I∴O∴S∴外陣の学習思想
(Ver.1.1)
〜 Update on 24 JUL 2001 〜
主への賛歌 聖なるかな。汝、世界の主よ。 聖なるかな。汝、大自然の造らざるものよ。 聖なるかな。汝、広大にして強大なるものよ。 光と闇の主よ。 |
第1章 秘教の学問について
すべて、神秘的な領域を探求する学問は、不可避の壁に直面する。
集団で実践の外的な環境を整えることはできても、内的な環境を他人が整備するのは不可能である。
ひとり、ひとりの人間は、完結した小宇宙である。内的体験(心象)は、個々に異なり、同じ人間について考えても、毎回同一の尺度が通用する訳ではない。この霊的体験の再現性と評価の困難さが、多数の宗派、異端の成立の原因になってきた。そして、宗教戦争の名目上の口実でもあった。
秘教の学問は、この難関との戦いのなかから生まれたと言っても過言ではない。
しかし、霊的領域の認識を検証する手段がない訳ではない。
霊的体験の多くは、合理的判断ではなく、直観知で検証しうる。
例えば夢は、夢で解釈できる。そのためには、すでに霊的な知覚を数多く体験した(正しい)師匠がついているのが前提である。
ここで併せて、霊的な修行が何を意味するのか論じておかねばならない。
そのためには今一度、世界像を確認する必要がある。
この種の分野の説明をするとき、同じ言葉を別の意味に用いることが、あまりにも多い。
尊敬すべきフロイト老が「タナトスがニルヴァーナをもたらす」と言う時と、ガーフィールドが同じ台詞を用いたときでは、意味が180度異なる。(ケン・ウイルバー著『眼には眼を』吉福ほか訳 青土社 396ページ)。われわれの日常生活においても、会話がすれ違う場合は、この種の意味の食違いがある場合が多い。
さて、さまざまな秘教的集団が構築してきた宇宙観のひとつのサンプルとして、カバラの碩学(とは言え、小生同様にヘブル語には苦労された)ピコ・デラ・ミランドラの《中間の本質》(media essentia)を提示してみたい。
ミランドラの主張は、それほど目新しいものではない。
ネオ・プラトニストの祖のひとりプロティノスによれば、この宇宙は《一者》(ト・ヘン)からの流出により、ロゴスを経てヌースが生まれ、《知性界》を形成する。その《知性界》のコピーとして《感性界》が生まれる。人間の霊魂は、上位より下位に降下して物質のなかに入り込むが、死がそれを解放し、再び上位世界に戻る。つまり、イデア界と物質界を往復するのが霊魂である。(詳しくはかれの著作『エネアデス』を参照されたい。)
ミランドラは、これを別の言葉で語っている。
「主が創造の技を九分どおり終わられたとき、非物質の界と物質の界にそれぞれ住人はいるが、すべてを自分のうちに見る生き物はいないので、肉と霊を兼ね備えた被造物、アダムを創造した。従って、人間は自由意志で、超天界を指向して神に近づくこともできれば、物質の闇に沈潜して感覚のなかに溺れることもできるのだ。」と。
霊的・アィテール的属性のみ 非物質的属性 物質的属性のみ −−−−−−−−−−−−− 自由意志 −−−−−−−−− 超天界/アィテール界 物質的属性 地上界 諸神、天使、知霊、ダイモン 人 間 四大霊、動植物霊 |
しかしながら、このミランドラの視点は、自由意志を導入することにより、プロティノスの霊的革新よりも進歩している部分がある。われわれ人間は、内部にある知性を意識するか否かで、進化と退化の方向が決定される《不安定な知的生物》である。動物としての安定度、完成度から判断すれば、狼や鷹の方が人間より遥かに優れている。かれらは本能の導くまま、あるいは形態形成的運動場の導くままに獲物を取り、つがい、子を育てる。人間は基本的にどんなに当然の行動についてもひとまず考えずにはいれない。
しかし、前方と後方(あるいは上と下)の二方向の視野をもつことで、人間の選択肢は飛躍的に拡大する。
