牡牛のTRPG総論 2010年11月号




『マルチエンディングシナリオの分析 ――ゲームのシナリオ構造論――』




2010年11月09日
牡牛(orshi2004*at*hotmail.com)
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前回までは、テーマの論証の都合から、古参PL向けのトピックばかりを扱ってきました。
構造的な問題は繰り返されるとはいえ、どうにも間口を狭めすぎた感じがします。

そこで今回は、古くて新しい問題、“物語とゲームの関係”を取り上げてみます。



1、一本道シナリオと、ゲームとの分離

コスティキャンが「物語は一本道であり、ゲームは複数の選択肢を持つ(or持つべき)」と書いたように、
ゲーム論では「物語とゲームは両立せず対立する。ゲームのためには、物語は軽視すべき」といった主張が古くからあります。
これに対する反論から、「ゲームとは何か、物語とは何か」の問いに、新たな切り口が見つかるのではないでしょうか。


「物語とゲームは両立せず対立する」という1つ目の主張に対して、まず反論が考えられます。

1つには、アクションゲーム(ACT、STG、GUN)のシナリオの扱いです。
アクション(資源管理)においては選択肢があって、スコアの形で優劣が評価される。大きくミスすればゲームオーバーもします。
アクションゲームは、「無数のアクションをリサーチし、最適解を絞り込め」「最適なアクションを取れるよう訓練しろ」とPLに迫るものの、
物語そのもの(例えば、マリオがピーチ姫を救う)は固定であり、それを分岐させるべきだと批判する動きは見当たりませんね。
アクションゲームでは、「一本道の物語とゲームシステム上の選択肢とが両立します」が、
それは、物語と選択肢とを関連させず、独立に扱うよう設定することで、可能になっています。

コマンド選択式ADVの中でも、推理ものは、アクションと同じ「総当たりのなかから最適解を絞り込む」という攻略の理路を持っており、
探偵が犯行の手法(HOW)、犯人(WHO)を特定し、犯人が動機(WHY)を明かす、という古典的なシナリオ形式を持ちます。
ここでは、絞り込みを機能させるには、「シナリオが一本道であること」が必須の前提条件になっています。



2、物語とゲームを両立させる、マルチEDシナリオ

一方、ADVやCRPGにおいては、物語の描写を強化するという方向で
「ゲームにおけるシナリオは、選択肢に応じて複数に分岐する(orするべき)」という2つ目の主張が見られます。
それを最も反映しているジャンルが、ギャルゲーで現在多数を占める恋愛ADV・ノベルゲームです。

好感度かフラグか、育成のようなゲームシステムの有無、そういった違いを問わず、
「シナリオが複数に分岐している」ことだけが、マルチEDシナリオの要件です。


シナリオの分岐と聞けば、樹形図(ツリー図)をイメージする人が殆どだと思います。
ですが、その作り方は、下図のように2通りあるのです。

マルチED1

シナリオを作る側であれ、ゲームをプレイする側であれ、ゲームが好きな人は、
前者のように「お題やネタや状況をまず1つ決めて、そこから想像を広げていく」という姿勢に慣れています。
感情移入して観賞している最中は、だいたいこちらの姿勢になります。

後者は、分岐になる以前の「複数の独立したシナリオ」を意識させ、それぞれの一本道の物語に焦点を当てる姿勢です。
ひとまず作ったシナリオを推敲して完成度を上げるときや、観賞後に第三者的に分析するときは、こちらの姿勢になるでしょう。

マルチEDシナリオは、「1つの物語と1つのゲームは両立しないが、複数の物語と1つのゲームは両立する」ことを示したのです。


そしてこの構造を作る手法としては、
   ・1つのシナリオを前提として、新たな物語を分岐させる
   ・複数のシナリオを前提として、ゲームとして統合していく
2つの手法が、同時に成立します。

ノベルゲームを生んだエロゲージャンルでのPL層のなかには
「1タイトルに複数のシナリオを入れるなら、テーマなど何らかの統一感がほしい」という反応がありました。

学校のような舞台が共通するだけで、誰か1人との恋愛が始まれば別のヒロインは忘れ去られる。
こういったギャルゲーの安直なテンプレでは、複数のシナリオがひたすら乖離していくだけで、分岐関係を感じさせません。
複数のシナリオを結びつける糸となるような、何らかの統合原理が求められたのです。

