その他

これから論文を書く若者のために 2003/09/13
夜と霧 新版 2003/03/28
動物化するポストモダン 2003/03/27
ホームページ辞典 2000/08/19
青春漂流 1997/?/?

これから論文を書く若者のために
酒井聡樹 共立出版 2002 【bk1】

これから論文を書く若者のために

イントロ大切
何をやるのか
どうしてやるのか
明確に
ホ〜♪

 論文を書くための入門書はたくさん出ているが、その中でも異質だと思われる。なぜなら非常にわかりやすく、かつ面白いからであり、また、実践が可能だからである。

 本書では、論文は、

  1. どのような意図と目的をもって
  2. どのような手法で
  3. どのような対象に向かって

書かれるべきなのかが明快に打ち出されている。

 「読んでもわからない論文は埋もれて朽ち果てるだけである」「読んでもわからないのは著者の責任である」という、驚愕すべきかもしれない事実も書かれている。本書を読んでいて「どうしてこんなに内容の理解が容易なのだろう?」と不思議に思ったが、それは第3部のタイトルが「わかりやすく、面白い論文を書こう」であり、それを著者がこの本でも実践してくれているからだろうと思われる。

 本書の対象とする読者は

  • 研究を始めたばかりの大学院生・学部生
  • 論文をこれから書こうとしている大学院生・学部生
  • 論文を書いたことがあるがコツがつかめていない大学院生・若手教官・若手研究員
  • 学生の論文書きを指導する立場になったばかりの若手教官
  • 卒業論文・修士論文・博士論文を書こうとしている学生

である。つまり学生は「すべて」、である。論文の書き方がわからない人はもちろんだが、わかっているつもりの人も、再確認の意味で読んでみることをおすすめする。しかし時期的に差し迫っている方は、自分のして来たこと・していることと「論文」との間に走る深い溝の存在に気づき、途方に暮れることがあるかもしれないので、少しだけ注意されたい。なお冒頭の四行は『アルプス一万尺』のフシで歌える。十八番まである。

 なお、酒井聡樹の公式ウェブサイトは 【こちら】 です。

夜と霧 新版
ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子訳
【みすず書房】 【bk1】

夜と霧_新版

 ドイツでは1977年に出版されていた改訂版の日本語訳。旧版(ドイツ語原著は1947年、日本語訳は1956年に初版発行)との異同については出版元のHPを見て頂きたい。

 あまりに著名な書なので解説の必要はないかもしれない。あえて書けば、心理学者がナチスの強制収容所を経て、生き残り、その体験を記した書である。

 この本が単なる集団殺人の記録とすれば、恐るべき戦争がもたらした20世紀の悲劇にとどまるが、この記録には、心理学者・精神科医としてこの死を直視した人間心理の分析のほかに、人間が絶望に追い込められた時にも人間としてこれに耐えうる生き方の術(すべ)をフランクルはどう見出したかが述べられている
 
日野原重明(聖ルカ看護大学長)
朝日新聞1997年9月8日「追悼 ビクトル・フランクル」
(ただし、コルモス『現代における宗教の役割』から孫引)

 ナチス、戦争、人間、ココロ、心理学、わたし、生きる意味、etc.etc.‥‥

 ‥‥いろいろなものをいろいろな他人と語り合い、理解し合おうとするときに、前提の前提、基本ラインとして共有しておかねばならない書である。

 ニーチェ以降の「ニヒリズム」を生きる人は、いつかどこかで、この書のメッセージにココロで触れなければならないのだと思う。

 どんな生にも、それが生である限り、意味があるのだ。

なお、旧版もやっぱり良いです。

動物化するポストモダン
東浩紀 講談社学術新書 2001 【bk1】

 一言で言えば、「オタク」や「オタク系文化」について論考してる本です。表紙の裏には

 本書の企図は、オタク系文化について、そしてひいては日本の現在の文化状況一般について、当たり前のことを当たり前に分析し批評できる風通しの良い状況を作り出すことにある。

 とあります。

 また、「ポストモダン」は時代区分のことではありません。著者は「近代(modern)」がまだまだ終わってないと考えているため、

 現在の文化状況を、50年前、100年前の延長線上に安直に位置づけることはできない。たとえば、ミステリやファンタジーやホラーに支配されたエンターテインメント小説の現状を、近代日本文学の延長線上で理解しようとしても絶対に無理がくる。そのような断絶の存在は、専門家に限らず、多少ともまじめに現在の文化に触れている人ならば、だれでも感覚的に察知できることだと思う。現代思想や文化研究の分野では、その常識的な直観を「ポストモダン」という言葉で呼んでいるだけの話だ。(15頁)

 としています。

 「動物化」というのは、「欲求」と「欲望」の対比から出てきたようです。というのは、コジェーヴ(1902-1968)が、『ヘーゲル読解入門』の中で、

 「欲求」:欠乏 ― 満足で完結した回路。 動物にもある。
 「欲望」:欠乏が満足されても消えない。 人間にしかない。

 …的なことを述べているのだそうです(『動物化…』126頁)。原語の意味合いが解らないのでわたし正確には把握できてませんが、なんとなく「なるほどな」と思えました。

 日本の文化的な場面では、今までは人間的「欲望」の方が、より即物的な動物的「欲求」よりも多く発揮されてきたが、ここんところどうも逆転の傾向にあるようです。そしてその傾向は「オタク系文化」にも指摘できるのだが、著者の印象としては、何も「オタク系文化」に限ったことではないように思われているようです。同感。

