生命倫理

安楽死のできる国 2003/09/13
日本の医療に未来はあるか 2003/06/08
異議あり! 生命・環境倫理学 2003/05/04
クローン人間 2003/03/30
人は死んではならない 2003/03/27
昏睡状態の人と対話する 02/07/14
私の臓器はだれのものですか 02/07/14
生命学に何ができるか 01/11/25
弱くある自由へ 00/12/14
脳死と臓器移植法 00/12/14
脳死・クローン・遺伝子治療
必読 脳死の人 必読
生命学への招待
生命観を問い直す
死は共鳴する
死生学がわかる。
脳死と臓器移植
私は臓器を提供しない
操られる生と死
操られる死

安楽死のできる国
三井美奈 新潮新書025 2003 【bk1】

安楽死のできる国

 安楽死とは、大まかに言えば、助かる見込みのない者がさまざまな(肉体的・精神的・スピリチュアル的な)苦痛にさいなまれているとき、いわゆる「延命治療」や「濃厚治療」を停止して死ぬにまかせたり、その苦痛を緩和するための薬品を処方して結果的に死を早めたり、むしろ積極的に毒を処方して死を早めたりすることである。いわゆる「尊厳死」が本人以外の選択による場合が多いのに対し、安楽死は本人の意志以外では決定されることがない点が決定的に異なっている。

 現在の日本では、安楽死は非合法である。だがオランダでは2000年11月に厳密な手続きにのっとった安楽死が合法とされ、今では「年間死者数の2〜3%に当たる2千〜3千人が安楽死している。」(5頁)

 本書は、「なぜオランダでは安楽死が合法となったのか?」という問題を中心に据え、オランダにおける安楽死合法化のあゆみや、安楽死法の具体的内容、そしてオランダがいま新たに抱えている問題や悩みについて(たとえば、自殺と安楽死との境界線はあるのか否か、など)、現地での取材をもとに詳細に報告している。

 また、日本など他の国や地域ではなぜ安楽死が非合法なのか、もし安楽死を合法的におこなおうとする場合にはどのような問題をクリアしなければならないのか、などの問題についても考察をおこなっている。

 安楽死の制度化には「(1)だれもが公平に高度な治療が受けられる医療・福祉制度、(2)腐敗がなく信頼度の高い医療、(3)個人主義の徹底、(4)教育の普及」(60頁。安楽死容認派の医師ヘルベルト・コーヘン氏)という四つの条件がそろっていなければならない、よってオランダの安楽死は輸出できない、との意見を紹介している。具体的な考察や事例については実際に読んでもらいたい。

 われわれが安楽死をどのように考え、安楽死とどのように向き合っていくべきなのかを考える際の、間違いなく必読書である。

日本の医療に未来はあるか
間違いだらけの医療制度改革
鈴木厚 ちくま新書408 2003 【bk1】

日本の医療に未来はあるか

 現在の日本の状況を冷静に分析し、世界的に見ても抜群に質が高く、また抜群に安価な日本の医療体制が壊されようとしている有様を紹介し、このまま放置しておいて良いわけがないという警鐘を発する。「行政は、また医師や患者は何をすべきか」(表紙裏・カバー)

 もくじ
 はじめに

  1. 日本の医療費
  2. 病院経営
  3. 日本の社会保障
  4. 医療周辺産業
  5. 医療現場の憂鬱
  6. 医師の不安神経症
  7. 日本の保険制度
  8. 日本の医療の推移と現状
  9. 医療事故から考えること
  10. 日本の医療はどこへ向かうのか
  11. 医療の未来を考える

 おわりに
 図版の引用・出典一覧

 現在推進されつつある医療制度改革は何がどうなっているのか、はたしてそれは

  1. 患者を第一に考えているのか
  2. 病院の医師や看護師を第一に考えての施策なのか
  3. 国庫からの支出の減額だけが目的なのか

 ‥‥この本で紹介されている客観的なデータとその冷静に分析によれば、結論的には「3.」であるとしか思われない。だが、「3.」が目的になっても良いものなのだろうか。

 著者の論を総合すると、一般的な理解とは正反対の事実が見えてくる。

■日本の医療は世界最高水準。かつ抜群に安い。
 WHOのリポートなどを根拠に語られている。大部分の医療系コメンテイタがものす意見とは正反対だが、これが事実である。

 不勉強なわたしは自分の「常識」を冒頭のこの話題で砕かれ、この本に引き込まれた。そして以下のような報告が続く。

■日本の医療は薄利多売を余儀なくされている。
 上の「常識」と関連するが、日本人の多くが世界最高水準のソレであるかのように誤解しているアメリカの医療などとの客観的で根本的な比較から、事実を根拠に語られている。

■日本の医療にはマンパワーが絶対的に不足している。
 これも上と密接に関連するが、病院が薄利多売にならざるを得ないのは、医師や看護師などの医療従事者の数に比較して病院を訪れる患者数が格段に多いからであり、また、現在の厚生労働省が推進する医療制度上の施策が、病院が患者のためを思った治療や検査をすればするほど病院が損をするようにできあがっているために薄利多売になってしまうのである。