これは一面、シリーズものを作る葛藤によく似ています。
「前作と同じなら、新作を作る意味がない。前作と違いすぎれば、シリーズものにならない」
“同じと違いの両立”という矛盾を成立させることにしか、答えはありません。
まして同一タイトルであれば、各シナリオが“全体の中での位置・意味”と看做されやすくなります。



この統合原理に対する回答は、大まかに3つあります。

1つ目は、物語における恋愛要素のバリエーションに、テーマやコンセプトといった限定・縛りをかけること。
キャラクタ同士の横のつながりは無いものの、シナリオのテーマで統一感がある。
あるいは、大きなテーマに対して、各シナリオが小さなトピックとなるよう位置づける、などの手法です。
最近だと、物語的な縛りではなくて、萌え属性による縛りも多いようですが。


2つ目は、恋愛とは別に、メインの物語となる主人公の行動目的を設定しておくこと。
ヒロイン以外の多数のキャラクタ間の関係を共通要素とし、全体像を多角的に描写していく手法です。
ライトノベルの『ブギ―ポップは笑わない』(上遠野浩平)で広まった、と言われていますね。

この手法には、
   ・視点が交代するときに、読者が混乱してしまう
   ・1つのシーンを視点を変えて何度も描くことで、
    物語のテンポ(進展度合いを、観賞時間≒文書量で割ったもの)が2倍、3倍と間延びしてしまう
という2つのリスクがありますが、ここでマルチEDシナリオを採用することで、
1シナリオ内での視点の交代を減らし、シナリオ毎のEDで区切りをつけられるので、欠点だったテンポが改善されるのです。

敵対組織との対立、事件の捜索・解明、脱出など、ミステリーやサスペンスジャンルと相性が良いですが、
医療もので、患者・家族・医者などに視点を配したものなども、少数ながらあります。


3つ目は、ヒロイン同士の横の関係(+主人公の3者関係)を、メインの物語とすること。
『ホワイトアルバム』『君が望む永遠』など、恋愛の三角関係ものと、
『月姫』など、バトルの三角関係ものがあります。

2つ目における“事件の多面的な描写”を、ヒロインの多面性(ほとんどは表裏の二面性)の描写に置き換えたもので、
「結ばれないなら殺す」的なヨゴレ展開が出来るようになり、敵味方2つのルートの落差が互いを引き立たせる効果があります。



3、主人公の描写にみる、2タイプの感情移入

ゲームと物語の両立をめぐってマルチEDシナリオが生まれ、それを物語的に消化しようとシナリオ内容が変化していった。
こうした変化とシンクロするように、主人公の描写にも変化が見られています。


まず、ゲームにおける主人公といえば、ドラクエをモデルにした“喋らない主人公”が語られてきました。

アクションゲームでは、PLが主人公(PC)の操作を繰り返すなかで、

   PL=頭・心、PC=身体
   頭脳と身体は、一体

というイメージが刷り込まれますが、コマンド戦闘を繰り返すCRPGも同じです。
これは道具一般に通じることで、ハンマーで釘を打つときや、自動車を運転するとき、
ハンマーや自動車は“わたしの身体の延長”とみなされます。

こうした操作によってPL=PCという図式が刷り込まれる作業の合間に、物語イベントで主人公にセリフを喋らせれば、
「俺はこんなこと言わない/こんな言い方をしない」と、主人公とPLとが乖離していくリスクが増えます。

このリスクは、「頭に反して、身体が勝手に行動する」ホラー、病気のときの「身体が他人みたいな感覚」などに例えられるでしょう。
あるいは、タクシーで目的地を取り違えられたときの「話が違う、約束事への信頼を裏切られた」みたいな反応もありそうです。


これがギャルゲー、マルチEDシナリオになると、事情は変わってきます。
ADVやノベルでの、クリックして文章を読み進める作業は、主人公(PC)を操作している感覚から離れていますし、
主人公に会話させずに恋愛シナリオを描く、というのも無理があります。