現在の一般的社会人の進化レベルは、合理的な価値判断を重視する《理性の時代》にある。逆に言えば、霊魂が《知性界》を離れて物質に埋没し始めてから、その合理的判断というヌースの能力の一部を開花させるまで、数百万年もかかっているのである。
それ以前の状況においては、幼児が主体と客体の差を理解できないように、原始人にとって心の内部にある恐怖は、闇のなかに現実に潜むものだった。かれらは自我がまだ確立せず、自分と自然の間にいかなる障壁も存在しなかったので、想像したものを外界に直接見た。従って、森の精霊を肉眼で見、話し、あるときは助けられ、別な場合は殺された。今日でも機械文明と合理主義が入りこまないアフリカやアジアの秘境と呼ばれる地方で、石器時代そのままの生活を送っている人々には、この呪術的世界観が常識となっている。日本でも理詰めの寺小屋教育が普及するまでは、山のなかに無数の妖怪や鬼が住んでいたのは、人間の心が自我の防壁をもたなかったからである。
しかし、われわれは科学技術文明に代表される合理的な思考を身につけ、個人差はあるにしろ強固な自我を確立した。そして、「何故」を言い始めた子供には、妖精が見えなくなる。現代人は合理的思考力という武器と交代に、過去の時代にもっていた能力、特技、属性を失ったのである。
ところが困ったことに、その現代人にとって、合理性が足かせになる場合がある。神/天使の方向を仰ぐのも、野生の息吹を見るのも、合理主義一点張りの現代人には、ひとしなみに神秘である。しかし、かれは方向を見誤る。
風を読み、森の声を聞き、獲物に出会うのは呪術的な力である。それは原始時代の狩人が持っていた能力だ。だが、「足が痛い」、「こんなこと無意味だ」、「早く帰らないと日暮れになる」などと《ぶつぶつ文句を言う》自我があっては、できることではない。自然と一体になる、つまり《忘我》になり、獲物を追う足、風を嗅ぐ鼻、影を追う眼に一体化できなければ、達成されない前合理的な意識状態である。
ところが、これは発達論からすれば退行/退化である。合理的に狩りを行うなら、勢子を使い、狐狩りのように訓練された犬を放ち、風下で銃を構えて待てば良い。そこには、呪術的な能力は不必要だ(もちろん、これは狩猟の方法論によるもので、動物的・呪術的な狩の方法が、原始的だから《悪い》訳ではない。要するに目的が達成されれば良いのだから。)。
一方、禅師について座禅を組む現代人の場合はどうであろうか。
そこには非合理的な《公案》が示される。考えても答えは出ない。
そこで、座禅を組む。ただ、座る。そして、呼吸を数える。ここで行われているのは、精神の内部雑音の消去、心の地平線の平滑化、思考の停止である。そこには「われはあるが、我はない」状態に近づくよう努力が傾注される。そして、主体から分離し公案のなかに溶け込み、突然、答えがある。
参禅というと非日常的で、特殊なケースと考えられがちだが、実は日常生活のなかでも、合理的判断のつかない決断を迫られる場合がある。企業の新規プロジェクトにワーキング・スタッフとして、参加して甲乙つけがたいが結果の極端に分かれる複数のオプションを前にしたとき、あなたは徹底的に経済動向、市場動向、原価計算、将来性、技術の発展、社内の派閥、社長の意図、ライバル会社の動向まで調べるだろう。そして、何度も計算し、会議を重ね、コンセンサスを造り、関連企業にプレゼンし、それでも合理的な決断が出ないことがある。オプションを選ぶのはあなただ。計画の発動日は迫っている。そのとき忽然と方向を示すのは直観である。あまりにも理詰めに検討したため、感覚野や情動野は出てこない。あなたは霊観と呼ぶかもしれないが、結果として、地方へ左遷されないですむ正しいオプションが選択される。これも精神の四機能のひとつである。