■病院で支払われる診療報酬の多くは病院ではなく周辺に流れている。
 頑張れば頑張るほど病院は赤字になり、医療報酬は製薬会社など病院の周辺に流れる。最近の病院は敷地内に診療所を建てることが少なくないが、それは病院より診療所の方が儲かるような施策が実施・推進されているからである。だが、患者のために診療所にはできず病院にしかできないことは非常に多い。

■医療ミスは医療ミスだけを弾劾してもなくならない。
 現在の医療の決して少なくない部分は、医師や看護師の、いわばヒポクラテス的なボランティア精神によりかかって行われていると言っても決して過言ではない。医療ミスの一々に関する現状での原因究明も大切だが、激務が単純ミスを生むのだから、激務を早急に軽減しなくてはならない。

■健康保険組合は何をしているのか。
 ‥‥紹介されている「意見広告」は実情を冷静に分析してじっくり読むと非常に変である。何がなんだか混乱してしまった。


 経済的な社会共同体の中で、誰かが何かを要求し、他の誰かがそれに応える場合には、ほぼ確実に経済的な出資が伴う。それは常識以前の大前提であろう。

 しかし日本政府はじめ国民の大多数は、こと医療の分野に関しては、あまりに一面的なデータから行われた(古く現状に即さない)公的な見積もりをもとに、今後は老齢人口の爆発的な増大から就労人口が足りなくなるという誤った認識を共有し、医療費の支出を抑制しなければ日本の医療に未来はないと考えている。だが果たして日本の医療費は安いのだ。厚生労働省が常々言うようなインパクトは我々を決して襲わない。

「公共事業を半分に減らせば、日本の医療費が全額無料になることを政府は決して言いません。」  (p.205)

 もちろん、なんでも単純に比較できるわけではない。だが我々は医療と自分との関係、あるいは医療費と自分の支出との関係をどのように考えているのだろう。現在の医療行為が経済活動に組み込まれている以上、質の良いものを求めるならそのための出資は必要である。お金をまったく出さずに質の高いものを得ようとしても、それは不可能なのだ。

 今はまだ良いが、現状での施策がこのままの方向性で継続されるなら、日本の医療に明るい未来はないようだ。

 客観的なデータをもとに、ある特定の方向性に収斂されていくイメージ操作から脱し、医療の現状を正しく把握し、そこから我々に何ができるかを考える材料を与えてくれる、とんでもない水準の、広い範囲と射程をもった骨太な入門書である。

異議あり! 生命・環境倫理学
岡本裕一朗 ナカニシヤ出版 2003 【bk1】

異議ありただし建設的論理これと言ってなしつまり意味もなし

 生命・環境の数々の具体的な問題が紹介されるとともに、それらに対して倫理学の立場から与えられている「解答」が紹介され、著者はそれらの「解答」に対し疑問形で「異議」を唱えるという形式での整理をおこなっている。著者の両倫理学への接近法は、それらに蓄積された膨大な言辞の中からたった一つの冴えた「解答」を引き出そうとすることと、自分に納得のいく「解答」が見つけられない場合には両倫理学を詰(なじ)り、謗(そし)り、「終わった」と見限る方向に「異議」を唱えることであり、課題の一つでも引き受けて自分なりに責任をもって何かを模索するための糧とすることではないように思える。

 とはいえ、各章では少しずつ意味ありげなことも言っている。しかしそれは可能性としての立脚点を仮定し、その立場からはこのようなことが言えるという、異議を唱え否定する方向への非建設的な意味があるのみであり、冷静になれば形而上学的に遊んでいるようにしか読めない。ここで著者が(誤解されることも多い言葉であるが)実存的に課題を解こうとしていたのなら、それこそが応用倫理学の営みになっていたはずであり、「終わった」という誤った宣言をすることもなかったと思われる。その間(はざま)を際どいところですり抜けて明後日の方向に行ってしまったのが非常に残念である。

 「おわりに」には

本書の試みは、今風に言えば、「脱構築(ディスコンストラクション)」の試みと考えられるだろう。デリダがヘーゲルに対して語ったことを、私は応用倫理学に対して行ないたいと思った。「応用倫理学を笑わんとすること。(……)つまり、応用倫理学者の通った道をそのまま辿り、そのやり口を理解し、その詭弁を借り、その持ち札で勝負し、思うがままに策略を繰り広げさせておいて、実はそのテクストを横領してしまう。」(J・デリダ、三好郁朗他訳『エクリチュールと差異』上、法政大学出版局、一九八三年、一五九頁)少々刺激的だが、この方法以外には他の道はなかったのである。この方法が果たして適切であったかどうか、その判断は読者にゆだねるほかないだろう。

 とある。(「今風」と言われてもちょっと困る。なぜなら脱構築して現象学的に接近しようとする方がわたしは意味があると考えているし、どちらかと言えばそっちの方がより「今風」だからだ。)ここで問題になるのは、生命倫理学や環境倫理学は一体いつから著者がその中で遊んでいる形而上学になったのかということであり、また、脱構築は一体いつから知識と実践の破壊をしか意味しなくなってしまったのかということである。もちろんどちらもそんなことはない。

