危険なディベーターたち
(株)岩波書店「世界」1997年3月号所収  
 

最近ディベートが「流行り」である。

ディベート自体は日本に紹介されるようになって、まだ十数年程しか経っていない。

日本社会人ディベート連盟が創立されたのが85年5月、日本ディベート協会(JDA)が発足したのが86年3月のことであった。

この間、大学のサークルやテレビ番組の中で、ディベートはそれなりに行なわれてきたが、「流行り」というほどではなかった。それがここにきて、何となく「流行っ」てきている。

 この一年間でも、北野宏明著『 ディベート術入門』(ごま書房)、北岡俊明著『ディベート入門』(日本経済新聞社)、北岡俊明著『ディベートの技術』(PHP研究所)、松本茂著『頭を鍛えるディベート入門 』(講談社)等入門書の出版が相次いでおり、教育関連雑誌等でもディベートを教育現場に取り入れようという特集が花盛りである。

ディベートを提唱する人たち

日本ディベート協会理事で、学生時代より数々のディベート大会で優勝、米国ピッツバーグ大学ディベートチームのコーチングスタッフを務めたこともある北野宏明氏は、前述の『ディベート術入門』の中で、「多くの日本人は、物事を論理的に考え、的確に表現するという技術が不十分なのです。

……では、どうしたらよいのでしょうか。

頼れるのは、自分の 思考力です。論理的思考力、情報収集・分析・評価能力、システム思考によって、自分のビジョンを打ち立て、それを行動原理とするのです。

つまり、自分で考えるということです。じつは、いま述べた“思考力”こそが、……ディベートの本質です。」と書いている。

また名古屋外大教授で英語道塾弘道館館長として有名な松本道弘氏は、『やさしいディベート入門』(中経出版)で、日本人がディベートを学ぶメリットとして、

@客観的分析力が身につく、

A論理的思考力が身につく、

B発表能力が身につく、

Cよりよい聞き手になれる、

D情報収集力が身につく、

の五つを挙げている。

確かに、多くの日本人が論理的に物事を考え、的確に表現するという行為を苦手にしている、或いは自覚していなくても実際下手であることは、間違いない。

このことは、わたしが地方議員としての活動の傍ら、大学受験予備校で受験生たちの現代文の答案を毎年一万枚程採点している経験からも明らかで、ここ数年の受験生、特に東大等を受験するような総合成績が上位の受験生たちの国語力の低下は目を覆うものがある。

しかし、だからといって、北野氏が言うようにディベートが特効薬たり得るだろうか?答えは否である。

 そもそもディベートは、ある一つの論題について肯定側と否定側とに分かれ、それぞれ立論、反対尋問、反駁を行なうことにより、論理展開力の優劣のみによって、中立的な第三者を説得するというスタイルを持つ「競技」である。

しかし考えてみれば、これは非常に不自然なスタイルである。

議論している相手を説得するのではなく、第三者を説得するという行為は、少なくとも日本社会の中では、当のディベート以外にはない。

北野氏を始めとするディベーターたちはアメリカ大統領選挙におけるディベートをその典型として示し、刑事事件の法廷をディベートと同じ本質を有するものとして説明している。

しかしそれは間違いである。アメリカ大統領選挙におけるディベートは、第三者=有権者にその様子を見せて自己の優位を印象づけるという目的を持つ点では、典型的なディベートと言えるかもしれない。

しかしながら、この場合の第三者=有権者が純粋に中立であるということはあり得ないから(もしあり得ると考えているとすれば、余程の世間知らずである)、その点で肯定側・否定側・中立的な判定者というディベートに必須の関係は前提として成立しない。