合理的思考でがちがちの人間にとっては、これらは等しく幻想的で、驚異的な出来事であろう。西洋人と違って、日本人は「困ったときの神頼み」が得意なので、これに違和感はさほど抱かないかもしれないが、呪的な狩人と直観に導かれるサラリーマンは、精神の別の機能を用いていることを理解しておかねばならない。
すなわち、前者は、ミランドラの言う《諸存在のヒエラルキア》の下位の部分と結びついた機能、原始的生命力のマナに関連する《肉の眼》の用法であり、後者は上位の部分に結びついた機能、超越的な霊的知性を喚起する《黙想の眼》の用法である。
心理学者ユングは《意識のスペクトル》なる興味深い言葉を用いている。そこで誤解を恐れずに、意識スペクトルの可視光線の中央に現在の《合理的な意識》を置くならば、その意識が這い出てきた過去の意識状態は、《赤、または赤外の意識》、すなわち《前合理的な意識》であり、原始的で生命力に満ちあふれた呪術的な領域である。一方、進化の圧力に晒されて、あるいは霊魂の内なるヌースを見つめることにより、もたらされる未来の意識状態は、《青、または紫外の意識》、すなわち《超合理的な意識》であり、霊的で、微細なものを指向することになる。
未来 ←−ヌースの射し示す進化のベクトル−− 過去 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 紫外線 紫 藍 青 緑 黄 茶 橙 赤 赤外線 超合理的な意識 合理的な意識 前合理的な意識 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ←超越的、黙想的−−理知的な思考−−汎霊的、生命力→ |
先の事例、狩人と参禅者/サラリーマンを見るように、人間はミランドラの言う《中間存在》なので、自由意志により、どちらの意識状態に変容することもできる。進化の道を巻き戻すか、よじ登るかの違いがあるだけだ。当然、そこには技術と訓練が必要で、出発点たる《中間の意識》にいつでも戻れるという技術的保証が前提となっている。《黄金の夜明け》団の儀式文書に、ミカエルの光の径とサマエルの闇の径は、二つながら人の子の進む径ではなく、その間を通る径をすすむべしとするものがあるのをご記憶だろうか。
超感覚的認識を得るため修行を始めたものが最初に出会う試練は、自分のベクトルがどちらを向いているかを判断することだ。これは魔術修行において、ことさら顕著である。現代の魔術は、意識スペクトルの赤から紫までを網羅しているが、多くの魔術書籍は技術を描写するだけで、その性質を明らかにしていない。
例えば、エーテル体ダブルの操作は、超越瞑想をいかに重ねても身につかない。それには、内的環流の制御(いわゆる《中央の柱の行》)が必要である。
一方、植物や土地のマナを吸収してアクア・マナを得ても、ロゴスに近づく訳ではない。(マナにより脳の力が異常に活性化されるので、この意識状態で別な修行を行うという間接的な補助手段になる可能性はあるが。)
しかし、ひとつの方向性、または指針というものはある。よほど偏屈なシステムでなければ、まず、飛躍に必要な肉体的基盤を整備し、つまり、前合理的意識を確かなものにし、あなたの自我の位置を固定してから、超合理的意識へのステップを踏ませるだろう。足下を固めてから前進するのは、スポーツの練習と全く同じである。これを称して、聖イグナティウス=ロヨラは、「肉体を鍛える体操というものがあるように、霊的認識を鍛える霊操があるべきだ」と語ったのである。そこには緻密な方法論と、明確なゴールがなければならない。
もし、この手順を踏まずに、意識のベクトルを前後に振るような修行をさせる教団があれば、それは正しい伝統に立脚していない《インチキ教団》である。また、そのような霊的指導を行う教師は(本人が意図しようとしまいと)《邪師》である。われ知らず《野狐禅》になっては、回復不能の傷を生徒に与える危険があるのだ。
わたしの所属する《魔術の学院》では、次のような段階を踏んで学習を進めさせている。