 私が想起したのは、Web上やオフラインで他人と話している時、特に「議論」と近接した場面で他者と話している時の自分の経験でした。私は「言葉はそれ自体で完結しているにも拘わらず、完結を超えた“何か”をさらに“欲望”させるのではないか」と考えています。しかし、そうは考えず、“欲求”だけを求めている論者と話している時、何かがすれ違っているように感じます。

 わたしは相手に向けてタマを放るとともに、相手がそれを何とかして受け取ってくれることと、相手なりに精一杯にこっちに投げてくれることを期待してる。わたしはこっちもむこうもグローブを持ってるはずだと思ってるし、向かい合っていると考えている。しかし、相手はサンテナに200球くらいタマを入れてきてて、グローブを持たずにこっちに向かってどんどん投げ続けている、または、嬉しそうにあさっての方向に向かって投げ続けている。…そんなふうに感じることも多い気がします。

 あまり関係ないかもしれませんが、「オタク系文化」と「宗教」って、現在の日本の多くの場面では、それを消費する構造は大体同じようなワクにはめられて理解されてるのかな、と思いました。というのは…どちらも、「食わず嫌いかのめり込み」(上田紀行『宗教クライシス』)の二分化された接近法以外はあまり試みられてない、という分析が可能だからです。

 ただ、この本、結論部が用意されてないような気がします。軸も展開もしっかりしてるんですが、今ひとつ何か言葉や章が足りてない印象です。…いや、それが著者の言う「大きな物語の崩壊」をメタで示してるのかも?

ホームページ辞典
アンク著 翔泳社 2000 【bk1】( ← 第二版)

ホームページ辞典

 同著者・同社で1998年に出版された 『HTMLタグ辞典』 の拡充・完璧版。ホームページを作ろうと思っていたり、HTML形式の文書を作ろうと思っていたりする初心者の方にとっては必読書であると思う (少なくともわたしにとっては文字通りの必読書であった)。

 もっともっと玄人好みのしっかりした本はあるのだろうけど、わたしのこのページは両書だけを参考にして出来ている( ホームページ作成ソフトは使っていない。小自慢)。 この2冊で作るとここまで出来る、と言うべきか、この程度までしか生かせないのか! と言うべきか。迷うところです。

 拡充されたのは、表面的には 「JavaScript」 と 「スタイルシート」 の説明が加わった、ということである。が、前書と本書との最も大きな違いは、実はその根底にある 「理念」 である。

 本書は1999年12月24日に勧告された 「HTML4.01」 に則り、タグの厳密な定義に忠実である。具体的には、前書ではただ単に文字を大きくするためのタグとしても容認していた<H>タグを本書では厳密に 「見出しタグ」 とし、文字を大きくするために用いると 「いった用法は避けるべきです。」 と明言している。また、前書は 「本当は<P>〜</P>タグ?」 として<P>タグを単独で、しかも単なる改行タグとして用いることを容認しているが、本書は 「これは<P>タグの本来の利用方法ではありませんので注意してください。」 としている。同じ著者とは思えないほどの変わりようである。間違いに気付いた人間はいつでも怖れることなくそのやり方を変えるべきだ、ということなのだろう。

 行間調整をスタイルシートに限定してしまっているのは実状にあっていない (未対応ブラウザがまだまだ多いから) が、今は過渡期なので仕方ないだろう。

 オールカラーなので非常に解りやすい。
 本当にお世話になってる本なので、紹介します。

青春漂流
立花隆 講談社文庫 1988(?) 【bk1】

 札幌で浪人をしていた七年前 (註:1990年度)、 それまでは勉強ばかりしていたのに、夏休みが始まると同時に私は崩れてしまった。とは言っても今考えればカワイイものだ。飲酒・パチンコ・麻雀・ディスコ・カラオケ程度。しかし高校卒業までは生真面目な奴だったから 「あいつ崩れたらしいよ」 という情報は高校の職員室や塾にまで流れたようだった。

 それでも夏期講習には出た。衛星回線を通じて国語を教えてくれていた先生が、授業の中で 「君たちが夏休みに読むのに良い本だ」 と、数冊の本を紹介してくれた。そのうちの一冊が立花隆の 『青春漂流』 だった。

 「青春」 って奴を 「無謀」 にではなく 「大胆」 に歩いている男たちが語りかけて来る。自分の場所を測り、道を正確に見極め、大地を蹴って大きく飛翔している最中の彼らに迷いはない。予備校に通い始めて意識的に本という本を遠ざけ、不安定な場所で前途に茫漠たる不安を抱えて暮らしていた私に、この本はかなりの刺激を与えてくれた。

  「自分が今いる場所から 『飛ぶ』 ために必要なのは、一体、何だろう? そして、一体何処へ向かって飛ぶべきだろう?」

 彼らのようにこれと言った特技も熱中するものもない一介の浪人生にとって、 「飛ぶ」 とはそのまま 「合格」 を意味した。遊びグセはなかなか抜けなかったが、合格のためには勉強するしかなかった。

 今の私が振り返って 「エラく小さい飛び方だったなあ」 と笑うのも良いだろう。しかし当時の私は当時の私・浪人生なりに、確実に飛び立てたのではないかと思う。

 多分、「飛翔」に過去はさほど問題でない。今いる場所の見極めと、飛躍の方法と方向とが問題なんである。どうも最近それが出来てないように感じるんだな。

 いろんな場所でいろんな思いを抱いている友達に何度かこの本を紹介しているが、再び読み直す時期なのかもしれない。

 (この文章は『ダ・ヴィンチ』の投稿書評コーナー(かなり小さい)に 「小さいけど確実な『飛翔』」 というタイトルで掲載されたものです。)