 哲学者になろうと志した者がついに哲学「研究」者で一生を終えることは珍しくないそうだ。生命や環境の倫理学でそのような悲劇を繰り返しても仕方がない。生命倫理学や環境倫理学には、それらの中に蓄積された知識や思考の伝達としての学問という面だけではなく、自分なりの解答を得ようと模索する学問という面もある。そして若い学問である以上、後者の面がより強い。

 今までの蓄積の中に妥当な解答が見いだせないなら、抽象的な意味で安全かつ何もない何処とも知れぬ場所から「異議あり!」と言ったり「終わった」と宣したりするのではなく、自分の立ち位置をはっきりさせ(この本がなぜここまで非建設的になってしまっているのかと言えば、著者の立脚点が著者自身にまったく不明だからであろう)、茶飲み話の水準に埋没するのではなく、学問的な手続きに厳密に従って新機軸を打ち出せばそれでいい。

 異議を唱えてワーワー言うだけなら初学の者にも可能だ。だがたくさんの学生を抱えている身として、つまり先学として、著者は課題を提出した章を疑問形で終えるのではなく、結果として間違うことになるとしても、何らかの立場に立ち、その立場から恐れずに何らかの解答を、あるいは解答の模索の道筋を示すべきであったとわたしは考える。つまり、課題の提出方法ではなく、著者が提出した課題への著者なりの解答が妥当か打倒すべきかを後学の判断に任せるべきであったと考える。他者から否定されることを恐れて何が学問なものか。

 余談だが、「自己決定」を問題にしている章もあるのに、小松美彦がまったく引かれていない。また生命倫理学を「超」えようとする営みの書であるはずなのに、森岡正博の論も効果的には引かれていない。激しく意味がわからない。まさに小麦粉か何かである。

クローン人間
粥川準二 光文社新書080 2003 【bk1】

クローン人間
ついに誕生!
しかし、真の問題点は、
人体の資源化にある―
 (初版の帯より)

 「クローン」という言葉からいわゆる「クローン人間」のようにオカルトなものしか想像できなかった人は、クローンが似非[エセ]SF映画や似非SF小説に描かれるようなオカルト的存在ではなく、現在でも一部は十分に可能な技術の一つであることを知るだろう。

 人間のクローンは、学術的には「クローン人間」と言わず「ヒトクローン」と言う。だからタイトルを見たときオカルトな話題の本なのかとも思ったが、本文冒頭に「ヒトクローン個体」という言葉が出てきて(個人的には)妙に安心できた。

 成体の体細胞核に由来するヒトクローン個体の「産生」(文部科学省の生命倫理委員会などではこの言葉を使っている。【例1】【例2】に賛成する側・反対する側が陥っている論理的な間違いを指摘するのはもちろん(たとえば素朴な水準から矛盾に満ちている点など)、今はあまり知られていないような、マウスの体細胞クローン個体を使って移植の実験をしたところ、従来論理的には起こるはずがないと考えられていた拒絶反応が起こった証拠なども提示してくれる。そして最終的には「セラピューティック・クローンは行うべきではない」という結論に達する。

 「セラピューティック・クローン」とは、いわゆる「クローン人間」≒「体細胞ヒトクローン個体」の産生とは別の、ES細胞培養の技術を用いてクローン臓器やクローン造血細胞などを作る技術のことである。そこには人体を今以上に資源化してしまう流れの出発点とも取れる思考がうかがえるため、今後はクローン個体よりもセラピューティック・クローンの問題点の方がクローズアップされていくことになるだろう。

 しかし、粥川氏も、この本に登場する他の専門家の方も、「クローン」と言うと、一般の人の多くや、あるいはそのような技術と近接した場所にいるはずの研究学生などの多くも、ほとんどが「ヒトクローン個体」のことしか思い浮かべることが出来ないでいるという、いわば想像力の涸渇状態を嘆いてるのが印象的である。そして、ヒトクローン個体の産生でセンセーショナルな話題を提供する特定の新宗教団体や特定の医師たちは、世間に対して「めくらまし」のようにして機能し、いろいろな研究機関や個人が開始している・開始しようとしている「セラピューティック・クローン技術は是か非か?」という、真に議論されるべき問題を覆い隠す作用を果たしている、とする。

 技術的に可能であるかどうかと、その技術を用いても良いかどうかは、まったく別のカテゴリの問題である。科学的技術や医学的技術の恩恵を受けるべき我々は、技術者や医師たちだけにこの問題を押しつけず、何が技術的に可能なのかを知らねばならないし、そこにどんなリスクがあるのか、倫理その他の観点から考えなければならない問題は何なのかを考えなければならない。

 「クローン」をとりまくいろいろな事実や問題点を非常に詳細、かつわかりやすく説明し、技術・論理・運動・倫理・実践など、いろいろな高さや角度から検証・整理してくれている。また、存在が明らかになったさまざまな問題をそのまま放置するのではなく、筆者の方がその問題の解決法を冷静に追求しようとしている姿勢には非常に好感が持てる。かつ、自分の考えを決して押しつけようとしないスタンスもすばらしい。