刑事事件の公判では、当然裁判官も尋問に加わるから第三者たり得ず、多くの場合被告も罪を認めているから、その場合には肯定側―否定側という関係すら成り立たない。

ディベートには社会における現実味は非常に薄いといえよう。

その理由は簡単である。すなわち、ディベートという競技では、競技者自身が論題に関してどのような主張を持っているかは、全く関係ないからである。

人間社会において人が議論をするとき、自己の主張を相手に説明し理解させる為に例外なく一種の「情熱」をかける。

それはその主張が、自分がそれまでに経験してきた総てのこと、いわば自己の存在の上に形成されたものだからである。

ディベートにはこの部分が本質的かつ決定的に欠如している。

そこには議論をする主体は存在せず、ただ純粋な論理展開のテクニックのみが存在する。これは、現代日本にとって大変危険なことである。

日本に於ける国語教育

ここで少し話を変えよう。

前述のようにわたしは市議会議員を務める傍ら、大手大学受験予備校で現代文の採点講師を務めている。

六年前に議員に初当選する前もこの予備校の本部職員として受験生教育に携わっていた。

その経験から痛切に感じていること、それは、日本の教育において国語があまりにも軽視されているということである。

例えば、大学入試の配点は多くの大学で国語の配点よりも英語の配点の方が高いし、そもそも国語では点数の差がつきにくい(標準偏差が小さい)から、教育現場でも必然的に国語が軽視されてしまう。

これが日本人、ひいては日本社会に与える影響は何だろうか。当たり前のことだが、日本人は「日本語」でものごとを考え、「日本語」で考えを表現する。

この場合の「日本語」は「標準語」のことではない。日頃使用している言葉(=母語)である。ところがいま、子どもたちに苦手な科目を尋ねると、必ずといっていいほど「国語」という答えが返ってくる。

生まれたときから「日本語」の中で育ち、毎日「日本語」を遣っているにもかかわらず、である。苦手なのは、教える側にしても同じである。

思うにそれは日頃遣っている「日本語」と、教えられる科目としての「国語」との間に大きな乖離があるからである。 「国語」を教師はあくまでも科目として教え、子どもたちはあくまでも科目として教わる。

つまり「お勉強」の対象としてしか捉えられていないのである。これでは子どもたちが「日本語」に対する興味・関心もなくすのも当たり前である。

これが危険なのである。

国語教育が担っている本当の役割は、正しい「国語」を教えることもさることながら、何よりも、自分の頭でものごとを考える能力を身につけさせることである。

他人の意見に耳を傾け、自分の頭で思考し判断する。そして自分の意見を的確に表現する。

その為に国語教育が存在するのである。ところが現在の国語教育は、この最も重要な役割を果たしていない。

その結果、ろくに文章も書けない子どもたちが量産されるのである(「ろくに書けない」くらいならまだましである。模擬試験の記述・作文問題で、白紙答案の何と多いことか)。

文法も大事だがそれはイイタイコトがあってのこと、イイタイコトがない状態で一体何を表現し、主張するというのだろう。

ディベートは危ない?

さて、議論をディベートに戻そう。最近、ディベートが話題になる事件があった。

「オウム真理教事件」である。あの上祐史浩被告と都澤和子氏は優秀なディベーターであった。

特に元教団外報部長上祐被告の弁舌は「ああ言えば上祐」という流行語を生み出すほどであった。

実は前述の北野宏明氏は、直接この二人にディベートを教えた人物である。

もし北野氏が言うような効用をディベートが有しているのなら、何故優秀なディベーターが二人もオウム真理教のようなものにはまり込み、しかもその中核メンバーになってしまったのか。

先に国語教育の話をしたが、その中にこの疑問を解く鍵がある。自分のあたまで考えることを教えない教育を受けてきた人たちが、日本語であると英語であるとを問わずディベートの技術だけを身につけた場合どうなるか。

それはいわば「仏作って魂入れず」という状態であり、ディベーターとして優秀であるということは、非常によくできた「魂の入っていない仏像」であるということになる。逆に言うと、ここが大事なのだが、後からどんな「魂」でも入れられるということである。たとえそれが「悪魔の魂」であっても。