上位のレベルについては、わたし自身が到達していないので伝統の示す指針であるが。おおむね、おかしな所はないだろうと考えている。
| セフィラ | 支配(象徴)神格 | 主要な目標 | 実 践 等 |
マルクト イェソド ホド ネツァク パロケス |
↑HRV四大分神格 | HV ↑ | | ↓ | ↑ | |
四大の枠組 地の超克 アレフの超克 メムの超克 シンの超克 深淵の認識 |
PROB/NEOの作業 ZELの作業 THEOの作業 PRACの作業 PHILの作業 POTLの作業 |
| ティファレト ゲブラー ケセド ダース |
| RHK | | | ↓ HPK HRI |
下位神格の統合 霊智の認識 上位神格の統合 深淵の吸収 |
AMINの作業 AMAJの作業 AEXPの作業 INFの作業 |
| ビナー コクマー ケテル |
| | ↓ |
創造母体の統合 元型の統合 無形の統合 |
MTLの作業 MGSの作業 IPSの作業 |
第2章 ある霊的団体における修行過程
第1節 プロベイショナーの作業 《四大の枠組みの構築》
われわれの《魔術の学院》では、準備のために仮入会した者たちを、プロベイショナーと呼ぶが、秘教の伝統において、かれらに課せられる行は、ほぼ同じである。最初にかれらは、自らの四大の枠組みを構築、あるいは再構築させられる。それは、聖ボナヴェントゥラの言う《外的な下位の啓発》を確保するためである。その方向は、内方と外方に均等に向けられる。
| 外向きの啓発(lumen exterius) | 内向きの啓発(lumen inferius) |
| 観察力の鍛錬、記憶力、《外的気づき》の確保、日拝、逆行瞑想、秘教的理論の学習、各種の肉体的鍛錬など | 《内的気づき》の醸成、影の視野、LBRP、祈り、初歩的な観想法メンタル・イメージの練成、段階的な瞑想法など。 |
さて、これらの修行過程で何が起こるか。個々の修行対応で述べると紙数がいくらあっても足りないので、一般化して語ろう。
修行者は、秘教の伝統に従って、指導者(審霊者)について作業を開始したと仮定する。瞑想技法としては、観想法(contemplatio)に該当するもの、つまり、カバラの《ヒトボネヌート》の導入部、魔術の《道行き》、イエズス会の《霊操》の初期部分、心理療法の《メンタル・イメージ》、ユングの《能動的想像力》、心身医学の《イマージェリー・セッション》のような誘導法をするものを想定する。
いわゆる観想行を積み始めると、最初に過去の感覚的意識の残滓が溢れ始める。あらゆる種類の奇妙な記憶の断片が、隠された感情、取るに足らない記憶、単に忘れ去っていた風景、強烈な情動を伴う過去の出来事、意味不明の感覚的記憶など、渦を巻くように感覚的意識(前合理的意識)に関連するイメージ、言葉、情景、感触などが吹き出してくる。これらは真昼の微睡みのさなかに見る夢のようなものである。実際に、とりとめもないイメージの連鎖であることが多い。従って、何が見えても精神の夾雑物として捨てなければならない。
ローマの諺に曰く、「犬はパンの夢を、漁師は魚の夢を見る」(canis panem somniat,piscator pices)という状況が生起するのである。
指導者(審霊者)は、弟子の報告を受けて、気にせず続けなさいと指示する。実際、この段階では秘教的訓練を始めた修行者は、最初の体験に驚き、とまどっているだけである。例外もあるが、修行者が精神病または、神経症患者でない限り危険はほとんどない。(わたしは実際に神経症のクライアントと接触したことがあるが、審霊者は精神的に脆い弟子を発見したら、作業を中止して医者に相談させるべきである。今日では医薬も相当発達しているので、妙な気負いは持たず、《カエサルのものはカエサルに返す》覚悟が必要だ。)
観想法に馴れ出すと、本格的なイメージの洪水が現れる。