2003年3月31日 修正

人は死んではならない
小松美彦 春秋社 2002年 【bk1】

人は死んではならない

 「自己決定」や「自己決定権」を考えている人は必読。

 『死は共鳴する』(勁草書房一九九六)で「死の自己決定権」に根本的な批判を展開した著者が、さまざまな立場の著名人とおこなった対論集。第1部・現代医療は私たちの生と死をどこへ連れてゆくのか 第2部・私たちの死は「自己決定権」で守れるのか 第3部・死の共同性をどう評価するのか、の三部構成。

 対論の相手は永井明(元内科医・現作家)、小俣和一郎(精神科医)、宮崎哲弥(評論家)、市野川容孝(社会学者)、笠井潔(作家・評論家)、福島泰樹(歌人・僧侶)、最首悟(環境哲学者)、土井健司(神学者)。沈着冷静な議論ばかりであり、非常に面白い。著者へのインタビューもある。

 著者が立っているのは、「死」や「死亡」を第三者的な出来事として想像している限りでは非常にわかりにくい、しかし具体的な近親者を想定して想像すると格段にわかりやすくなる、「死は自己閉塞し得ない ≒ 死は共鳴する」という視点である。だが、著者が一九九六年に放った「死は共鳴する」という言葉は、さまざまに理解され、ときに誤解され、賛否両論を生んだ(死が個人に閉塞しないものであり、他者に共鳴され、必然的にある程度以上他から影響される性質のものであるということは、‥‥個人の死は、先の戦争のように、共同体に都合よく利用されるべきものだということなのか? 等)。

 その後、著者は「「共鳴する死」は死の話ではなくて、実は生の話」であること、その背後に自分が「人は死んではならないという〈願い〉」を持っていることに気づいた。本書におさめられた対談のほとんどはそこから始まっている。「その存在をいかに殺すか?」を目的としていないなら、生や死をめぐる問題を考える時には、著者が大前提として持っているような「人は死んではならないという〈願い〉」を持っていた方が良いだろう。

 また、読むうちに、現実のさまざまな情景を思い浮かべる想像力を涸渇させ、世間に流布しているイメージに寄りかかるだけで、事実関係を一切把握しないまま何かを語ろうとしても無力である、‥‥そういう事実も見えてくると思う。一般にあまり知られていない、しかし少しでも情報収集をしたことのある人にとっては常識以前の事実も目白押しなので、著者や対論相手が前提として共有しあっている事実を知ることから受ける示唆さえも非常に多いことがあると思われる。

昏睡状態の人と対話する
プロセス指向心理学の新たな試み
アーノルド・ミンデル著 藤見幸雄・伊藤雄次郎訳
NHKブックス 2002 【bk1】

 死に瀕し、昏睡状態に陥った人とでも、特殊な方法を用いれば、コミュニケーションを取ることが可能である(ことがある)。ギリギリの状態にいるその人のココロに忍耐強く働きかけ、コミュニケーションを取り、対話し、その人の立場から世界を理解し、その人がどうしたいのかをともに模索し、援助しようとする。そのような「昏睡状態の人と対話する」心理療法的な活動は「コーマワーク」と呼ばれている(なお、「コーマ」とは「昏睡」のことである)。

 「コーマワーク」の前提となっている「プロセス指向心理学」は「プロセス・ワーク」とも言われる。(ケン・ウィルバーで有名な「トランスパーソナル心理学」から出た新しいタイプの心理療法の一つであり、トランスパーソナル心理学の世界観を前提にしている。)

 プロセス・ワークは、こちらから患者に一方的に働きかけ、いわば相手を操作することで治療しようとするのではなく、「相手は本来的に自己治癒力を持っている」という前提で、それを相手に気づかせることで治療しようとする。患者がこちらに送ってくる信号の「プロセス」(過程)を大切にし、それに寄り添い、患者と一緒に治していこうとする。

 コーマワークはその精神に則った治療法である。

 日本ではほとんど知られていないこのコーマワークだが、海外では実際に行われている。

 本書は、著者が創始し実践したコーマワークの数々の具体例を「読物」ふうに紹介するとともに、コーマワークの理念と実践方法に共鳴した者(心理学的な裏付けを学習し体得した人である必要がある)が実際にコーマワークを行うときに何に注意すべきか、どのような心構えですべきか、などに指針を与えてくれている。

 本書が出される以前にコーマワークにふれていた一般書は、日本語では諸富祥彦『生きていくことの意味 トランスパーソナル心理学・9つのヒント』(PHP新書) 【bk1】だけであった。また、昏睡にも種類があるため、個人的には、すべての昏睡にコーマワークの試みが成功するわけではないと思われる。しかしそうだとしても、また、まだまだマイナであると言ってよいコーマワークだが、これから著しく発展する可能性を秘めた分野だと思われる。

 なお、夢診断をしたり箱庭を作ったりするだけが心理療法ではない。時代や場所によっていろいろな現れがある。それをまず押さえておく必要があると思う。

私の臓器はだれのものですか
生駒孝彰 NHK出版 生活人新書 2002 【bk1】

私の臓器はだれのものですか

  龍谷大学学国際文化学部教授、生駒孝彰先生の最新刊である。初版に巻かれている帯には

 安楽死。
 尊厳死。
 脳死移植。
 生体間移植。

 宗教は
 いのちを
 どう考えるか。

とあり、表紙見返しには「キリスト教、仏教など、生と死を見つめる宗教者たちの教義と苦悩の足跡を分析する」とある。まさにこの紹介どおりの内容であり、本書の多くの部分は臓器移植に対する各宗教の考え方の差異や、答えを出せずにいる宗教団体が陥っている苦悩などの紹介に割かれている。(もちろん本願寺派も俎上に上がっている。)