あくまでもディベートは、与えられた「立場」にたって論理を展開していく技術を競うゲームである。ということは、ディベーターとして優秀であればあるほど、いかなる「立場」であってもそれを展開していけるということである。根本的にその「立場」が正しいか誤っているかは、ディベートには一切関係ない。
 まさにこの点が問題なのであって、上祐被告や都澤氏がオウム真理教にのめり込んでいき、教団内部で重要な地位を占めるに至ったのは、松本智津夫被告等によって植え付けられた「教義(=立場)」をまさに純ディベート的に展開させてしまったからである。こういう危険性を、ディベートが本質的に有していることは間違いがない。

ただ、誤解を避けるために言っておくと、わたしは、「ディベート的手法」自体は、思考方法の訓練としては、あるいは自分の理論の欠点を探す手段としては有効であると思っている。実はアメリカでも、ディベートは政治家や法曹といった特定の職業を目指す人たちの、あくまでも思考訓練の手法として、主に用いられている。それが本来のあり方だとわたしは考える。

 最近、藤岡信勝東大教授の「自由主義史観研究会」を中心とするグループが、従軍慰安婦の記載等を巡って反教科書攻勢を強めている。96年12月2日には、「新しい歴史教科書をつくる会」を結成し、現行教科書の近現代史の記述について、「自虐史観」であると決めつける声明を発表した。氏らは旧日本軍が太平洋戦争中に行なった数々の残虐な行為の戦争犯罪性を否定し、「大東亜戦争を侵略戦争であったとするのは一方的である」、と主張する。

 そもそも藤岡氏は歴史学者ではない。教育学が専攻で、近現代史に関しては全くの門外漢である。氏は授業法研究の一環として92年から教室ディベートを提唱し始めた。氏は「歴史教育の最大かつ究極の評価基準」を、「日本国民がこれからの時代をより幸せに生きていくための基礎的教養を身につける機会」になっているかどうかであるとし、現行教科書に日本の過去の戦争犯罪行為を掲載していることが、この理想を妨げていると考えている。

 その上で、歴史を「資料の発掘と分析の進展によってのみ」ではなく、「時代の現実そのものの変化によっても」書きかえられねばならないものと定義づけている。この「時代の現実」を確定させるための手段としてディベートを位置づけ、教室で、自らの「政治主張」を一方の立場として設定し、自らが判定者となって子どもたちにディベートを行なわせる。いくらディベートの勝敗が論理展開力の優劣によって決するとはいえ、教師によって「勝ち」と判定された立場を、学習途上の子どもたちが史実であると信じ込んでしまうのは、自明の理であろう。

 現在の氏らの反教科書攻勢は、このようなディベートによって生み出された仮想現実を土台にしているのだ。

 本来ディベートは真理確定の手段ではない。与えられた立場が真理かどうかにかかわらず、純粋に論理展開力の優劣を競う競技なのである。

 これはディベーターたち自らが認めていることでもある。あくまでも史実は史料や遺物の集積の上に確定されるもので、いくらディベートで勝ったからといって、そのことで歴史的事実を確定したり書きかえたりすることなどできない。

 ディベートで得られた結論を歴史の真実だと思い込んでしまったところに、藤岡氏の大きな間違いがある。そもそも「大東亜戦争は自衛戦争であった」などという主張は、時代遅れもはなはだしい特殊な政治的主張であるにすぎないのに、あたかも相対立する二大論点の一方としてディベートの論題とすること自体、ナンセンスである。

 しかもこれを生徒の絶対的評価権を教師が握っている、いわゆる特別権力関係が成立している教育現場で行なうことで、戦後の歴史学が地道な努力を重ねて積み上げてきた研究成果を「詭弁的に」突き崩し、何らの根拠もない自分たちの「政治主張」をあたかも「歴史的真実」であるかのように、子どもたちに植え付けようとしているのである。その欺瞞性は明治図書から出版されている「『近現代史』の授業改革双書2 歴史ディベート『大東亜戦争は自衛戦争であった』」(藤岡信勝編著)を見れば一目瞭然である。

ディベートと人工知能研究

 

