筋を示してくれているのかもしれない。

 前書で著者は日本人がよく口にする「無宗教」という言葉について、「創唱宗教」と「自然宗教」との関係を主軸にして論じていた。

 本書ではそれをさらに押し進めて、近代科学の恩恵をこうむる日本人が科学の延長上で捉えがちな「無宗教」でさえ実はまったく「科学的」とは言えず、ある一つの世界理解、「無」をめぐる日本文化の伝統に支配された「納得」の一形態に過ぎないことを指摘する。そして、当然のことながら、「無宗教」を主張すればそれで済むわけではなく、そういう人も一度は「宗教とは何か」について思いをめぐらすべきであると言う。

 どのように思いをめぐらせていくのか? というモデルとして、本書には様々な論点が登場する。一部を紹介すると、「インチキ宗教とまっとうな宗教との違いは?」「宗教・迷信・道徳の関係は?」「人生論か宗教か?」「なぜ持戒系宗派の僧侶も肉食妻帯して良いのか?」などなどである。

 これらは論点に過ぎず、もちろん一刀両断できる問題ではない。やさしい読み口ながら、わたしたち読者一人一人に、まずは自分で考えることを迫っているのだろう。お薦め。

「救い」の正体。
ポスト・オウムの新・新宗教&カルト全書
米本和広ほか 別冊宝島 461 宝島社 【bk1】

「救い」の正体。

 登場する「カルト」(本書の定義に基づいている)は、統一教会、ライフスペース、親鸞会、エホバの証人(=ものみの塔)、法の華三法行、顕正会、ヤマギシ会などで、オウム真理教後のメジャーな「カルト」集団はほとんど押さえられていると言える。

 内容は、「カルト」に家族を奪われた人の戦いの記録に始まり、「カルト」定義の試み、「カルト」という言葉が一人歩きすることの危険性(カルト報道の悲劇)の指摘、「カルト」経験者(卒業生)の女性を四人集めての座談会、「反カルト」的な集団が逆に陥りやすい「カルト」性、宗教研究家が集合した座談会など、「カルト」やそれ以外の宗教を研究する上でも非常に有効と思われる示唆に富む。「カルト」ではない集団としてイエスの方舟を取り上げ、代表者である千石イエスに独占インタビューを組んでいるのも本書の特徴の一つである。

 しかし、わたしは本書の冒頭や巻末で行われている本書独自の「カルト」定義には若干の難ありと思えてならない。一つ目の定義はどう考えてもすべての宗教を含んでしまうものであり、二つ目の定義も「憲法」という相対的なモノを絶対視しているかのような印象を読む者に与える。今までに誰も厳密には定義し得なかったほど「カルト」を定義するのは難しく、本書の「カルト」定義でもまだ不十分であるようだ。

 しかし、「自分探し」から「トラウマ探し」、そして「トラウマ作り」に進みつつある昨今の精神的流行(具体的には『永遠の仔』の影響を受けて自分に無理矢理トラウマを設定しようと試みる愚かな人々について言及している)は結果的に「カルト」の提示する奇妙な論理を受容する動きにつながりかねないのでは、という指摘には「なるほど」と頷かされたし、「カルト」信者は「カルト」教義の提示する「この世の諸問題を全肯定して死にますか? それとも永遠普遍の真理を受容して永遠に生きますか?」という単純な「○か×か」の二者択一を迫られ、知らず識らずのうちに「カルト」の罠にはまって行くという指摘にも心服させられた。

 人はなぜ「カルト」にハマるのか??

 「カルト」に陥ってしまった人間は全くと言っていいほど自分の頭で考えることをせず、他人と論義する際にも教団によって刷り込まれた教義を鸚鵡(オウム)のように繰り返すだけである。しかし今は立派な「カルト」信者も、昔は自分の頭で考えていたのである。それが前述のような「カルト」独自の二者択一論に陥った瞬間から、消化しきれないほどたくさんの非思考的思考や労働を「カルト」に強いられるうち、いつの間にか自分自身の思考を放棄しているのである。

 自分の頭で冷静に思考・判断できるうちに「カルト」に陥ることはまずない。しかし「カルト」に近づいた人間は、「カルト」の繰り出す様々な手段によって、ほぼ100%の確率で冷静な思考と冷静な判断能力を奪われるのである。