 具体的には、アメリカ(主としてプロテスタント)と日本(主として仏教)での臓器移植の考え方の変遷や実施状況の歴史、現状の対比が本書の中心となっている。そこから派生的に仏教やプロテスタント以外の宗教の考え方も紹介されている。その内訳をすべてあげることは不可能だが、一部を紹介すると、カトリックなどのキリスト教各派はもとより、もう一つの世界宗教であるイスラム、大本教や金光教などの日本の各新宗教、台湾仏教や韓国仏教の考え方も紹介されている。

 また、臓器移植だけではなく、人工妊娠中絶についても真摯な視線を向けるとともに、いわば生命操作の時代を生きることになるわれわれが今後直面するであろう「いのち」をめぐる様々に困難な課題(クローン・遺伝子など)についても言及している。

 先生の既刊書である『インターネットの中の神々』(平凡社)【bk1】もそうであったが、現地に赴いての地道な調査とともに、インターネットを駆使することによってのみ知ることのできる最新・最深情報も満載である。また、実際に各宗教団体とEメールをやりとりしてその教義や態度の実際を確かめるといったことも、ごく普通のこととしてされている。

 ともかく圧倒的な情報量である。臓器移植をめぐる各宗教のスタンスと現状、苦悩をこれだけ網羅して紹介した書は類を見ないと思われる。


 余談、というか何と言うか。三年前に石田が棚原氏と共同で実施した浄土真宗本願寺派僧侶を対象としたアンケート調査の結果のごく一部が「本派本願寺のジレンマ」に紹介されています。石田の下の名前が誤植になってますけどね‥‥‥‥ (>_<。)

生命学に何ができるか
脳死・フェミニズム・優生思想
森岡正博 勁草書房 2001 【bk1】

生命学に何ができるか

 本書の著者は、10年以上前から著者の提唱する「生命学」という立場から生命や人間の生き方、自分以外の「他者」との関係の築き方などについての論考を展開している。

 本書は著者が緻密に積み上げてきた「生命学」の集大成の書であり、かつ、「生命学」の学問領域と立場、射程、方法論を示すことにより、独立した学問としての「生命学」の誕生を高らかに宣言した書であると思われる。

 (もっとも、著者には『生命学への招待』という力作が存在する。「生命学」の誕生はその時に宣言されていた。しかし著者自身『生命学への招待』では言い足りなかったこと、誤解されうる文言があることを認めている。それをいま一度整理し直して「生命学」の地図を新たに書き直したのが本書なのかもしれない。)

 西欧で誕生し、「パーソン論」に代表される「“パーソン”でない人間を合倫理的に殺すにはどのような論理が必要なのか。“パーソン”でない人間を殺した時に我々が感じる“やりきれなさ”のようなものから、我々はどのようにすれば自由になれるのか」という倫理的指針の構築を目指して現状追認の方向に本質的に閉ざされている「生命倫理学」の限界を世界で初めて論理的に示し、それに代わる論理構築やスタンス、生命を見つめるまなざしを示し得た点が本書の真骨頂であると思われる。

 おそらく、生命を見つめる学問や論理は、「いかにすればそれを合倫理的に殺せるのか」という方向にではなく、「いかにすればそれを合倫理的に生かすことが出来るのか」あるいは「それを殺してしまった我々は何を自身の責任として引き受け、それ以後をどのように生きれば良いのか」という方向に進むべきである。それを認識し、それを自己に問いかけ、そして歩き出す。それが「生命学」なのである。

弱くある自由へ
自己決定・介護・生死の技術
立岩真也 青土社 2000 【bk1】

弱くある自由へ

 『私的所有論』(勁草書房1997)という大部を著して、その中で「自己決定」について深く論じた著者が、その後に展開した現実を見据え、新たな思想を展開させている。

 「自己決定」はある程度は便利な論理である。しかし、「堅い」自己決定は案外すぐに致命的な限界の壁にぶちあたる。だから「緩い」自己決定を手に入れた方が良いのではないか、ということが出発点にあり、そこからさまざまな問題が考えられている。

 今は殆どどの論者も言及していないが、遺伝子診断と保険をからめて考察し、その関係をどうすべきなのか、著者なりの結論が提示されてもいる。

 収録されている論文は雑誌『現代思想』に掲載されたものが多い。対談もある。どの論もかなりの説得力がある。

 著者のホームページアドレスが本書冒頭部に記されている。ここへ行けば、びっくりするくらいたくさんの情報が得られる。もちろん紹介させていただきます。

http://www.arsvi.com/index.htm
(リンク先更新:2003/03/27)

脳死と臓器移植法
中島みち 文春新書 140 2000 【bk1】

脳死と臓器移植法

 「健康人である大多数の国民が殆ど関心を持たない問題、しかも、その本質までしっかり理解しようという関心を積極的に抱きにくい問題」(本文より)―「脳死」と「臓器移植」。

