中島義道

怒る技術 2003/03/30
私の嫌いな10の言葉 2000/11/24
孤独について 2000/11/24
哲学の道場 2000/11/24
<対話>のない社会 00/11/24
うるさい日本の私 00/11/24
ウィーン愛憎 00/11/24

怒る技術
PHP研究所 2003年 【bk1】

怒る技術

 表紙や帯には赤い色が目立つが、扉絵やカバーを取った背表紙には青が基調のデザインが施されている。赤が怒りを、青が冷静を示すなら、これは著者の意図を正確に反映した装丁であると言える。なぜなら、怒る技術とは闇雲に怒るための技術ではなく、自身の怒りの「表出」を冷静に分析・制御し、他者に対して効果的な方法で演出しつつ「表現」する技術であるからだ。

 一般的に、日本では怒りの表出はネガティブな行為と考えられている。しかし著者は怒りの感情を無理に殺すことを善しとせず、怒りを伝えることもコミュニケーションの重要な手段の一つと捉えている。これは日本よりも人が容易に怒るヨーロッパ生活に根ざした著者の経験則に過ぎないと考えることも可能であろう。しかし、それを指摘すれば直接的な怒りがこのクニにおいてタブーとされ、封殺されることが、正常な感情表現としての怒りの表現ができずにを暴発させてしまう人が少なくないという事実につながっているという仮説を覆せるわけでもない。

 怒りを闇雲に表出し、それでこと足れりとし、相手からの言葉を遮断するのはコミュニケーションではなく、単なる押しつけにすぎない。しかし感じた怒りを注意深く正確に表現し、相手に伝えたい、相手に何とかわかってほしいと欲求するなら、それはコミュニケーションの正しき萌芽である。

 そもそも好きでも嫌いでもない相手と何かをコミュニケーションし合いたいとは考えないだろう。多くの人間は、無関心な対象に積極的にはたらきかけたいとは考えないのだ。とすれば、それが怒りの感情であっても、その感情を闇雲に抑圧することは、お互いにとってコミュニケーションの可能性を消すことにつながっているのである。

 ここで自身の怒りを相手はどう受け取るのかを考えて行動しなければならない。つまり、コミュニケーションの口火を切る人間は、相手にも自分と同じように表現する権利を保障し、相手の言葉を受け取らなければならない。

 そう、怒りはコミュニケーションを成立させるための一つのきっかけであり、一つの手段でもある。手段であるからには用いるための訓練が必要である。たとえば、怒りを感じられない人には怒りを感じる訓練が必要であり、怒りを制御できない人には制御するための訓練が必要である。

 そのように、怒りをブラックボックスの中に囲い込まず、自分の怒りと冷静に付き合い、他者とコミュニケーションしていくための提言と、半端ではない実践法が紹介されている本である。

 戦う哲学者・中島氏の舌鋒がますます冴えわたる。

私の嫌いな10の言葉
新潮社 2000 【bk1】

 「戦う哲学者」と言われる著者が、この国でよく用いられている押しつけがましい言葉を10選び出し、それらの言葉がどのようにして著者に虫酸を走らせるに至るのかを、哲学的かつ実存的に考察した好著。10の言葉の内訳は、本書に登場する順に、

私の嫌いな10の言葉   「相手の気持ちを考えろよ!」
  「ひとりで生きてるんじゃないからな!」
  「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」
  「もっと素直になれよ!」
  「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」
  「謝れよ!」
  「弁解するな!」
  「胸に手をあててよく考えてみろ!」
  「みんなが厭な気分になるじゃないか!」

 そして

  「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」

 である。

 どの言葉についての考察も論旨明快で非常に解りやすく、また論理的・哲学的・説得的・かつ魅力的であり、首を激しくタテに振りすぎて疲れること請け合いの、繰り返すが本当に好著である。ココに来てわたしのこの駄文を読んでいただいた方には無条件でお薦めして良い本なのではないかと思う。

 わたしもこれらの言葉はだいたい嫌いなのだが、二つめの「ひとりで生きてるんじゃないからな!」は仏教的見地から見ればあまりにあたりまえなので、面と向かって言われると「どうしたんだろうこの人?」と思うだろうが、「自分で自覚する」という接し方だけをしている分には嫌いではない。ただ、他人に投げかけられるとイヤでしょうね。

 哲学は形而上学ではない、実際に生きていく上に必ず必要なものなのだ、という思いを新たにすることができる、そういうさわやかな本である。少なくともわたしにはそういう本であった。