そのとき、意味ある夢のように物語性をもって現れるものもあれば、あなたに語りかけてくる登場人物もいる。しかし、ほとんどは相互に関連がなく、次々と出現する映像の連続が中心となっている。万華鏡のようなカラフルな図形、同心円状の波など元型的な画像を見ることもある。観想者の意識は醒めているが、サイケデリックな夢に似た世界を経験する。
しかし、まだこれは《漁師の夢》なのだ。単に心が《見ること》に馴れてきたのに過ぎない。無意識の基底部と接触し、その情報のフローにアクセスしたのである。魔術的表現では、この膨大な情報源を《霊的貯水池》と呼んでいる。
ここで、無造作に《無意識》という単語を用いたが、これは意識的対象の抑圧としてのフロイト式《狭義の無意識》ではない。わたしは《無意識》とは昼も夜も常に流れ続けるもので、昼間の《意識》こそ、この大海の上に乗るさざ波に過ぎないというユングの見解に賛成している。抑圧される/されないに関係なく人間の無意識には、膨大な広がりがあり、前合理的な物質的、感覚的世界に属する闇の領域もあれば、まだ意識化されていない超合理的な領域も存在すると考えている。無意識にこそ、《意識スペクトル》の全域が内在しているのだ。
例えば、ジョルダーノ・ブルーノによると、犬に引き裂かれたアクタイオーンの神話は次のように解釈できる。アテナ(神性)はすでにアクタイオーン(探求する人間)の内部に存在するのである。要はそれを意識して生きるか否か、探求の矛先をどこに向けるかが問題である。
| 「アクタイオーンは神性を自己のうちへと縮体したので、自己の外に神性を探す必要はなくなった。・・・その意味は、狂気に満ちた、感覚的な、盲目で幻想だらけの世界での生を終え、知性的に行き始める。」(ジョルダーノ・ブルーノ『英雄的狂気』加藤守通訳) |
あなたが修行の最初に直面したイメージの洪水は、評価されない情報のフローであるから、ミランドラの言う《地上的なもの》(terrestrium)、つまり《無意識のスペクトル》の赤側に直結している。それは記憶だったもの、あるいは記憶になるべきもの、または記憶になりえないもの、要は、物質化した情報なのである。
注意すべきは、この段階で《見たものの意味》を求めようとしないことだ。依然として、マルクトの球の諸相を眺めているには違いないのである。
さて、修行者と指導者(審霊者)は、観想法の次の段階、質的な変容が、どこから始まるかを注意深く見定めねばならない。
先に述べた技法を続けていると、ランダムな情報のフローは終了し、プラトンが『饗宴』で語った《ダイモン的人間》(daimonios aner)の見る《大いなる夢》(oneiros)が始まる。これは観想的技法に特徴的なことであるが、次のようなドラマティックな展開が始まる。個人差が大きいので、全部一度に来るときも、少しづつ分割して始まる場合もあるので、指導者(審霊者)は特に注意を要する。
☆ 光景が連続して現れ、夢見のように物語性をもつ。
☆ 周囲の情景が完全に立体化しており、色彩を伴う。
☆ 自分の《光体》が観想界に入り込み、行動する。
☆ 繰り返し出現する《案内者》と呼ばれる元素霊が登場する。
☆ 登場人物との対話が始まり、必要なときに誰とでも話せる。
☆ 与えられた課題や、現在の自分の状況に示唆を与える出来事が起こる。
☆ 生身による飛行、海底歩行、星界探検、暴力による死亡、エーテル体の
分裂、肉体の再生等の物質界では、あり得ない体験が生じる。
☆ 神、天使、四大霊、悪魔、魔王などが出現し、やりとりがある。
あなたはマルクトの内部に埋没した状態(《黄金の夜明け》団の神話図像学のうち、『喪失後のエデン』におけるイブを参照)から、マルクトの球の上に立ち、地平線の四方点の四人のHRVを見渡す場所に移動している。この段階では、あなたは神話的素材を介して、自分の内部にある《神的なもの》にアクセスしうる座標に到達している。これがプロベイショナーの一年間の修行における具体的なゴールである。《黄金の夜明け》団の伝統に従えば、準備作業は終わり、ここから魔術師の修行が開始される。