 限りなく黒に近い灰色として認識されている和田移植(1968)や筑波大の膵腎移植(1984)、ICUでの見聞をまとめて『見えない死』(文藝春秋1985)を発表した著者が、「臓器の移植に関する法律」(1997[平成9]年7月16日 法律第104号)が制定されてから3年経ち、いまだにさまざまな誤解やごり押しが渦巻いている現状を危惧し、今一度「脳死」や「臓器移植」を問う意味で世に問う書である。

 「脳死」を一律で「人の死」としようとする動きが最近になって再び胎動を始めていることを憂い、そうではなく「脳死」を例外的な死とし、そこから臓器移植をする道こそが、反対派・賛成派に共通の着陸地点ではないか、という論を提示している。著者の論は生者を死者にする論でもある。だが、さまざまな問題が「脳死」と「臓器移植」を取り囲んでいる現状では、これしかないのではないかと私は思う。また、一律的な死を法で規定してしまえば後は万々歳だとする一部の推進派の考え方には、彼女と一緒に疑義を呈することしか私には出来ない。

 著者のそのような論を「アウシュビッツ的だ」として批判する刑法学者に対し、著者は、「しかし、観念の中で脳死状態にある患者を死んでいるものにしてしまいさえすれば、観念の中のアウシュビッツ強制収容所なるものも消え去ってしまうということのほうが、私にはよっぽど怖いように感じられるが、如何なものであろうか。」と、言葉は緩やかだが、実質的には強い態度で臨んでいる。

 臓器移植法が制定されたときに一体何が起こっていたのか、恐らくこの国の大部分の人間が全く知らなかったことも詳細にリポートされている。情報開示とプライバシーという困難な問題にも果敢に取り組んでいる。2000年秋に来ると予想されていた臓器移植法改正についても、「脳死」や「臓器移植」の深い理解をもとにした批判を展開している。なのにこれが標準的な新書サイズに収まっている。賛成派にも反対派にも強くお薦めできる。まだどちらとも態度を決めかねている人にも。

 なお、内容が論理的で硬派であるにも拘わらず、文章は平易で非常に読みやすい。これは著者が問題を非常に包括的によく把握しているためである。

脳死・クローン・遺伝子治療
バイオエシックスの練習問題
加藤尚武 PHP新書086 PHP研究所 【bk1】

 加藤尚武氏は哲学者であり、日本のバイオエシックス(生命倫理学)研究では第一人者である。著書に『バイオエシックスとは何か』(1986年、未來社)、『生命倫理学を学ぶ人のために』(1998年、世界思想社、加茂直樹氏と共編)などがある。

 著者は「あとがき」で「国民の誰もが知っておくべきバイオエシックスの知識をまとめておく、最近の傾向を鋭く突き出して日本のバイオエシックス研究にとって刺激となる、大学や高校の教科書に使えるという条件を満たす本を作ろうと思った」と書いているが、その願いはほぼ完璧に実現されている。本書は専門的な知識がそれほどない者にも非常に理解しやすく書かれており、随所に散りばめられた解りやすい例(あるいはジョーク?)の助けもあって異常なほどに読みやすい。だがそれでいて専門的な問題は一切割愛されていないのだ。非常に希有な本である。

 バイオエシックス(生命倫理学)という学問は、1970年代に始まった、比較的まだ新しい学問である。それが最大の目的としているのは、医療現場で用いられるべき倫理的思考基盤の整備であり、医療技術の進展に伴って続々と提示されはじめた臨床的な諸問題、つまり「医療行為はどこまでなら許されるのか?」という疑問への解答を求め、早急に一定の線引きを行うことである。具体的には、本書のタイトルに明示されている問題の他に、不妊治療や人工妊娠中絶、性転換手術、安楽死、インフォームド・コンセント、クオリティ・オブ・ライフ、アクセス権などを扱っている。もちろん本書でもそれら難問への、現時点での解答が示されている。

 本書の読者は、バイオエシックスをとりまく状況は現在も刻々と変化しつつあるという当たり前の事実を改めて知ることとなる。「ヒトゲノム(ヒト遺伝子に組み込まれた30億の塩基対)解析」という、殆どSFと見紛う研究が現在世界中で行われている事実を事実として受容せざるを得ないこと、つまり我々の医療技術は引き返せない段階に突入したこと、よって我々に最早「○○絶対反対」という選択肢は用意されていないことに思い至った読者は、愕然とするとともに、バイオエシックスへの興味をかき立てられ、著者の示す解答に、しばし満足するだろう。しかし本書は「そこで宗教がなすべきことは何か?」という問題には一切解答を示さないので、読者は自分の頭を使って考えることの重要性も知るだろう。

脳死の人
森岡正博 東京書籍1989 →福武文庫1991
  →法蔵館2000 【bk1】
これは必読でしょう

脳死の人

 立花隆の脳死三部作(『脳死』『脳死再論』『脳死臨調批判』中公文庫)に対する素朴な疑問から著されたという書。現在の時点で「脳死」を語ったり考えたりする際には恐らく避けて通れない書であると考えられる。名著であると思う。