 「私だけは大丈夫」と思ってる人がいちばん危ないのは交通事故に限らず世の常である。油断して良いのは、知らないうちに自分が「カルト」に陥り、家族や友人、恋人などをも巻き込んだ混迷の蟻地獄に落ち込んで行きたい人だけである。……たぶん必読。

〈了〉

 上田紀行も引用しましょう。

「これだけ宗教に対する知識は集積されているのに、それが広がりを見せていないのは不幸である。そのひとつの原因は、宗教教団に属している宗教者の知識が、主に自教団の正当性の主張と布教という限られた目的に閉じこめられ、「教学」化していることである。また他方で、日常世界側が、宗教世界は「あちら側」のことでこの世界とは関係ないからその知識は必要がないという立場や、宗教教育が宗教の振興につながる不公平さを持ち、それゆえ扱うべきではないという立場を取っていることである。しかし、現在必要なのは、宗教の内部と外部の両面における、宗教意識のレベルアップであろう。それは宗教教育の必要性を示唆するが、宗教教育とは、宗教の賛美ではないし、宗教の否定でもない。宗教とはいかなるものかを、ありのままに捉え、自分がそれといかなる関係を持つべきかの基礎を提示するものである。それは「食わず嫌い」か「のめり込み」かの二分法ではなく、ひとりひとりの個人が主体的に宗教と向かい合っていくことを可能にする。」
(『宗教クライシス』岩波書店 1995年(岩波書店「21世紀問題群ブックス」11)208〜209頁)

 なお、のち『「カルト」の正体。』に改題されて文庫になった。

隣のオウム真理教
それでも彼らが存在してしまう事情!
米本和広など 別冊宝島476 宝島社
隣のオウム真理教

 「別冊宝島」が大きさを変えた最初期の本である。それまでに馴染んでいた「別冊」サイズではなく週刊誌大、表紙も内容も週刊誌的で盛りだくさん、カラーページも非常に多い。

 全体を貫いている統一的な興味は、「今のオウムって、実際、何をしてるんだろう?」という疑問ただ一つである。

 その疑問を出発点に、オウム真理教が現時点で抱えている資産・不動産・会社・活動拠点の最新情報や、教団の実権はいま誰が握っているのか、彼らはこれからも危険なテロ集団であり続けるのか、などなどへの調査結果がコンパクト(?)にまとまっている。

 教団の裏側を調べた記者が更なるテロ行為への恐怖を述べたかと思うと、別の記者はオウム教団に最早そのような力は残ってないと推測してオウム新法制定に反対する。記者によって見解がまちまちであるのは非常に興味深いが、一体どちらを信頼すべきだろう?

 松本知子被告と青沼陽一郎氏の往復書簡も掲載されている。これを一読して驚いたのは、松本被告が極めて正常な文章を書いているという事実である。だんなの方は意味不明なことを喋りチラしているらしいが、奥さんの方の文章は案外論理的である。多少感情的なものでもあるが、それはまあ。

 オウムと地域住民とのトラブル解決法を模索したり、既成の仏教教団がおしなべて黙して語らないことへの不満など、現状に一石を投じる有意義な報告もたくさん入っている。

 島田裕巳から村上春樹への公開質問状、という変わったものも入っているが、はっきり言って島田さんが何を言いたいのか、何を問いかけたいのか、わたしにはさっぱり解らなかった。壊れてるのだろうか。

 ……実際、オウムはどこへ行こうとしているのだろう??

仏教からの脳死・臓器移植批判
小川一乗 法蔵館1995
仏教からの脳死・臓器移植批判

 真宗大谷派の氏が、通仏教的な立場からではなく真宗大谷派の立場から「脳死」や臓器移植について批判している。だから「仏教からの…」ではなく「真宗からの…」あるいは「真宗大谷派からの…」という書名にした方が良いと思われる。「仏教ではこうなる」という形式の説明も頻出しているが、それらはほぼすべて「真宗や真宗大谷派ではこうなる」ということに過ぎず、通仏教的な見地からはそう言えない、というものもかなりあるということに注意が必要である。

 氏の言いたいことはよく解る。それなりに納得もいく。非常によいことも書かれている。しかし「脳死」や臓器移植、西洋文化をめぐる理解は、このような問題を論じるためにはいささか不十分と言わざるを得ない(無茶苦茶な言辞も数多く存在する。例えば「キリスト教は選民思想だ」。……それはユダヤ教である)。それらの知識を他の本などから補完しつつ読めば、それなりに良い本ではないだろうか。