なお、具体的なカリキュラムについては、こちらを参照されたい。
第2節 0=0 ニオファイトの作業 《四大の枠組みの拡張》
これから先は団の守秘規定により、細部を語る訳にはいかないが、一般論として続けてみよう。現代西欧の《魔術の学院》は、カバラに立脚しているので、おおむね同じような修行システムを採用している。
◎ 観想(道行き/ヒトボネヌート)
前述の《観想法》は継続される。そこでは、内的対話、つまり情報処理が重視される。
自壊した《立法石教団》のようにアストラル・ジャンキーを大量発生させないよう気をつけねばならない。
すでに思念体作成のノウハウは確立しているので、《観想法》に自分の自由になる《僕》を導入すると《霊的カウチ・ポテト》状態になってしまう。特に異性の登場人物の出現に注意する。それが必然なのか、隠れた欲求なのかを看破すること。観想における性の問題は、最初から抑圧する必要はないが、ストイックである方が望ましい。イエズス会の霊操では、厳しく禁じられているところだ。
魔術とは、意志の鍛錬、《真の意志の確立》でもあるから、霊的投影に溺れる者はすでに資格がない。この件については、《黄金の夜明け》団外陣文書にある四大霊に対する術者の心構え、が大いに参考になる。弱者を虐げるなかれ、強要するなかれ、それはすべて汝の属性に跳ね返る。伝々・・・
◎ 中央の柱の行法
基本的な体内回路の確立が行われる。感覚の世界にダイナモを構築する試みである。これは継続して行われ、セフィロトの移植、柱の構築等により瞑想技法に結びつけられる。それにより、四大を基盤とする肉体の神殿に大宇宙の座標が設定される。
《立体天球》を基本的視野に入れた《黄金の夜明け》団の技法は、カバラにおける《椰子の木》の技法などより巧緻であり、より実践的に構築されている。
最大の目的はアダム・カドモンの座標化であるが、当面の小目標としては四大の活性化が図られ、感覚世界により強固な足場を築くこととされる。
この技法の問題点は、エーテル的チャクラの活性化である。七ではなく、五つの中心が設定され、肉体の内分泌腺との接合は緩和されてはいるが、ときおり開く者がいる。指導者(審霊者)は、それをチェックしなければならない。
逆に体内回路については、《精妙な流体》が抵抗なく流れるように徹底的に掃除しておくことが求められる。
◎ 生まれなき者の儀式
生まれなき者(ハムメミット)は、無形の上位霊である。
《盃の技》、すなわち召喚により、四方点に対応座標が設定され、聖別された神殿の中央、術者自身に無形の霊が注がれる。(リガルディー『召喚魔術』国書刊行会 参照)
ここで初めて、修行者は《制御不能な不定形の諸力》に直面する。中世人が《天界の知霊》(caelestia intellecti)と呼んだもののうち、最も恐るべき存在と対面するのだ。なぜなら、《生まれなき者》は《名前なき者》でもあり、実は術者の《内部の星座》に属しているからだ。
心理学的な用語では、ケン・ウィルバーの定義による《抑圧された発現無意識》(『眼には眼を』吉福ほか訳 192ページ)の強制的な統合ということになるだろう。むろん、霊的に危ない橋を渡っていることを別の言葉で表現したに過ぎないが、これは魔術師として自己を拡張するために必要なプロセスである。
当然のことであるが、綿密な指導が必要である。
◎ 五芒星儀礼
これは《検閲者》を自分で創り出す試みである。また、《力流》を望みのままに制御する訓練でもある。
◎ 竜の術式及び神殿作業
省 略・・・当団だけに関わることなので語ることはできない。
これ以降については、《雲をつかむ》ようなことしか言えない。
古流の柔術では《霞をうつ》とも言うが、秘伝とされることを公開するのは本意ではない。