 「脳死」や臓器移植を主問題として扱った書籍は数多く存在するが、本書の視点はある種独特である。氏は「脳死」に対し医学的な見地からの解読よりも、氏が独自に立つ「生命学」の立場や文明論の視点からの考察に力を注いでいる。「なぜ氏は医学的な立場より氏独自の立場からの論が「脳死」や臓器移植を考える際に有効と考えるのか?」それは読んでいただきたい。

 少しだけ内容を紹介すると、「医学的・法的な問題の解決を人々に納得させるやり方でコンセンサスが形成される」という移植推進派の一部に根強い見方が根本的に誤りであることを指摘したり、「脳死の人」の身体をさまざまなかたちで利用しつくそうとする一連の動きを紹介し警鐘を発したり、死の受容には「わたしの死」「わたしと親しい人の死」「わたしと親しくない人の死」という三種類の受けとり方があることを指摘したり、効率主義で生命を相対化することがもたらしかねない危険性を指摘したりし、それらを論理立てて説明し尽くしている。「脳死」臓器移植や生命倫理学系の問題を考えるために必要な視点を得るには好適な本であるとともに、それ以外の問題を考える糸口も確実につかめる、そういう本である。

生命学への招待
バイオエシックスを越えて
森岡正博 勁草書房1988 【bk1】

生命学への招待

 氏のデビュー作。従来からあるバイオエシックス(生命倫理学)を「越え」る観点から著されているため、それへの理解があると読書の楽しみはそのぶん増加する。しかし生命倫理学への知識がなくとも十分啓蒙され、触発され、さまざまなページで驚愕の真実を知ることとなるだろう。

 著者が三〇歳のときに世に問われた書であるため、文章はかなり熱い。読者は本書に現れる思考の方向性、それを語る氏の熱意、断言の妙(小気味よい)などに心打たれ、わたしのように純粋な人間は、恐らくアッという間に森岡氏のファンになってしまうだろう。そうならないためには批判的あるいは非難的に読んだ方が良いだろう。

 またバイオエシックス論者が折りにふれ主張するパーソン論(思考できない人間は人間ではない、だから胎児はいくら殺したって構わないのだ、植物人間の人間だって同様だ、無脳症の赤ん坊や「脳死」者なんて殺してアタリマエだろう、的な論)への徹底糾弾に大成功していて、わたしは胸がすうっとした。

 だが胸がすうっとするだけで終わってはいけないのであった。バイオエシックス論者は自我を延長して他人に押しつけてくる傾向があまりに強いのである。自分で考えなければ。

生命観を問いなおす
森岡正博 ちくま新書1994 【bk1】

生命観を問いなおす

 ホームページで氏本人が紹介するところによると、生命観を考えるテキストとして最適である。ちくま新書ということで、かなり薄く、かなり読みやすい。

 読者は氏の論に誘(いざな)われ、「脳死」臓器移植その他さまざまな生命倫理学系の問題について考えているうち、氏独自の壮大な文明論的な観点をも知ることとなるだろう。そしてリサイクルや環境問題などについても新たな視点を得、大袈裟に言えば、今までの自分が携えていた視点や、もっと極端なことを言えば生き方そのものを検証する必要性に迫られることさえあるかもしれない。

 具体的には、第六章で行われる梅原猛の「臓器移植=菩薩行」論の検証が圧倒的であった。梅原が提唱する論の問題点をここまで明確に浮き彫りにし得た書籍をわたしは他に知らない。「菩薩行」であれなんであれ、他人との関わりを除外したところで語り、実践するのはあまりに拙い生き方である。あるいは京都学派と全く変わらない、と言うべきか。個人でちくちく研究して精神世界の深みにはまっていくだけであるのならそれで全然構わないが、しかし、わたしたち人間は他人との関わりの中に生きているのである。

 巻末には氏のHPのアドレスが紹介されている。どうぞ行ってみてください。

http://www.lifestudies.org/jp/
(リンク先更新:2003/03/27)

死は共鳴する
脳死・臓器移植の深みへ
小松美彦 勁草書房1996 【bk1】

死は共鳴する

 現在、医療のさまざまな局面で「自己決定権」を拠り処とした行為が是認されだしている。「安楽死」然り、「尊厳死」然り、「脳死」然り。

 「自己決定権」を恐ろしく簡単に言えば「本人が良いと言ったのだからそれを行って良いのだという考え方」である。現在の医学はそれに則った形式で行われることが殆どである。

 しかし、氏はこの「自己決定権」に一貫して疑義を呈し続けている。

 医者のパターナリズムに対抗するためのもの、男尊女卑の価値観に対抗するためのものとして「自己決定権」を持ち出す場合、それはある程度の成果を収める。しかし「自己決定権」を唯一の拠り処として論じ出すと、われわれ人類は当初思ってもみなかった困難な地平に追い込まれてしまうのではないか、というのが氏の論の主眼である。

 論文でありながら、構成や語の響きなどが綿密に計算されており、非常に文章が美しい。「自己決定権」論批判としても有益であるし、論理構成の緻密さも参考すべき点が非常にたくさんある。