孤独について
生きるのが困難な人々へ
文春新書 1998 【bk1】

孤独について

 本書は、中島氏の半生を中島氏が受け取ったままに綴られた、自伝的要素の濃い哲学書である。本書を読む前のわたしは中島氏を「『うるさい日本の私』のおもろいおじさん」くらいにしか思っていなかったが、本書を経て、わたしは氏が筋金入りの、生来の哲学者であるという事実を知るに至った。氏は「哲学研究者」でもあるが、それより先に「哲学者」なのである。わたしなりに一言で乱暴に言ってしまえば、常に「メメント・モリ!」を携えて生きるのが哲学者である。

 本書の「序章」には、「孤独」になることの重要性が説かれている。氏は「孤独が辛いのはあたりまえである。」と言い切り、陥ってしまったのならば、環境的あるいは精神的な「孤独」から逃げず、それをそのまま受け止め、孤独に陥っている時にしかできないことをすべきだ、と言う。

 具体的には、わたしが言うとひどく凡庸な言い方になってしまうのだが、「死」について考える時間が出来たことを喜び、その後の人生を「死」とともに歩む心づもりをすべき貴重な時間、それが「孤独」であると言い、本書を手にした「孤独」な人に力強いエールを送っている。

 実はわたし、中島義道の著作の、たぶん熱烈なファンである。もし出せばファンレターは受け取ってもらえそうなのだけど、中島氏は本書の序章「孤独に生きたい」の中で、「私は他人から関心をもたれることそのことがひどく嫌になったのである。私に関心をもって近づいてくる人がひどくうっとうしくなったのである。」と書いているので、森岡正博氏に出した時のように気軽にメールを出したりはできないでいる(氏にはそもそもHPを持つ気なんてないように思います。)

 こういう人がどこかに存在してくれているのだ、と思うだけでも良いのだろうが、でも、この本を本当に「読んだ」のなら、わたしはやはり「死」についてもっともっと真摯に考えなければならないのにな、と思う。楽しい本であるとともに、厳しい本でもある。

 ご存命の人の自伝でこれくらい面白いモノとしては、わたしは同じ中島氏の『ウィーン愛憎』(中公新書)と、加藤周一『羊の歌』(岩波新書)と、藤原てい『流れる星は生きている』(中公文庫)くらいしか知りません。

 (もっとあったような気がするのですけど、今はちょっと思い出せないってことです。ココそのうち増えてるかも。)

哲学の道場
ちくま新書 1998 【bk1】

哲学の道場

 本書は哲学の入門書である。だが、ちまたに溢れている「哲学がこんなにわかっていいかしら」(高橋源一郎の本みたいだな)的なタイトルで読者を誘い、読者に「うんうんわかるわかる」と思わせといて、読者が実際に哲学と向き合った時に崖から突き落とされるような衝撃を感じる、そういう似而非哲学入門書とは全然違う。その証拠に、冒頭にはいきなり「哲学は難しい」という節がある。こういうところ大好き。なんて正直なんだろう。

 「『純粋理性批判』を読む」という節なんて、本当にムツカシイ。でも、わたしが某掲示板において別ハンドルを使って書き込んでいる内容よりも精緻で、論理的で、もちろん哲学的で、説得的で、しかもこれが非常に魅力的な論考になっている。うーん、すごい。

 そして最後に氏が言うのは、「哲学は役にたたない」。もちろん「精神的にもまったく役にたたない」。でも、……。

 この「……」がすごく重要な気がする。これが何かを知りたい方は実際にこの本を読んでください、納得いくかどうかはわかりませんが。わたしはすごく納得いってます。

<対話>のない社会
思いやりと優しさが圧殺するもの PHP新書 1997 【bk1】

対話のない社会

 本書は、現在のこの国の、微に入り細を穿ったやり方で「対話」の機会が封じられ、閉塞しきっている状況を心の底から憂え、それを少しでも変革できれば、という願いを込めて書かれたものである。

 「会話」は「対話」ではないし、「ディベート」も「対話」ではない。「会話」や「ディベート」は相手の言葉の全部を受け取らずとも成立するが、「対話」は、そのようなやり方では決して成立しないものなのである。

 完全な私事だが、高校生の時に同じ塾に通っていた友だちが、彼の父親と彼の別の友だちが「会話」をしているのを聞いた感想として、「俺の父さんもTもお互いの話を全然聞かないんだ。お互いにお互いの話を全然受け止めてない。でも、お互いに話したいことだけ話して、それで満足してるみたいなんだ。聞いてるこっちはすごくイライラするんだけど、父さんとTは相手が聞いてるかどうかは全然問題にしてないみたいで、それで、お互いに好きなことが話せるから、とても仲がよくなってしまったみたいだ。」と話していた。