だが、先に示した指針で概略おわかりのように、ミランドラの言う「天上的なものと地上的なものの絆と結び目」(caelestium et terrestrium vinculum et nodes)たるべき人間は、等しく天にも地にも手を伸ばし、全てを把握し、その統合を図らねばならない。
そのための方法は様々である。カバラの瞑想法は、ヒトボネヌートからヒトボデドゥートに変化する。これは《孤絶》と呼ばれる完全な外的/内的情報の分離を含む修行である。ヒトボデドゥートを開始すると、合理的認識は一時停止される。考えることはなく、感じることもない。ただ、深みにある神のロゴスに耳傾けることになる。アブラフィアなどの《恍惚の行者》たちは、言葉を失った状態で忘我の涙を流し、或いは灰をかぶって嘆く。わたし自身はアリの行法を採用しているが、ヘブル文字のマニュピレーションを伴う効果的な方法である。
ジェレイター以降の修行では段階を経て、超合理的意識の顕在化を進めていくことになる。しかし、そのとき前合理的意識や日常生活を営むのに必要な合理的意識が捨て去られる訳ではない。われわれの修行法では、一時的にはともかく《恍惚の聖者》であり続けることは排除されている。あくまで上昇弧のあとには、下降弧が用意されている。下位なる世界は、上位の世界に統合されるべきであって、劣ったものとして破棄されてはならない。
修行に望む方法論や技術は、さまざまだが、われわれの《魔術の学院》における修行態度は古来不変である。「学び終えたら末弟たちに教えよ、次に自分がより遠きを学ぶために」そして「奉仕するために学べ」である。説明は特に必要ないと思う。この連鎖でシステムが継承されてきたのである。
神とは《形なく虚しきもの》である。わたしは、《下位神格の統合》から《霊智の認識》へと、拙い歩みを続ける一修行者に過ぎない。わたしが学んできた《魔術の学院》はひとつではないし、究極の意味では常にひとつでもあるが、そこにおける修行は、先行するシステムの継承と新たな技術と哲学の完成に従事してきた。
カバラの伝統は、修行者が《肉の情熱》を克服できる年齢(三十代とされる)まで修行を禁じてきた。今日では、些か曖昧になっている基準だが、イスラエルのカバラの実践機関によると、《ターメイ・トーラー》を学び終えてからでなければ、《シトレイ・トーラー》を開始させないという、もうひとつの規範は今も守られていると言う。もちろん、《シトレイ・トーラー》は家庭で片手間にできるものではなく、熟練したラビによる厳しい指導が必須とされる。故アレイ・カプランによるると、この規範が《千人会議》で決定されたのは、モーゼス・レオンが編纂した『ゾーハルの書』の描写するラビ・シモンの時代のことである。
従って、伝統の連鎖のなかで、自らが指導を受けながら修行し、次に指導者(審霊者)となって弟子を指導し、再び、修行者となることを繰り返してきたのである。
これらが《僧院の魔術》(Magic of Monastery)と呼ばれるシステムの概観である。
しかし、グノーシス主義者の三十のアイオーンの統治は、遥か過去のものとなり、アレイスター・クロウリーは《ホルスのアイオーン》の到来を宣言し、その弟子のフラター・エイカドは《マートのアイオーン》を預言した。電子化電脳化した現代社会では、情報の分散と共有、リアルタイムの交流が要求される。もはや時の流れの彼方に、深い山林に囲まれた修道院を確保できる時代ではない。この新たな世界に台頭してきたのは、もうひとつの潮流である《個人主義の魔術》である。
個人主義とは、最大限の自由意志と、最大限の個性の尊重に基づく魔術の新しい流れである。この新しい魔術は、従来の《僧院の魔術》における否定的な側面を忌避するものだ。それは規律と位階に束縛された《奴隷的な魔術の修行法》とは一線を画する画期的なシステムだと主張されている。 宝瓶宮の時代の到来が叫ばれて久しいが、もちろん新時代とは星の回転がもたらすものではなく、我々人間の意識の変革がもたらすものである。ただし、《個人主義の魔術》の根は、遥かな過去にある。それはグノーシス思想である。