(氏は短髪に保っていれば非常にダンディーで格好よい人物である。普段の言葉遣いは非常に理性的かつ非常に真摯である。さすがにそこまで堅いわけではないが、しかし日常生活においても本の中の喋り方に似た喋り方をしているようである。そして、ここが重要だが、飲むと舌鋒はますます冴えわたる。)

死生学がわかる。
アエラムック 朝日新聞社2000 【bk1】

わからないよ。

 読むとますますわからなくなることで有名な「わかる。」シリーズ。

 「死生学」は「タナトロジーThanatology」の訳語であるから、正確に訳すなら「死学」となる。だが、本書でも言及しているように、生と死はどちらか一方を真剣に考え出すと自ずと他の一方を考えざるを得ないものなので、この訳語で妥当だろう。

 本書は「死生学」の誕生・歴史・展開・現状そして今後の課題などについて総勢三〇人の論者・研究者に教えを請い、さまざまな領域・視点からそれぞれの「死生学」を展開させている。そのフィールドはかなり広範で、政治学・人間学・心理学・生命倫理学などに亘っている。森岡正博・小松美彦両氏も寄稿している。(小松氏の写真はちょっと古い。)「ホスピス」と紹介されてはいるが「ビハーラ」に携わっている本願寺派布教使の木曽隆氏も寄稿している。

 「死生学」の周辺にあるキーワードや本、映画の紹介等も充実しており、さまざまな実用的相談所(自殺を思いとどまるように説得してくれる電話相談所など)の連絡先も紹介されている。
 死生学を考え始めるための明確な方向性は打ち出されていないのかも知れないが、死生学の概要や可能性を広く知りたい人にはおすすめである。

「脳死」と臓器移植
梅原猛編 朝日文庫2000 【bk1】

「脳死」と臓器移植

 「脳死」臓器移植に反対あるいは慎重な態度をとる十七人の論を、医学、法律、哲学・宗教の立場からに分類して編集した書。(1992年に出版された書の文庫化。)巻末には「脳死臨調答申」(1992年に出された)と「臓器移植法」(1997年に施行されたものであるため当然文庫版のみに収録)もついている。

 また、「哲学・宗教の立場から」の章に収録されている梅原氏自身の「脳死・ソクラテスの徒は反対する」は、もし読むのであれば、森岡正博『生命観を問い直す』第六章と併読した方が良いだろう。

私は臓器を提供しない
阿部知子・吉本隆明・宮崎哲弥・山折哲雄ほか
 洋泉社新書2000 【bk1】

私は臓器を提供しない

 総勢一〇人の論者が、自分がいかにして臓器移植に反対する旨を決定するに至ったのか、その理由を、医師、思想者、仏教者、ジャーナリスト・ライターそれぞれの立場から論じている。ある論理に拘泥するあまり素直な感情を自主的に封殺してしまうことの危険性を指摘している、という印象がある。

 わたしがいちばん面白いと思ったのは宮崎哲弥氏の論である。彼は親鸞が「某 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と語ったとされる『改邪鈔』の記述を引用して臓器移植を容認する論に対し、仏教的な見地から反論を試み、成功裏に完了している。(『改邪鈔』著者の覚如が引いている親鸞のこの発言は親鸞がどのような文脈で語ったのかが不明瞭であるため、ここだけをもとにして「親鸞はこう言っている、だから……」と語り始めるのは、賛成であれ、反対であれ、かなり危険なのであるが。)

操られる生と死
山口研一郎編 小学館1998 【bk1】

操られる生と死

 脳外科医の氏が、「脳死」や臓器移植、生殖医療、遺伝子操作、安楽死、尊厳死、自己決定権……。その他「生命操作医療」と呼ばれうる医療やその周辺にある論理をめぐり、さまざまな分野の論者の意見を集めて構成した書。心肺同時移植を拒否した心臓疾患の患者も寄稿している。三人称や二人称から「脳死」や臓器移植を語った書が溢れる中、一人称の視点から語られている文章は非常に珍しいのではないか。

 生命がモノと化してしまいそうな勢いで進んでいる現代先端医療全体に警鐘を発している書である。

操られる死
<安楽死>がもたらすもの
ハーバート・ヘンディン著 (大沼安史・小笠原信之訳)
時事通信社2000 【bk1】

操られる死

 「自己決定権」を元にして為される究極の「医療」行為の一つに「安楽死」があるが、それが先進国中で唯一「合法的」に行われているのがオランダである(「安楽死」先進国オランダ)。


 本書はオランダの「安楽死」事情を紹介するとともに、患者の同意がないまま、さまざまな外圧からいわば押しつけで「安楽死」が行われている事実をも紹介し、「安楽死」推進派の論理を検証する。

 また「死にたい」と意思表示する人に思いとどまることを一切要請せず何の躊躇もなく自殺幇助をする医師を紹介し、その検証も試みている。

 たとえそれが「医療行為」として認知されているとしても、それをそのまま鵜呑みにして、その行為を医師や著名な学者の作る壁の中に囲い込ませてはいけない。医療行為や医療技術は、医療に携わるのとは異なる側、つまりそれを受ける一般人の感情に根ざした論理で絶えず検証していかなくてはならない。そう強く思わされる書である。