 彼の父親と彼の友人のTがやってるのは、キャッチボールではない。お互いにたくさん球を用意して、それを相手の方に向けて、相手には当たらないように投げ続けているだけである。彼らはグラブを持っていない。そもそも彼らには相手の言葉を受け取る気などないのだ。ただ喋りたいだけ。これは「対話」ではない。

 相手に何も期待せずに言葉を一方的に投げかけて満足する。その言葉を本来受け取るべきと思われる側にも、それを受け取る気はまったくない。これと全く同様のことが、この国の各所で、今日もおおっぴらに、何の問題もなく、粛々と行われているのである。このやり方があまりに一般的なため、多くの人はこのオカシサに気付かない。だからこの国はとてもうまくいっている。

 『ココが変だよ日本人!』を見るまでもなく、本当にこの国はちょっとおかしいようだ。(この番組まだあったっけかな? 2003年3月27日 付記)

 そのことにまた一つ気付くきっかけを与えてくれる本である。

うるさい日本の私
洋泉社 1996 → 新潮文庫 1998 【bk1】

うるさい日本の私

 管理人がいちばん最初に購入した中島義道の著作である。タイトルは恐らく高橋源一郎の名著『優雅で感傷的な日本野球』(河出書房新社)の影響を受けたと思われる大江健三郎のつまらない『あいまいな日本の私』(岩波新書)の影響を受けているものと思われる(『万延元年のフットボール』(講談社)なんかは大好きです。)。わたしが持っている本書には帯が付いていて、パンダがかわいく「Yonda?」と問いかけている。「うん、読んだよ。」わたしはこのパンダのネクタイを持ってます。たまに締めますけど、評判はあまりよくないですね。

 著者は、わたしたちが普段何気なく接している様々な音のうち、街を歩くと必ずと言って良いくらい耳に届いてくる、スピーカから流れてくる「アアしましょう、コウしましょう、アアしてはいけません、コウしてはいけません」という放送や、同様の内容が書かれた「汚らわしい」看板や垂れ幕や横断幕がイヤでイヤでたまらない、という、本人によると「病気」に悩んでいる。実効性を期待しない空虚な声やコトバに我慢がならないのである。

 ある程度をこえた期間をこの国の中で生きていると、それらの放送や看板は気にならなくなるか、気になっても「まあ仕方ないかな我慢するかな」で済んでしまうと思うのだが、著者は本当に「病気」であるため、スピーカを設置して音を発している主体に対して単独で戦いを挑み、時に勝利し、時に敗走している。本書はその興奮を余すところなく伝える一級の戦記である。つまり、著者が「戦う哲学者」と言われる所以のひとつと思われるのが本書である。

 本書は、のち、上で紹介している『<対話>のない社会』や『私の嫌いな10の言葉』などに結実していく。

ウィーン愛憎
ヨーロッパ精神との格闘
中公新書 1990 【bk1】

ウィーン愛憎

 著者は33歳からの数年間をウィーンで過ごした。その実地での経験をもとに、非ヨーロッパ人がヨーロッパで生きることの困難さを考察して綴られたのが本書である。

 ヨーロッパ人が「中華思想」を持っていることは多くの論者が指摘していると思うのだが、本書に登場するヨーロッパ人が携えているその思想は非常に強烈であるように思われる。だが、どうもこの強烈さは著者の経験に限定されるものではないようだ。ヨーロッパのヨーロッパ人は本当にこんな感じなんではないだろうか。そういう生き方も別に否定はしないけど、ちょっと待てよと思う。

 また、この国の大多数の人間とヨーロッパ圏の大多数の人間とにとっての「謝る」という行為が意味するものの違いについては、以前から本多勝一によって指摘されているが(朝日文庫なんてお薦めです)、著者の経験からも、それがやはり事実であることが判明する。謝らないヨーロッパ人は傲慢で、すぐ謝るこの国の人間は謙虚だ、なんてどうでもいいことが書かれているわけでは全然ない。念のため。

 中島氏と本多氏、二者の言い分を総合するに、彼らは基本的に謝らない生き物であるらしい。そして、その点や他の点でヨーロッパに暮らす非ヨーロッパ人が「郷に入っては郷に従え」を実践しようとすると、すぐさま「○○人は傲慢だ」という批判が来る。世の中はかくも生きにくいモノである。

 様々な実例から、ある意味において地球人でいちばん「エラい」(もしくは「エラそう」な)のはアメリカ人やヨーロッパ人であることがわかってくる、そういう本である。これが事実なんだから仕方がない。

 だが、他の著作を読むと、著者はウィーンという土地を年に一度は訪れているようである。困難でもなんでも、憎くてもなんでも、好きなモノは好き。だから「愛憎」なんでしょうね。