『ナグ・ハマディ写本』の発見により、キリスト教揺籃期の一時期に正当派(後のカトリック)とグノーシス派が、霊的権威を争ったことが明らかになった。それはキリストの霊性は、ペテロと使徒の正当な霊的後継者である司教、司祭、助祭など聖職者が構成する教会のみが伝授できるとする正当派と、キリストの霊性はデミウルゴスの欺瞞を突き破った者のみが個人的に覚智しうるというグノーシス派の深刻な政治的対立であった。
エイレナイオスの『教会史』は、ヴァレンティノス派のグノーシス主義者たちが、会合の都度くじを引いて司教、司祭、助祭の役割を男女を問わずに降り当てたことを非難している。グノーシス派の人々は、教会の役職を絶対的権威とは認めず、典礼における役割分担は毎回変えて固定しなかった。ヴァレンティノスの言う《贖い》を得た人々、つまりグノーシスの秘儀参入を受けた者は、支配被支配の関係に入ることを嫌ったのだ。これは現代のウィッチクラフトの幾つかの流派でも見られる傾向である。
《僧院の魔術》における霊的な管理思想や位階構造は、天上の権威は教会の権威に等しいとする正当派の教会に似ている。一方、《個人主義の魔術》の自由な発想は、古きグノーシス派の思想に似ているのだ。
さて、日本でも、個人の尊重、労働時間の短縮、意義のある仕事などが求められきている。それは家父長的支配の組織から、個人重視の組織に社会が脱皮していく過程を示しているのかもしれない。伝統墨守の魔術も、変化する時代と無縁ではいられない。
しかし、そのために古き《僧院の魔術》を全面的に否定する訳ではない。《魔術の学院》や、《長兄の指導》にも意義はあるのだ。《僧院》には独自の役割があり、果たすべき仕事がある。
さて、《個人主義の魔術》は辛く困難な径でもある。魔術に関する舞台を、全てを自分で開拓して行かねばならない。何故なら、《個人主義の魔術》の到達点を見ることができるのは、自分ひとりだからだ。魔術において最も大切なのは、象徴体系に基づいた訓練法であるとされるが、その作業を助けてくれる者もいない。
当然のことながら、痒いところに手が届くマニュアルなどは存在しない。どの書物にも意図的であるかどうかを問わず、必ず穴があり、不十分な点がある。完全な援護を他者に期待するのは間違いであろう。《僧院の魔術》でも、そこまでは行わない。《個人主義の魔術》の実践者は、既に出版されている関連書籍などを貪欲に探求して、疑問点をひとつひとつ解決していかねばならない。
そして、これは最も辛いことかもしれないが、誰もその成果を褒めてはくれない。《僧院の魔術》では、師匠と弟子の強い結びつきがあり、いわゆるグル/チェラ関係が成り立っている。そこは、熱心で、かつ能力ある弟子には、居心地の良い場所であろう。
これまで見てきたように、昔は、個人でできることなど、たかが知れていると言われた。
《僧院の魔術》と呼ばれる古めかしいシステムに参加し、戒律と秘密保守の誓いに縛られながら、あたかも雛鳥のように指導者から嘴に知識を流し込まれるのである。師匠なくして弟子もなし−であった。しかし、現代西欧の魔術結社においても指導者と教儀の玉石混淆は激しく、魔術という言葉を商売に使う輩から、長い「秘教の学院」の伝統を保持してきた良心的な小集団まで、その振幅はあまりにも大きい。まして、日本における魔術結社や魔女集団は成熟しているとは言い難い。そこで、市販の書物を中心として「師匠なしで自学自習する」必要が生じてきた。
この Do it yourself! の発想が必要となってくるだろう。
これが「怪しげな師匠ならば、いらない!」と宣言する目の肥えた現代の若者たちの支えになれば幸いである。
付言して、結びとする。
− 『実践魔術講座』下巻 序文の一部改稿 −