最初に出てきたのが、“ナンパ師のテンプレート”を持った主人公で、その次が“人間関係のテンプレート”を持つ主人公です。
前者が、初対面のヒロインとの出会いから関係を作っていくのに対し、
後者は、幼馴染、友人、姉・妹、委員長、メイドほか、主人公とヒロインの人間関係が固まっている。
ボケ突っ込みのパターンもありますが、いずれも「テンプレートによる会話」からスタートしていきます。

これらは、会話もするし積極的に行動もするのに、
“喋らない主人公、PL=PC”という枠組みの延長、無個性として語られてきました。
ですが、「喋っていても無個性だから感情移入できる」という説明には、やはり違うモデルが入り込んでいます。


ゲームばかりを考えていると見逃しがちですが、小説・映画・マンガなどを観賞しているあいだ、
“個性のあるキャラクタ、自分とは独立した第三者”である主人公に、わたしたちは簡単に感情移入しています。

逆に、登場しているのに、名前もいわず説明もされず喋りもしない、何を考えているのか判らないキャラクタがいたら、気持ち悪いでしょう。
「次回以降のヒキだな。そのうち喋るだろう」などと片づけないうちは、収まりが悪いはずです。



アクションゲームでは、アクション操作が身体的な一体感を生み、主人公の内面をPLへと引き寄せます。

   アクション操作 →PLの身体的な一体感 →PCの内面をPLに合わせる

という順で、PCの内面は一体感を補完するように構成されてきます。
もっとも、アクションを理由づける主人公の目的・動機は、シナリオライター(GM)が予め大まかに設定していますが。


他方、文章主体のギャルゲーでは、身体的な一体感を生むアクション操作がありません。
シナリオライターが主人公PCを第三者として登場させて、描写することで、
PLの共感や好奇心を得てからでないと、物語を展開させづらい。

   文章の読み進め →GMによるPCの描写 →PLがPCの内面に合わせる

という順で、「主人公PCについての描写」が先行する。
目的と会話、全体と細部を決めていく順番が、ここで転倒しています。
その穴を埋めるかのように、複数のシナリオから1つをPLに選ばせる、というマルチEDシナリオが採用されるようになる。

マルチED2

このコラムでは「ゲームと物語の両立」という動機から成果が出た、という順序で書いていますが、
実際には“アクション/文章”というメディアのデザインの力学が先行して
「マルチEDによるゲームと物語の両立」という理論づけが、事後的に成立したのかも知れません。

その力学によって作成する順番が入れ替わり、シナリオライターとPLの分担する作業領域が入れ替わってはいますが、
その一方で、物語としての全体像は保存されているように見える。

マルチEDシナリオには、こうした構造が想定されているように思えます。



<後書き>

TRPG論に続いてギャルゲー論を、同じような手法で分析しました。
エロゲージャンルからノベルゲームが生まれて定着していく95〜05年ころの約10年間の動き、
シナリオ構造の変化と、それを受け入れるPL側の見方の変化、その相関性を論じています。

同様のテーマでは、2000年前後の論説(中田吉法さんおにりんさん)、2006年のGLOCOM RGN第3回の茂内克彦さんの発表などがありますが、
前提をもう1つ遡って「アクションと身体・主体との一体感/文章と精神・客体への共感」という2項関係でまとめた感じです。


こういう違いを突きつめるなら、ゲームと物語は“時間意識と視座”の違いである、とも取れます。

   ・ゲームと物語が両立するマルチEDシナリオにおいて、プレイしている間はゲームであり、
    終わったプレイを振り返るときは物語となる。

   ・現在に身を置いて、選択肢を前に決定を迷っているときの視座はゲームで、
    過去に行った選択を振り返っているときの視座は、物語だ。

   ・転じて、複数シナリオが選択肢として等価であることに焦点を向けるのはゲームで、
    シナリオそれぞれの固有性・違いに焦点を向けるのは物語だ。

ゲームを物語化(主体的に選択した結果を、第三者のサンプルとして客体化)し、次に選択するときの参考とする。
ゲームの攻略のことでもあり、学習一般のことでもあります。

こうした意味で、ゲームをプレイしていても、小説や映画の観賞でも、あるいは学校や仕事・日常生活においても、
わたしたちは、ゲームの視座と物語の視座とを頻繁に入れ替えて、物事を見ています。
少なくとも、選択肢の有無で左右される“人間の側の視点”でゲームと物語とを区分けするなら、そういうことになります。








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