 ところで、実はひとつ気になっていることがある。それは、前述の北野氏の本業である。彼は優秀なディベーターであるが、同時に人工知能・人工生命の研究においては、日本のトップクラスの学者である。彼の考えによると、人間の脳の働きは総て化学物質の化学的反応の産物であり、化学反応である以上それは総て電気信号(=デジタル信号)に置き換え得る、即ち人間の脳も最終的にはコンピュータに置き換え得る、というものである。

 このことは、仮定としては必ずしも間違ってはいない。人工知能の研究者たちは皆同じ仮定の上に研究を進めている。北野氏もその前提に立って遺伝的アルゴリズムの研究を進めてきた。遺伝的アルゴリズムというのは、簡単に言ってしまうと、コンピュータのプログラムが、自分で、しかも突然変異をも起こしながら進化していく、というものである。この理論そのものは産業機械を始め様々なものに応用できる有益な理論であるが、こと人工知能・生命への適用に限って言えば、非常に危険な考え方でもある。つまり初期値だけを設定してやると、電源を切らない限りプログラムが勝手に進化していくということなのである。

 北野氏の研究は、そのコンピュータに将来的には思考する力を身につけさせようというものだが、それがどんどん進化していくと、そのコンピュータたちは、自分の電源を切れる、即ち殺すことができる存在=人間を敵視するということに、理論的にはなる。勿論現在の技術レベルから考えると夢物語かもしれない。それこそSFの世界だと笑われるかもしれないが、しかし、ロボットが自己増殖していく世界を、北野氏は真剣に夢見ているのである。彼がこの分野のトップクラス研究者で、それなりの地位と影響力を持っていることを考えると、わたしは背筋に寒いものを覚える。

 わたしがこの話を持ち出したのは、何も人工知能研究を否定したいからではない。北野氏が研究しているこの遺伝的アルゴリズム(ソフトウェア)とコンピュータ(ハードウェア)との関係が、まさに北野氏が広めようとしているディベート技術とディベーターとの関係にうり二つだからである。

 主体的に思考する力を持たないのに、論理を展開する力だけを持ったディベーターにある論題の一方の立場を与えるという行為は、自ら進化するプログラムに初期値を設定する行為に相当する。

そして突然変異をも一定の確率で発現させる遺伝的アルゴリズムが、初期値の正誤判断をせずに計算をし続けて進化するように、ディベーターはディベート技術を駆使して、その善悪・正誤に拘わらず、与えられた「立場」で相手に勝とうと努力を重ねる。この時のディベーターは、いわばコンピュータのハードウェアでしかない。この妙な符合は偶然の一致だろうか。

 実はわたしも、ディベートを詭弁の少し高等なもので、大学弁論部のどうしようもなく権威主義的な学生たちや、ESSの西洋かぶれした学生たちの「お遊び」に過ぎないと思っていた。しかし日本にディベートを持ち込んだ張本人である北野氏の二つの顔の通底性に気づいた時、日本語教育にかかわる者の一人として、警鐘を鳴らしておく必要を感じたのである。

おわりに

 重ねて言うが、わたしは何も「ディベート的手法」自体を否定してはいない。確固たる自我の確立、思考の独立がないところで、ディベート技術だけを磨くことが危険だと言っているのである。松本道弘氏の言う五つのメリットは逆立ちの議論で、実はそういう能力に長けている人に優秀なディベーターになる素質があるというだけのことである。それを学ぶことに決定的なメリットはない。

まず為すべきことは、子どもたちに、生活に根付いた母語=日本語でしっかりとものごとを考える姿勢を教え、表現する力をつけさせることである。

その為にも国語を総ての学問の基礎として位置づけ、その上で文法や漢字といった、「型」に拘泥する従来の教育課程を見直すことが肝要である。点数に追われることなく、また一方的な文章解釈を押しつけられることなく、自由に「日本語」を楽しめるようになった時、子どもたちは初めて自分のあたまでものごとを考え始めるのであって、ディベートを学ぶのはそれからでも決して遅くはない。

国語を「お勉強」の対象から解放してやることこそが、現在の日本社会が抱えている様々な病への最も効果的な処方箋ではなかろうか。

 


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